第104話:第1幕:絵画消失の解体(偏光のトリック)
「まず第1幕――千人の観客と警備兵が見つめる前で、展示ケースの中から国宝が煙のように消え去ったとされる【衆人環視の絵画消失トリック】を解体いたします」
シオンの合図を受け、トビーが大型木箱の布を一気に引き剥がした。
現れたのは、美術館の特別展示室に設置されていたものと寸分違わぬ、高さ一メートルほどのガラス張り展示ケースの精密な縮小模型だった。
ケースの台座には、真鍮のラチェット機構と小型のスプリングモーターが組み込まれ、内部の赤いビロードの壁面には、夕暮れの古城を描いたダミーの油彩画が、四方からの強い照明を浴びて鮮やかに掲げられている。
「ご覧の通り、展示ケースの中には絵画が存在し、防犯ガラス越しに誰の目にもはっきりと見えています」
シオンは法廷の廷吏に向かって一礼した。
「廷吏殿、申し訳ありませんが、法廷の窓の遮光カーテンをすべて閉めていただけますか。展示室と同じ夜の環境を再現いたします」
老裁判長が顎をしゃくると、重厚なベルベットの遮光カーテンが引かれ、法廷内は薄暗い闇に包まれた。
ケースを照らすスポットライトの黄色い光だけが、法廷の中央で妖しく浮かび上がる。
シオンはトビーから、手のひらサイズの四角いガラス板を十枚ほど受け取ると、壇上の裁判官たち、そして前列の記者たちへと手渡した。
「手元にお配りしたガラス板を覗きながら、ケースの中を注視してください。昨夜二十一時ちょうど、美術館は外部からの主電源切断によって、三十秒間の完全な暗転に見舞われました。そして非常電源が復旧した瞬間――」
シオンは台座の電源スイッチをパチンと切った。
カチリ、と小さな金属の作動音が響く。
その瞬間――!
法廷中の視線が注がれていた展示ケースの中から、パッと音もなく、色彩が消滅した。
スポットライトの光は確かにケースの中を照らし続けている。ガラスも完全に透明なままだ。
しかし――ケースの内部には、背景の黒いビロード布が見えるだけで、中央にあったはずの油彩画が、まるで幻のように完全な暗闇へと溶けて消え去っていた!
「なっ……!?」
「き、消えた……!? 本当に絵画が消え去ったぞ!!」
傍聴席の貴族たちから悲鳴に似たどよめきが上がり、記者たちが総立ちとなって柵へと身を乗り出した。
手元のガラス板を覗いていた裁判官たちも目を見開き、眼鏡を落としそうになりながら立ち上がった。
ハルトマンの額から、タラリと冷たい脂汗が流れる。
「手品でも魔術でもありません。……これが【直交ニコル偏光迷彩】の正体です」
シオンは平然とした声で、黒板にチョークを走らせ、光波の電場ベクトルの振動方向とマリュスの法則の数式を描き殴った。
「光は、進行方向に対して垂直なあらゆる平面内で振動しながら進む横波です。展示ケースの照明器具には、特定の縦方向の振動成分しか通さない【偏光フィルター】が仕込まれていました。そして、展示ケースの強化ガラスの内側にも、もう一枚の偏光フィルターがサンドイッチ状に圧着されていたのです」
シオンは黒板の数式を指示棒で叩いた。
「透過光強度Iは、二枚の偏光板のなす角θの余弦二乗に比例する――すなわちマリュスの法則です。二枚の偏光軸が平行、すなわちθが零度の時、光は何の減衰もなく透過し、絵画は人間の目に正常に認識されます。しかし、偏光軸が九十度交差する【直交ニコル】の配置になると、コサイン九十度は零――反射光の透過率は物理的に【零パーセント】、完全な漆黒となるのです」
シオンは裁判官たちに向かって穏やかに告げた。
「お手元のガラス板――偏光板を、ゆっくりと九十度回転させてみてください」
裁判官たちが震える手でレンズを回転させた瞬間――。
消えていたはずの油彩画が、まるで霧が晴れるように、再び鮮やかな色彩を取り戻してケースの中に浮かび上がった!
「おおっ……! 戻った! 絵画が再び現れたぞ!」
「停電によって電磁ソレノイドが切れ、ぜんまいの力でガラス枠内部の偏光板が自動的に九十度回転した。さらにケースの背景には光を反射しない漆黒のビロードが張られていたため、絵画の存在は背景と同化し、人間の網膜には【空っぽの空間】として処理されたのです。犯人は展示ケースを開ける必要すらなく、一歩も近づくことなく、遠隔で絵画を【不可視化】したのです。絵画は消えたのではありません。ケースの中に、ずっと存在し続けていたのです!」
エルネスタが指示棒を手に、展示ケースの台座の裏側を指し示した。
「さらにこの機構の真鍮フレームには、十年前のルミナリア帝都機械工学研究所の製造刻印が残されていました。事件の現場でこの物理的仕掛けを検証しようとした私に対し、ハルトマン監査官は現場立ち入りを禁じ、無理矢理に捜査を打ち切らせようとした。それは、この偏光ガラスの存在を警察に知られたくなかったからではありませんこと、ハルトマン卿?」
静まり返る法廷。
完璧な物理的実演と論理の切れ味に、壇上の裁判官たちも感嘆のため息を漏らし、深く頷いていた。
「ぐ、ぬぅぅ……!」
ハルトマンは顔を醜く歪め、必死に声を絞り出した。
「へ、偏光の仕掛けなど知るか! 仮に絵画の消失がその装置によるものだとしても、容疑者カミーユの【千人のアリバイ】はどう説明するのだ! あいつは事件の犯行時刻、五キロ離れた大講堂で千人の観客の前に立ち続けていたのだぞ! あいつが美術館に来ていない以上、絵を細工できるのはシオン、貴様しかいないではないか!」




