第9話 遠回りの足音
朝の手順が、体に馴染み始めていた。閂の音で起き、用を足し、朝の椀を受け取り、田へ出る。目が覚めた瞬間に、ここがどこか分からなくなることも、少なくなった。決まった順番で、一日が回っていく。
この数日、朝夕の椀は、あの小柄な若い女が納屋の戸口の近くへ運んでくることが多かった。最初の日に、白湯をくれた女だ。女は戸口の少し手前で足を止め、椀を差し出すか、置いていく。目は、ほとんど合わない。
悠人は、受け取るたびに深く頭を下げてきた。ありがとう、という言葉は通じない。感謝を示す言い方を、まだ一つも持っていない。毎日、食べさせてもらっている。働いてはいるが、それで足りているのかは分からない。無礼だと思われるのが、怖かった。だから、頭を下げるしかなかった。伝わっているのかどうか分からないから、毎回、必要以上に深くなった。思えば、最初に白湯をもらった日から、そうしてきた。
今朝も、深く下げた。
顔を上げたとき、椀を差し出した女の手が、一瞬止まっているのが見えた。
そういえば——いつも、止まる。
初めて、そう思った。目を伏せた女は、いつものように納屋のすぐ前を通って、母屋へ戻っていく。その背中の先、板間の奥で、年配の女の視線が、女の方へ動いた——気がした。
意味は、分からなかった。ただ、何かを見られた、という感じだけが残った。考える間もなく、しんろくが呼びに来て、いつもの一日が始まった。
田では、草取りの日々が続いている。掴む。根元を見る。確かめる。抜く。手順は変わらない。変わったのは、確かめる時間が少し短くなったことだ。それでも、進みはしんろくの半分に届かない。時々、しんろくが顔を上げて悠人の手元を見る。頷きも首振りもないまま、また自分の株へ戻る。間違えてはいないらしい。腰の痛みは、初日ほどではなくなっていた。体が、仕事の形を覚え始めている。昼の休みには竹筒が回ってきて、それが当たり前になりつつあることに、ふと気づいた。
汗をかき、日が傾いて、家へ戻る。その夕方だった。
家の手前を流れる細い水路のそばで、小柄な若い女が、水の入った木の桶を体の前で両手に抱えていた。重さに引かれるように、少し前かがみになって、狭い歩幅で母屋の方へ歩いていく。
重そうだ、と思った。思ったときには、足が動いていた。
悠人は近づき、桶の縁へ手を伸ばした。女の手には、触れていない。現代なら、それだけのことだった。駅の階段で、重そうな荷物に手を貸したときと、同じつもりだった。
女が、後ずさった。
目を伏せ、桶を離さない。細い腕に、力が入るのが見えた。水面が揺れて、桶の縁から少しこぼれた。
庭先の人影が、止まった。誰と誰がいたのか、後になっても思い出せない。ただ、視線が悠人と女の両方に集まるのが、肌で分かった。家の方から、年配の女の短く鋭い声が、一度飛んだ。女は桶を抱え直し、小走りに家へ戻っていった。
悠人は、伸ばした手の行き場のないまま、水路のそばに立っていた。
悠人への視線は、早く外れた。人影は、何事もなかったように動き出す。だが、いくつかの目は、去っていく女の背中を追い続けていた。
やったのは、自分だ。なのに、後まで見られているのは、女の方だった。
間違えた、ということだけは分かる。何を間違えたのかが、分からない。稲を抜きかけたときは、しんろくが手首を掴んで止めてくれた。今日は、誰も止めてくれなかった。止まったのは、場の方だった。
理由の分からない冷たさが、胸の奥に残った。夕餉までの間、悠人は納屋の前に座り、自分の手のひらを何度も見た。桶の縁に、届きさえしなかった手だった。
夜の前、しんろくが納屋へ来た。いつもの笑いが、なかった。
しんろくは、悠人を指した。それから、女のいる母屋の方を示す。悠人が女へ近づく形を、ゆっくり真似た。桶へ手を伸ばす形も、真似た。それから、悠人の深い礼を真似て、頭を下げる。顔を上げると、母屋と庭先を順に指し、そこにいる者たちを見るように、顔を左右へ動かした。
最後に、女のいる家の方をもう一度示して、強く首を振った。家の方を見て、もう一度、首を振る。
短い音が、いくつか続いた。拾えない。
悠人は、一つずつ拾い直した。あの女。近づく。桶へ手を出す。深く頭を下げる。周りに、人がいる。それを、するな。
あの女に、皆の前で、ああいうことをするな——たぶん、そういう意味だった。
なぜなのかは、分からないままだった。
悠人は、座り直して深く頷いた。分かった、と示すには、それしかなかった。しんろくは、それ以上は何もせず、戻っていった。田でのやり方と、同じだった。やって見せて、首を振って、あとは悠人に任せる。
その後、庭先でやへえと呼ばれる男に会った。男は足を止め、悠人を見た。悠人は、桶を持ち上げる動作をして、自分を指し、首をかしげて見せた。あれは、いけないことだったのか。尋ねる形の、つもりだった。
男は悠人を見て、短く、一度だけ首を振った。それだけだった。男は母屋へ戻っていった。
説明は、なかった。それでも、してよいことではなかったという確認には、なった。
納屋の前で、悠人は考えた。
謝りたい。次にあの女を見かけたら、深く頭を下げよう。
そう考えたところで、気づいた。次に会ったとき、またあの女だけへ目立つように頭を下げれば、皆の目をもう一度、女へ向けることになるのかもしれない。
ごめん、と口の中で言いかけて、止めた。
言葉もない。どう接すればよいのかも、分からない。草と稲なら、根元を見比べればよかった。人の決まりは、どこを見ればいいのかが分からない。
分からないなら——少なくとも、自分から近づかないことは、できる。
夕食の椀は、しんろくが運んできた。
誰が決めたのかは、分からない。悠人は黙って受け取り、最後まで食べた。味は、よく分からなかった。
夜、筵に横になる前だった。板壁の隙間の向こうを、小柄な姿が通った。庭の外側を回って、母屋の裏の方へ。ほんの一瞬だったが、分かった。いつもは納屋のすぐ前を通っていた、あの女だった。
悠人は、立ち上がらなかった。声もかけない。頭も、下げない。
姿は、すぐに見えなくなった。土を踏む音が、いつもより少し遠い。それだけの違いが、妙に長く耳に残った。納屋を避けるように少し遠回りをする足音だけが、静かに過ぎていった。




