第109話:木槌の響き、無罪放免の時計師
ガァンッ!!
第一大法廷に響き渡った最後の木槌の重厚な打撃音が、すべての偽装と謀略の終焉を厳粛に告げた。
無罪判決。
帝国司法省の創設以来、貴族院特捜監査官という司法の最高権力者が、自ら開廷させた法廷の壇上で罪悪を暴かれ、現行犯逮捕されるなどという事態は前代未聞の椿事であった。
その歴史的瞬間に立ち会った記者や傍聴人たちの興奮は最高潮に達し、巨大な扉を抜けて中央大ホールへと足を踏み入れたシオンとエルネスタを待ち受けていたのは、数十社を超える新聞記者たちの凄まじい怒号と、眩光を放つフラッシュの嵐だった。
「エルロード殿! 帝国中央新聞です! 千人の観客が証言した鉄壁のアリバイを、光学迷彩と機械仕掛けで粉砕したあの驚愕の推理について一言お願いします!」
「ハルトマン卿の私邸に隠されていた先帝陛下の遺言書は、一体誰の手によって暴かれたのですか!?」
「ヴァレンタイン執行官! 名門公爵家の令嬢でありながら、下町の時計職人と手を組んで巨悪を討ったそのご心境は!?」
「お二人は単なる仕事上の協力関係なのですか!? それとも、それ以上の深い絆がおありなのですか!?」
次から次へと投げかけられる過熱した質問の雨。
カメラマンたちが炊くマグネシウム粉末がパチパチと火花を散らし、白い濃密な煙がドーム状の大ホール天井へと立ち昇っていく。
普段の彼女であれば、群がる記者たちを一瞥して冷たくあしらい、無言で通り過ぎるところだった。しかし、この日のエルネスタは違っていた。
彼女は制服の胸元に輝く白薔薇の徽章をそっと指先で整えると、背筋を凛と伸ばし、誇らしげに記者団の正面へと一歩踏み出した。
その澄み切ったアイスブルーの双眸には、迷いも気後れも微塵もなかった。
「静粛になさい、記者の方々! 本日、法と正義は正しく執行されました。シオン・エルロード殿は、国家を脅かす犯罪者などでは断じてありません。悪意によって狂わされた時間を正し、真実を守り抜いた……帝都一の誇り高き時計技師です!」
エルネスタはシオンの真横にピタリと寄り添い、一切の動揺を見せずに記者たちへと言い放った。
「彼の無実と功績は、帝国憲法と神の前に完全に証明されました。これ以上、彼に対して不当な疑惑や根拠のない中傷を行うことは、この私が……帝国法務執行官エルネスタ・ヴァレンタインの名にかけて、決して許しませんわ!」
気高く凛々しいヒロインの宣言に、ホール全体から息を呑むようなどよめきと、惜しみない賛嘆の声が上がった。
その熱気渦巻く人混みを、強引に押し分けて突進してくる小さな人影があった。
「親方ぁぁぁぁぁっ!!」
トビーだった。
少年の顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっており、シオンを見つけるなり弾丸のように駆け寄ってその腰へと抱きつき、大声を上げて泣きじゃくった。
「親方ぁっ! 本当によかったぁぁっ! 無罪になったんだなぁっ! オイラ、親方が絞首台に送られたらどうしようかって、昨夜からずっと生きた心地がしなくて……!」
「トビー、泣くな。せっかく仕立て直した上等なスーツが鼻水まみれになる」
シオンは困ったように苦笑しながらも、トビーの乱れた癖毛の頭を大きな手で優しく撫でた。
シオンの藍色の瞳からも張り詰めていた冷徹な光が和らぎ、工房で時計と向き合う時の穏やかな温もりが戻っていた。
その背後から、咥え煙草を燻らせたギルバート警部が、満面の笑みを浮かべて大股で近づいてきた。
「へへっ、でかしたぜ、お嬢にシオン君! ハルトマンの野郎が床に叩きつけられた瞬間、俺ぁ溜飲が下がる思いだったぜ! いやはや、二人の阿吽の呼吸といい、法廷での見事な掛け合いといい、まるで長年連れ添った夫婦のようでしたな!」
「ぶ、夫婦ですって……!?」
エルネスタは顔を林檎のように真っ赤にして飛び退いた。
「け、警部! 何を不謹慎なことを仰いますの! 私たちはあくまで法務執行官と民間協力者……公務における厳正なるパートナーですわ!」
「へえへえ、公務のパートナーねえ。あんなに熱い視線を交わし合っておいて、よく言うぜ。なあ、トビー?」
「オイラも見たぜ! 親方とお嬢、月光亭の金庫室で顔をくっつけ合って、あんなに息を潜めて――」
「トビー君っ!! 余計なことを口にしてはなりませんっ!!」
エルネスタが怒ってサーベルの鞘を構え、からかうギルバートとトビーを追い回す。その微笑ましい光景に、周囲の記者たちからも温かな笑いが漏れ広がった。
その喧騒の中、シオンはふと視線を感じ、大ホールの二階バルコニーの暗がりへと目を走らせた。
黒いシルクハットを目深に被り、上質なインバネスコートを羽織った背の高い紳士が一人、手すりに寄りかかって立っていた。
男は騒動を見下ろしながら、音もなく優雅に両手を打ち鳴らしていた。
その胸元から覗く、銀色の懐中時計。
シオンの視線と、その男の瞳が、百メートルの虚空を隔てて一瞬だけ交錯した。
――フェリクス・アルノー。
十年前、大時計塔から姿を消した、シオンの兄弟子にして『影の演出家』。
男は嘲弄を帯びた薄い笑みを口元に浮かべると、銀の時計をパチンと閉じ、シルクハットの鍔に指を添えて一礼した。そして、霧が晴れるように静かにバルコニーの闇へと姿を消した。
「シオン殿? どうかされましたの?」
エルネスタが息を切らしながら戻ってきて、心配そうにシオンの顔を覗き込んだ。
シオンは静かに視線を下ろし、優しく首を横に振った。
「……いえ。なんでもありません」
だが、シオンの胸の奥深くでは、真の黒幕との対決を告げる運命の秒針が、力強くチクタクと動き始めていた。




