第103話:時計技師の登壇、法廷に持ち込まれた歯車
水を打ったような完全な静寂に包まれた、帝国最高裁判所・第一大法廷。
エルネスタが気高く澄んだ声でその名を呼んだ瞬間、法廷の最後尾にそびえ立つ大理石のアーチの奥から、乾いた靴音がカツン、カツンと静かに、だが確かな重みをもって響き始めた。
傍聴席を埋め尽くす百名を超える貴族、軍部高官、外交官、そして新聞記者たちが、一斉に息を呑んで振り返る。
中央の赤い絨毯の通路を歩み出てきたのは――三つ揃えの漆黒の上質なウールスーツを完璧に着こなした、一人の青年だった。
仕立てのいい純白のドレスシャツに、真鍮色の鈍い光沢を放つシルクのネクタイ。ベストの胸ポケットには、エルネスタが今朝手渡したばかりの、朝露に濡れた一輪の白い薔薇が、誇らしげに凛と挿されていた。
下町の工房の、油と煤にまみれた作業着姿しか知らなかった人々が、思わず息を呑むほどの洗練された立ち居振る舞い。
一切の無駄を削ぎ落とした怜悧な面立ちと、氷のように澄み渡った深い藍色の瞳は、並み居る帝国の名門貴族たちすら圧倒する、研ぎ澄まされた孤高の気品を放っていた。
傍聴席の貴婦人たちから、扇子の隙間を通して、感嘆の吐息のような囁きが漏れ聞こえる。
「まあ……あの方が、下町の時計職人ですの……?」
「なんて美しい佇まいなのかしら。まるで冷徹な鋼の刃物のようだわ……」
傍聴席の最前列では、黒いドレスをまとったクラリスが煙管を手に妖艶な笑みを浮かべ、その隣でギルバート警部が腕を組んで頼もしそうに頷いていた。
シオン・エルロードは周囲の好奇と嘲笑、そして畏怖の視線に眉一つ動かすことなく、大理石の中央通路を悠然と歩み、証言台の前に立つエルネスタの隣へと並び立った。
二人の視線が一瞬だけ交錯する。
言葉を交わす必要すらない、命を預け合ったパートナー同士の完璧な信頼と絆。
エルネスタの首元からは、今朝シオンが調整した母の形見の銀時計が、チクタクと静かに、だが確かな鼓動を刻んでいた。
エルネスタは誇らしげに微笑み、シオンは彼女に向かってごく微かに頷いてみせた。
シオンは胸ポケットから真鍮枠のキズミ――時計師用の繰り出しルーペを右目に装着すると、壇上の老裁判長、そして顔を真っ赤にして睨みつけてくるハルトマン卿を静かに見据えた。
「初めまして、主席裁判長閣下。下町で時計修理と時間偽装を請け負っております――シオン・エルロードです。お待たせいたしました。悪意と権力によって狂わされた時間の歯車を、正しく刻み直すために参上いたしました」
凛として通るシオンのよく通る声が、法廷の巨大なドーム天井に心地よく反響した。
ハルトマン卿が激昂し、演台を拳で激しく叩いて立ち上がった。
「黙れ、国家反逆の指名手配犯が! 裁判長、何を悠長に戯言を聞いているのですか! 奴は美術館の展示ケースを破壊し、ベルク館長を惨殺した張本人だ! 直ちに憲兵に命じてその場で射殺させなさい!」
「騒がしいですね、ハルトマン卿。あなたの脈拍は毎分百二十を超え、瞳孔が散大していますよ。嘘を隠そうとする人間の典型的な生体反応です」
シオンは冷徹な眼差しでハルトマンを一瞥すると、ベストのポケットから、直径三センチほどの金色の小さな部品を取り出した。
チャリン――。
澄んだ金属音を響かせ、シオンはそれを証言台の大理石の上に置いた。
それは、精密に研磨された、時計の心臓部を司る【アンクル脱進機のエスケープホイール(ガンギ車)】だった。
「口先だけの言い逃れをするつもりはありません。言葉など、権力と金があればいくらでも偽証できる。……ですが、物理法則と数学、そして歯車が刻む絶対の時間は、神の前でも決して嘘をつきません。時間は、人間が都合よくねじ曲げていいものではないのです」
シオンはかつて恩師クラウス・フォン・エルロードが語った言葉を、静かに法廷の全員に向けて紡ぎ出した。
「時計職人の使命とは、ただ壊れたぜんまいを巻き直すことではありません。狂った歯車を正し、そこに込められた人間の尊厳と真実を守り抜くことです。ハルトマン卿、あなたがどれほど巨大な権力を持とうとも、この世界を満たす物理法則を歪めることはできません」
壇上の老裁判長は、陪席の裁判官たちと顔を見合わせ、思わず嗅ぎ煙草入れを置いて身を乗り出した。
「ふむ……。下町の時計技師よ、お前はハルトマン監査官の告発に対し、物理と数学をもって反証するというのだな?」
「はい。昨夜、帝国中央美術館において発生した事件は、一見すると魔術と手品、そして不可解な密室が重なり合った不可能犯罪に見えます。しかし、そのすべては――人間心理の盲点と、光と機械の初歩的な物理特性を組み合わせた、精巧極まりない【偽装の舞台劇】に過ぎません」
シオンは法廷の中央、トビーが運び込んできた布張りの大型木箱を指差した。
「今からこの法廷の全員の目前において、昨夜の犯罪がどのようにして実行されたのか、その物理的トリックを三つの幕に分けて、完全に実演解体してみせましょう」
ゴオォォォン……ゴオォォォン……。
法廷の頭上にそびえ立つ司法省大時計塔が、正午の刻限を告げる重厚な鐘の音を響き渡らせた。
十二条の鐘の音が帝都の空へと吸い込まれていく中、シオンは白手袋の手を掲げ、不敵な微笑みを口元に浮かべた。
「開廷の鐘が鳴りました。……それでは、解体ショーの始まりです」




