第114話:特製牛肉鍋と、暖炉の前での乾杯
パチパチと乾燥した薪が心地よい火の粉を爆ぜさせる暖炉の前、木目の温かな丸テーブルを囲んで、三人の小さな祝宴が始まった。
鉄鍋の重い蓋が開けられた瞬間、甘辛い特製醤油ダレと、上質な牛脂、そしてじっくり煮込まれた白ネギの芳醇な蒸気が部屋いっぱいに立ち込め、空腹の胃袋を猛烈に刺激した。
鍋の中央には、鮮やかなサシの入った極上の薄切り牛肉が幾重にも花びらのように敷き詰められ、その周囲を琥珀色に煮含められた焼き豆腐、春菊、椎茸、そして極太の葛切りが贅沢に彩っていた。
「わあ……! なんて素晴らしい香りですの! 公爵邸の晩餐会で出されるフランス風の煮込み料理にも引けを取りませんわ!」
エルネスタがアイスブルーの瞳をキラキラと輝かせ、両手を胸の前で合わせた。
「へへーん、驚いたかいお嬢! 下町の職人は力仕事だからな、スタミナをつけるための秘伝のタレがあるんだぜ! 醤油と味醂と砂糖、それに隠し味に親方が調合した林檎酒を少し垂らしてあるんだ! さあさあ、熱いうちに召し上がれ!」
トビーが器用に木箸を操り、柔らかく煮上がった大判の牛肉をエルネスタの深皿へと丁寧に取り分けた。
エルネスタはふうふうと小さく息を吹きかけ、一口その肉を口へと運んだ。
次の瞬間、彼女の整った眉が驚きに見開かれ、頬がとろけるような至福の笑みへと崩れた。
「……んんっ! 美味しい……! お肉が舌の上で信じられないくらい柔らかくほどけていきますわ! 甘みのあるタレと牛肉の芳醇な旨味が絡み合って……こんなお料理、生まれて初めていただきました!」
「だろっ!? 親方、お嬢がすっげえ喜んでるぜ!」
「ああ、本当によく出来ているな。腕を上げたな、トビー」
シオンも一口味わい、満足そうに頷いた。
普段は時計の調整に没頭するあまり、黒パンとチーズだけの質素極まりない食事で済ませてしまうシオンだったが、今夜ばかりは箸が進み、皿の上は次々と空になっていく。
シオンはふと、遠い昔の冬の夜を思い出していた。
恩師クラウス先生が生きていた頃、真冬の厳しい寒風が工房を叩く夜には、こうして三人で七輪の上に鉄鍋を載せ、肩を寄せ合って暖をとったものだった。
あたたかな鍋の湯気と、愛する人々の笑顔。
失われたはずの穏やかな時間が、今、エルネスタという存在を得て再びこのクロノス堂に蘇っている。
エルネスタとトビーがお鍋の中の最後の一枚の椎茸を巡って、子供のように真剣な顔で箸先を突き合わせる小競り合いを演じる。
「あ、トビー君! その椎茸は私がさっきから狙っていましたのよ!」
「へへーんだ、早い者勝ちだもんね! ……ああっ、親方が横から取ったぁ!?」
「食事中の油断は禁物だ。力学的な最短距離と角速度を計算すれば、私の箸が先着するのは自明の理だよ」
「親方ずるいーっ! 大人げないぞ!」
「ふふっ、あはははっ!」
エルネスタが鈴を転がすような高い声で笑い声を上げた。
公爵家の厳格な礼法に縛られた食卓では決して許されない、賑やかで温かな団欒。
まるで、血の繋がった本物の家族のように、互いを思いやり笑い合う空間。
シオンは立ち上がり、作業場の棚の最奥から、埃を被った一本のガラス瓶を恭しく取り出してきた。
深いルビー色の液体が揺れる、年代物のワインボトル。
「……シオン殿、そのワインは?」
「十年前、恩師クラウス先生が私の時計師試験合格祝いにと買ってくださった、ボルドーの特級ヴィンテージです。いつか人生の特別な節目が訪れた時に開けようと、ずっと大切に保管していました」
シオンはコルクスクリューを用いて静かに栓を抜いた。
抜いた瞬間、ドライフルーツと樫樽の熟成された濃厚な香りが、暖炉の熱気と混ざり合ってふわりと立ち上った。
薄いクリスタルグラスに注がれた深紅の液体を、三人は掲げ合う。
「帝都の平和と、我らが時計師シオン・エルロードの完全なる勝利に――乾杯」
「乾杯!」
チン、と澄んだ音を響かせてグラスを合わせる。
芳醇な果実味が喉を潤し、張り詰めていた神経を芯から解きほぐしていった。
グラスを干したトビーが、頬を赤らめながら嬉しそうに語り始めた。
「そういえばさ、親方! オイラ今日、肉屋の帰り道に、隣のパン屋のおかみさんと八百屋の親父さんに呼び止められたんだぜ」
「ん? 何か言われたのか?」
「うん! 『お前んとこの頑固な時計屋に、絵画から抜け出してきたみたいに綺麗なお嫁さんが住み着いたんだってな! シオンのやつ、下町一番の果報者じゃないか!』って、街中の噂になってたぞ!」
「ぶほっ……!?」
ワインを含んでいたエルネスタが、淑女らしからぬ勢いで盛大に吹き出しそうになり、慌ててナプキンで口元を押さえて激しく咳き込んだ。
シオンもまた、喉にワインが詰まり、ゴホゴホと珍しく激しく咽び返る。
「ト、トビー君っ!? な、何を根も葉もない出鱈目を口にしていますのっ!? お、お嫁さんだなんて……そ、そんな、滅相もない……! 私は帝国法務執行官で、ヴァレンタイン公爵家の娘で……そ、そんな、恐れ多いこと……!」
「恐れ多いのはこちらの台詞ですよ、エルネスタ執行官……。トビー、下町の根拠のない噂話を真に受けて食卓で口にするなと、いつも言っているだろう」
シオンは耳の付け根まで朱に染めながら、手元のグラスをカタカタと揺らして叱責した。
しかし、エルネスタは顔から湯気が出そうなほど真っ赤になり、両手で自分の熱い頬を冷やすように押さえて俯いてしまっている。その指の隙間から覗く耳たぶまで、熟れた果実のように赤く染まっていた。
その二人のあまりにも純情で初々しい反応を見て、トビーはお腹を抱えてケラケラと悪戯っぽく笑い転げた。
暖炉の赤い炎が、三人の影を壁に温かく揺らし、賑やかな夜は静かに更けていった。




