第112話:カミーユの感謝、真実の奇術とは
午後十七時三十分。夕暮れの涼やかな秋風が吹き抜ける、帝都中央美術館前の中央広場。
大理石の噴水が心地よい水音を奏でる広場の片隅、石畳に面したオープンカフェのテラス席で、シオンとエルネスタが向かい合って腰掛けていた。
白磁のティーカップから立ち上る、ベルガモットの香り高いアールグレイの湯気。
命懸けの死線を共にくぐり抜け、巨大な謀略を打ち砕いた二人の間には、言葉を交わさずとも心を通わせ合える、穏やかで甘美な静寂が心地よく流れていた。
そこへ、真紅の裏地のついた漆黒のシルクコートを優雅に翻し、大きな白百合と深紅の薔薇の花束を腕に抱えた一人の長身の男が、軽やかなステップを踏みながら歩み寄ってきた。
天才奇術師、カミーユ・デュプレだった。
警察の地下留置場から正式に釈放され、身なりを完璧に整えた彼の顔には、かつて舞台の上で見せていたような傲慢で嘲弄的な薄笑いは消え去り、澄み切った一人の純粋な芸術家の眼差しが宿っていた。
「やあ、帝都を救った若き名探偵殿、そして美しき白薔薇の執行官殿」
カミーユは胸に手を当てて優雅に一礼すると、テラス席の白いテーブルの端へと豪華な花束をそっと置いた。
「カミーユ氏……もうお体の具合はよろしいのですか?」
エルネスタが気遣わしげに尋ねると、カミーユは後頭部を軽く撫でながら、苦笑交じりに肩を竦めた。
「ええ、まだ棍棒で殴られた後頭部に鈍い痛みが残っていますがね。……シオン殿、エルネスタ殿。お二人には、いくら頭を下げても足りません。もしあなた方の卓越した頭脳と不屈の正義がなければ、私は身代わりの殺人犯として、今頃冷たい独房の石床で絞首刑を待つ身でした」
「礼には及びません。私は狂わされた時間の歯車を、正しい位置へと戻しただけです」
シオンがいつものように淡々と答えると、カミーユは感嘆するように目を細め、静かに首を振った。
「手品を暴かれた奇術師がこんなことを言うのも滑稽ですがね……シオン殿、あなたの法廷での解体ショーは、この私がこれまで見てきた世界中のどんなイリュージョンよりも美しく、完璧でしたよ。科学と物理によって紡ぎ出される真実の光は、いかなる欺瞞の魔術よりも眩しいものだと思い知らされました」
カミーユはコートの内ポケットに手を差し入れ、小さな黒いベルベットの巾着袋を取り出すと、シオンの前のテーブルへと静かに滑らせた。
「これを受け取っていただきたい」
「これは……?」
シオンが巾着の紐を解き、中から掌へと滑り落ちたものを見て――その藍色の瞳が息を呑むように見開かれた。
それは、直径二センチほどの、精緻極まりない真鍮製の極小歯車だった。
百年の摩耗にも耐えうる特殊な焼き入れが施された歯車の中心部には、見覚えのある流麗な紋章が微細彫刻されていた。
――『星と砂時計』。
十年前、大時計塔クロノスの心臓部に組み込まれていた、亡き恩師クラウス・エルロード特注の中心遊星歯車の一部だった。
「これは……恩師の歯車だ。なぜあなたがこれを……!?」
「一ヶ月前、あの大講堂の不在証明の装置と共に、あの銀の仮面を被った演出家から手渡されたものですよ」
カミーユは真剣な眼差しで静かに語り始めた。
「演出家は言っていました。『この歯車は、失われた時間を取り戻すための最初の鍵だ。もし私の描いた脚本を解体できる本物の時計師が現れたなら、その男に返してやってくれ』とね」
「フェリクス……」
シオンは歯車を両手で包み込んだ。
冷たい真鍮の感触の奥から、十年前の温かな工房の記憶と、恩師クラウスが語っていた時計師の誇りが、熱い波動となって胸の奥へと流れ込んでくるようだった。
カミーユはその様子を見届け、満足そうに微笑むと、テーブルの花束の中から、朝露を抱いた大輪の深紅の薔薇を一輪抜き取った。
そして、流麗な仕草でエルネスタの前へと片膝をつき、薔薇を差し出した。
「美しきエルネスタ殿。あなたのような気高く聡明な方に逮捕されたこと……奇術師として、生涯の無上の誇りといたしましょう。どうか、この薔薇を受け取っていただけますか?」
エルネスタは頬を薄紅に染めながらも、凛とした微笑みを浮かべてその薔薇を受け取った。
「ありがとうございます、カミーユ氏。ですが……」
エルネスタはすっと立ち上がると、受け取った真紅の薔薇を、向かいに座るシオンのスーツの胸ポケットへと、愛おしそうにそっと挿し直した。
今朝彼女が彼の胸元に挿した白薔薇の隣に、艶やかな真紅の花びらが寄り添うように重なり合う。
「この薔薇は……私のたった一人の守護者に捧げますわ」
「エルネスタ……」
シオンは不意を突かれて息を呑み、照れくさそうに口元を手で覆って視線を逸らした。
エルネスタは悪戯っぽく微笑み、シオンの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
その二人の甘やかなやり取りを見たカミーユは、大げさに両手を広げて楽しげに笑い声を響かせた。
「ハハッ! これは手厳しい! 私の華麗な口説き文句も、無口な時計屋殿の誠実さの前には形無しというわけだ。……お二人とも、どうかお幸せに!」
カミーユはシルクハットを胸に当てて優雅に一礼すると、夕暮れの賑わう街並みの中へと軽快な足取りで去っていった。
涼やかな秋風がテラスを吹き抜け、黄金色に色づいた街路樹の葉を舞い散らせる。
胸元に白と赤の二輪の薔薇を揺らすシオンと、その隣で穏やかに微笑むエルネスタ。
二人の間に流れる時間は、言葉がなくとも、温かく甘美に満ち足りていた。




