第110話:地下取調室、ハルトマンの狂気と告白
午後十五時。帝国警察庁・地下特別取調室。
地上からの光が一切届かない厚い石造りの防音壁と頑丈な鉄格子に囲まれた室内には、天井の配管から結露した水滴がポタリ、ポタリと滴る冷涼な音だけが響いていた。
部屋の中央、床にボルトで固定された頑丈な鉄製椅子に座らされ、両手両足を重い拘束具で繋がれていたのは――数時間前まで帝都の司法と警察を牛耳っていた男、ギュスターヴ・ハルトマンだった。
華麗な金糸刺繍の軍用マントは剥ぎ取られ、白髪交じりの髪を無残に振り乱したハルトマンの姿には、かつて法廷を睥睨していた傲慢な権力者の威厳など微塵も残されていなかった。
重厚な鉄扉がきしみながら開き、シオンとエルネスタが静かに部屋の中へと足を踏み入れた。
エルネスタは冷徹な視線を拘束された男へと注ぎ、腰に手を当てて告げた。
「ギュスターヴ・ハルトマン卿。あなたの私邸から押収された裏金台帳、ならびにベルク館長との通信記録の全容が、特別監査委員会によって精査されました。もはや言い逃れは不可能ですわ。すべてを白状なさい」
ハルトマンは力なく首をもたげた。
その血走った灰色の瞳は焦点を失っており、渇ききった唇の端からヒタヒタと不気味な嘲笑が漏れ出した。
「く……くくく……。白状だと? 何を白状しろというのだ……。権力の座を追われた敗者に、これ以上何を語れというのかね、ヴァレンタインの小娘が……」
「ベルク館長を殺害するよう、あなたを巧妙に操り、誘導した黒幕の正体です」
シオンが淡々と歩み寄り、金属製の机の上に一枚の精密な設計図の写しを置いた。
「館長が保険金目当てに自作自演の密室劇を企てているという極秘情報。そして、美術館の巨大展示時計のガンギ車の歯を一枚削り落とせば、脱進機の動作周期が乱れ、重錘の落下がちょうど一分遅延するという工学的仕掛け……。時計工学の専門教育を受けていないあなたが、これほど精密で緻密な犯罪計画を独力で考案できるはずがない。あなたにその悪魔の脚本を授けた男がいるはずです」
シオンの鋭い指摘に、ハルトマンの肩が痙攣したように跳ね上がった。
その瞳の奥に、底知れぬ狂気と、それ以上の恐怖の色がまざまざと蘇る。
「……あいつだ。すべて……あの銀の仮面を被った男が仕組んだのだ……!」
「仮面の男……?」
エルネスタが眉根を寄せ、身を乗り出した。
「一ヶ月前だ……真夜中、私の執務室に、何の前触れもなく現れたのだ。銀色の仮面で素顔を隠し、夜の闇のような黒いマントを羽織った男が……。警察庁の厳重な魔導結界も、三重のシリンダー錠も、あいつの前では紙屑同然だった……!」
ハルトマンは手首の鎖をジャラジャラと激しく鳴らしながら、何かに怯えるように身を縮めた。
「あいつは私に囁いたのだ……。『ベルク館長が隠し持っている先帝陛下の真の遺言書を手に入れれば、貴族院の権力を完全に掌握できる。館長は間もなく自作自演の狂言強盗を企てる。その時計の歯車を一枚削り、重錘の杭を本物にすり替えろ。そうすれば、自らの手を一切汚さずに館長を抹殺し、遺言書を奪える』と……!」
「やはり……影の演出家、フェリクス・アルノーか」
シオンの口から、重く冷たい確信の言葉が落ちた。
「そうだ! あいつは私に完璧な脚本を与えてくれたはずだった! だが……今になって分かったのだ……! あいつの真の目的は、遺言書でも、私の権力掌握でもなかった!」
ハルトマンは充血した目でシオンを睨み据え、喉を引き裂くように叫んだ。
「あいつは微笑みながら言っていたよ……。『シオン・エルロードという時計師が、私の仕掛けたこの精巧な舞台劇をどう解体してみせるか、特等席で見物しよう』とな……! 私は……館長も、カミーユも、そしてこの私自身も……シオン、貴様という男の頭脳を試し、舞台の上で踊らせるための、ただの使い捨ての道化に過ぎなかったのだぁぁっ!!」
ハルトマンは狂乱し、自らの頭をガンガンと机に打ちつけて激しく号泣した。
人間の欲望と悪意を極限まで計算し尽くし、すべてを精緻な歯車のように組み込んで操る影の演出家。その底知れぬ知性と狂気に、エルネスタは戦慄を覚え、思わず息を呑んだ。
シオンは眉一つ動かさず、ハルトマンのポケットから押収された遺留品の一覧に視線を落とした。
革製の手帳の隙間から、一枚の黒い厚紙の小片が滑り落ちる。
それは、帝都で最も格式の高い歌劇場の特等席チケットの半券だった。
表面には、金色の豪奢な箔押しで演目名が記されている。
――『帝都大歌劇場・真紅のアリア 指定席A−1』。
そして裏面には、流麗な万年筆のインクで、シオンに向けられた個人的なメッセージが記されていた。
『我が愛弟子シオンへ。第一幕の美術館劇は実に見事だった。次の幕は、走る密室――大陸横断魔導特急の車上にて開演する』
「……フェリクス」
シオンは冷たく細めた瞳で、その紙片を固く握りしめた。
十年前の火災の夜から続く、兄弟子との宿命の連鎖。
その時、シオンの握りしめた右手を、温かい柔らかな両手がそっと包み込んだ。
エルネスタだった。
彼女はシオンの凍りつきそうな手首を自らの胸元へと引き寄せ、体温を分かち合うようにしっかりと握りしめていた。
「シオン殿……。相手がどれほど狡猾で巨大な怪物であろうと、あなたは決して一人ではありませんわ。私の誇りと、帝国法務執行官の全権力をかけて……私が、あなたの盾となり、剣となります」
エルネスタのアイスブルーの瞳は、揺るぎない決意と情熱の炎に燃えていた。
シオンは彼女の温もりに触れ、張り詰めていた心の棘が溶けていくのを感じながら、静かに頷いた。
「ええ。ありがとう、エルネスタ。あなたがいる限り、私の時計の針が狂うことはありません」




