第111話:真作『黄昏の幻影画』、封印された暗号
午後十六時三十分。茜色の夕暮れが帝都の空を赤銅色に染め上げる頃。
事件の現場となった帝都中央美術館・特別修復室には、ステンドグラスを通して柔らかな西日が差し込んでいた。
部屋の中央に据えられた大きな修復台の上に広げられていたのは、ハルトマンの私邸の隠し金庫から無事に奪還された、真の帝国国宝『黄昏の幻影画』だった。
シオンは純白の手袋をはめ、高倍率の時計師用ルーペと精密なノギスを用いながら、キャンバスの裏地に微かに浮き出た特殊な朱色の蛍光顔料を、一字一字丁寧に模写用紙へと転写していた。
その隣では、制服の上着を脱ぎ、ワイシャツの袖を腕まくりしたエルネスタが、真剣な眼差しで記録帳に万年筆を走らせている。
そして部屋の隅に置かれた深紅の革張りソファには、黒いタイトドレスの裾から滑らかな脚を組んで覗かせたクラリスが、紫煙を細くくゆらせながら二人を眺めていた。
「……シオン殿、暗号の解読はどこまで進みまして?」
エルネスタが淹れたての湯気を立てるアールグレイのカップをシオンの作業台の脇に置きながら尋ねた。
「ええ。裏地に施されていた特殊な定着層の化学分析が完了しました。先帝陛下が遺されたこの文書の全容が、ほぼ判明しましたよ」
シオンは鉛筆を置き、解読された文章をエルネスタへと差し出した。
「十年前の大時計塔炎上事件の資金源となっていた黒幕の正体……そして、先帝陛下が暗殺された真の理由が、ここに明確に記されています。帝国最大の軍需複合企業――『クライン重工』です」
「クライン重工……!?」
エルネスタが息を呑んだ。
帝国の装甲列車、軍用飛行船、要塞砲、そして最新式の魔導小銃を一手に製造し、帝国軍部に絶大な影響力を持つ超巨大財閥である。
「十年前の大時計塔炎上事件は、単なる失火事故などではありませんでした。先帝陛下が隣国との間で調印しようとしていた恒久軍縮条約を阻止し、帝国を軍事独裁国家へと推し進めるために、クライン重工と貴族院の軍需派閥が裏で手を組み、引き起こした国家規模の放火テロだったのです」
シオンの低く落ち着いた声に、重い歴史の闇が宿っていた。
「ベルク館長はその火災の現場から、クライン重工が貴族院議員たちにばら撒いた巨額の裏金名簿を持ち出し、この国宝絵画の裏地へと密かに封印した。そしてそれを保身と脅迫の切り札として十年間隠し持っていたのです。……ハルトマンもまた、その名簿を手中に収めて軍需派閥の頂点に君臨し、傀儡政権を樹立しようと企んでいました」
「なんて悍ましい……! 我が国の誇るべき至宝が、そんな血塗られた軍閥の野望の隠れ蓑にされていたなんて……!」
エルネスタが激しい義憤に細い拳を固く握りしめた。
ソファのクラリスが煙管の煙をふうと優雅に天井へ吐き出し、艶然と微笑んだ。
「でも、その裏金名簿がこうして白日の下に晒されたんだもの。ハルトマンの失脚を皮切りに、貴族院の軍需派閥の連中も一網打尽ね。帝都の政界は大掃除になるわよ」
「ですが、問題は名簿の末尾に、先帝の署名と共に記されていたこの一文です」
シオンが人差し指で示した箇所の暗号。
そこには、時計の文字盤の角度と針の運行を用いた特殊な換字式暗号――クロック暗号によって、ある列車の運行記号が記されていた。
――『大陸横断魔導特急リヴァイアサン号・最上階貴賓車・金庫室3号』。
「大陸横断魔導特急リヴァイアサン……! 来週、帝都中央駅から帝国北方の雪嶺聖都へと向けて処女航行を行う、世界最大の超巨大装甲列車ですわ!」
「ええ。影の演出家フェリクスが残したメッセージにも、この列車の名が示唆されていました。クライン重工が十年前から極秘裏に開発を続けている【真の最終兵器の青写真】が、その列車の金庫に眠っている」
シオンの藍色の瞳が、夕陽を受けて深遠な輝きを宿す。
事件は終わったのではない。帝都を舞台にしたこの美術館の事件は、帝国全土を揺るがす巨大な陰謀の幕開けに過ぎなかったのだ。
その時、ソファから音もなく立ち上がったクラリスが、シオンの背後へと静かに忍び寄った。
豊かな胸元をシオンの肩へと密着させるように寄り添い、甘い香水を漂わせながら耳元で囁いた。
「ふふ……相変わらず危険な香りのする男ね、シオン。……ところで、今回の私の危険な働きの報酬はどうしてくれるのかしら? そこの可愛いエルネスタちゃんの柔らかい唇を、私の代わりにあなたが奪ってくれるのかしら?」
「なっ……な、何を破廉恥極まりないことを仰いますの、クラリス殿!!」
エルネスタが湯気を立てる勢いで顔を真紅に染め上げ、クラリスの手をパシィンと払い退けた。
「報酬は帝国法務省の規定に基づき、国宝奪還の正規の報奨金が全額支払われます! 個人的な……その、唇だの何だのといった不純な支払いは、私が絶対に認めませんわ!」
「あら、じゃあエルネスタちゃんがシオンに個人的に支払うのかしら?」
「わ、私が支払うわけがありませんでしょう!! ……あ、いえ、その、私からの個人的な感謝は……別の形で……」
言葉に詰まり、耳まで真っ赤にしてモジモジと指先を弄ぶエルネスタの愛らしい反応に、クラリスは楽しそうにクスクスと笑い声を立てた。
ステンドグラスから差し込む茜色の光が、修復室の床一面を温かな薔薇色に染め上げていた。




