第113話:クロノス堂への帰還、居候最後の夜
午後二十時。秋の冷たい夜風が吹き抜ける帝都下町、職人街の外れ。
瓦斯灯の穏やかなオレンジ色の光が濡れた石畳を照らし出す中、シオン、エルネスタ、そしてトビーの三人は、数日ぶりとなる懐かしい我が家――時計修理店『クロノス堂』の真鍮の看板の下へと帰り着いた。
カチャリ、と鍵を開けて木製の扉を押すと、店内に漂う懐かしい機械油の匂い、乾いた木材の香り、そして何十個もの掛け時計が規則正しく奏でるチクタクという心地よい機械音が、温かく三人を出迎えた。
「ただいまーっ! ああ、やっぱりオイラたちの店が一番落ち着くや!」
トビーが両手を広げて居間のソファへと倒れ込み、大きく手足を伸ばした。
二階へと続く木製の階段の踊り場には、革張りの小さなトランクが一つ、綺麗に紐で括られて置かれていた。
それは、エルネスタが身辺警護と監視という名目でこの店に持ち込んでいた私物の荷物だった。
最高査問法廷でシオンの無実が証明され、真犯人ハルトマンが逮捕された。
それは同時に、公爵令嬢であるエルネスタがこの下町の工房に身を寄せる理由が、法的に完全に消滅したことを意味していた。
トランクを見上げたエルネスタの瞳に、ふと微かな寂寥の影がよぎる。
普段の彼女であれば、任務完了を誇らしげに宣言し、颯爽と公爵邸へと帰還するはずだった。だが、彼女の足取りはどこか重く、制服の裾をそっと握りしめていた。
工房の中に、少しばかりぎこちない沈黙が降りかける。
それを敏感に察知したのか、ソファから跳ね起きたトビーが、両腕をまくって威勢のいい声を張り上げた。
「へへっ! 湿っぽい顔はなしだぜ! オイラ、親方の無罪放免と大勝利を祝って、奮発して下町一の肉屋で最高級の牛ロース肉を一キロも買い込んできたんだ! 今夜はクロノス堂特製、すき焼き風の甘辛牛肉煮込み鍋だぁっ!」
「まあ……! トビー、あなたが一人でお買い物を?」
「おうよ! 親方とお嬢が法廷で戦ってる間、オイラだって指をくわえて待ってたわけじゃないからな! 野菜もネギも豆腐もバッチリ揃ってるぜ! 今から台所で下拵えしてくるから、二人はゆっくり休んでてくれよな!」
トビーは大きな紙袋を抱えて鼻歌交じりに台所へと小走りで去っていった。
やがてトントンと小気味よい包丁の音と、出汁の香ばしい匂いが漂い始める。
作業台のランプの下、シオンとエルネスタは向かい合って腰を下ろした。
二人の前には、帝国法務省へ明日一番で提出しなければならない、事件の最終公式調書の束が広げられていた。
羽ペンを手にしたエルネスタが、眉をひそめながら書類をめくる。
「……それにしても、シオン殿。あなたの思考経路には、時として法規を無視した危うさがありますわ。月光亭の地下金庫破りなど、一歩間違えれば二人揃って重罪人として投獄されるところでしたのよ?」
「ですが、あの金庫の先帝の裏帳簿がなければ、法廷でハルトマンの黒幕性を完全に立証することは不可能でした。物理的確率から導き出される最短ルートを選択したまでです」
「理屈は分かりますけれど、その最短ルートの選び方が極端すぎますの! あなたはいつも、自らの身の安全を勘定に入れていませんわ」
「それはあなたも同じでしょう、エルネスタ執行官。法廷でハルトマンが拳銃を抜いた瞬間、あなたは一秒の躊躇もなく私の前に飛び出してきた。法務官としての規程集には、民間人を盾にせず自らの身を投げ出せなどとは書かれていないはずですが?」
「そ、それは……! 執行官として、協力者を守るのは当然の義務ですわ!」
エルネスタは頬を赤らめ、視線を書類へと落とした。
理路整然とした理屈を並べ立てるシオンと、直情的な正義感と情熱で突き進むエルネスタ。
水と油のようでありながら、互いの欠けた歯車を完璧に補い合ってきた数日間の捜査。
調書の項目を埋めていく二人の呼吸は、まるで長年連れ添った研究者のように寸分の乱れもなく噛み合っていた。
ふと、エルネスタがペンを置いた。
ランプのオレンジ色の光が、彼女の濡れたような銀髪と、伏せられた長い睫毛を美しく浮かび上がらせる。
「……明日には、公爵邸へ戻らねばなりませんわね」
ぽつり、と零れ落ちた小さな声。
いつも凛として響く彼女の声が、今は消え入りそうなほどに儚かった。
「……ええ。お父上であるヴァレンタイン元帥も、ご心配されているでしょう」
「そうですわね。……でも、不思議ですわ。ここに来た初日は、下町の油臭い工房など早く抜け出したいとばかり思っていましたのに。……今では、この時計の音を聞いているだけで、胸の奥がこんなにも穏やかになるなんて」
エルネスタは両手を膝の上で重ね、ぎゅっと指を絡ませた。
「事件が終わってしまったら……もう、ここへ来る口実も、なくなってしまいますものね」
その言葉の奥にある切ない響きに、シオンの胸が小さく痛んだ。
シオンは何かを言いかけ、喉の奥まで出かかった言葉を、静かに飲み込んだ。
身分も世界も違う二人。帝国の最高貴族である公爵令嬢と、下町のうらぶれた時計職人。
だが、その冷徹な理屈を超えて、シオンの心には確かに彼女の温もりが深く刻み込まれていた。
その時――台所の引き戸が勢いよく開いた。
「へいお待ちぃっ! トビー特製、霜降り牛肉と下町根菜の極上醤油鍋、完成だぁぁっ!」
トビーが両手に鍋つかみをはめ、湯気と香ばしい匂いをもうもうと立ち上らせる重厚な鉄鍋を抱えて居間へと飛び込んできた。
二人は顔を見合わせ、張り詰めていた空気を解かすように、自然と柔らかな笑みを交わし合った。




