第10話 知っている音
いつから数えて何日目なのか、はっきりしなくなってきた。数えるのを、やめたのかもしれなかった。それが悪いことなのかどうかも、分からない。
夜、目が覚めても、ここがどこか分からずに固まることは、もうなくなった。虫の音。水の音。家の軋み。来たばかりの頃、夜は敵だった。暗すぎて、静かすぎて、時々、うるさすぎた。どこかで鳴く獣らしき声に体を硬くして、煙の匂いに顔をしかめて、朝を待った。最初の夜は、閂の音が何なのかも知らなかった。現代の夜には、本当の暗さがなかったのだと、ここへ来て知った。
今は、どの音が何なのか、いくつかは分かる。高く連なるのは虫で、低く途切れないのは水で、時々鳴るのは、風が板を押す音だ。夜中に目が覚めても、聞き覚えのある音を一つずつ確かめれば、そのまま目を閉じられるようになった。筵の感触も、もう肌が覚えている。気づけば、自分の体からも、この家と同じ煙の匂いがするようになっていた——気がする。
時計は、ない。時間を確かめようとして、ポケットを探る癖は、いつの間にか消えていた。今の服に、探るポケットはない。現代の一日は、分で刻まれていた。次の授業、次の休み時間、帰る時間。ここでは、日の高さと、腹の空き具合と、作業の区切りが、時間の全部だった。朝の椀、田、昼の休み、午後の田、夕の椀。明日も同じだと、分かっている。分かっていることが、これほど眠りを楽にするとは、思わなかった。
朝、小柄な若い女が、椀を戸口の近くへ置いていく。小さな音がして、それと分かる。置かれた椀から、薄い湯気が上がっている。
悠人は、近づかない。この数日、村人同士の受け渡しを見ていた。鍬を渡すとき。束を受け取るとき。椀を差し出すとき。彼らは深く頭を下げない。ほとんど分からないくらいの、小さな顎の動きだけを返す。この村では、それで足りているらしい。
悠人は、同じ形を返した。
女の手は、止まらなかった。それだけの、やり取りだった。
田では、一語のやり取りが増えた。
しんろくが鍬を担いで、くわ、と聞こえる音を言う。何日も、同じ道具と同じ音が繰り返された。ある日、悠人が鍬を指して、くわ、と言ってみた。しんろくが鍬を肩で担ぎ直して、頷いた。
めし、に近い音は、食事の折に、しんろくから何度か聞いた。椀の中の炊いたものを指して、しんろくが言う音だった。悠人がその一点を指して、めし、と言うと、また頷きが返った。この炊いたものを、めしに近い音で呼ぶらしい。
抜いた草を見せて、くさ。頷き。田へ水の入る口の方を指して、みず。今度は、首振り。今は触るな、ということなのか、違うということなのか、そこまでは分からない。
一語と指差しの往復が、二回、三回と続くようになった。会話と呼べるのかは、分からない。それでも、往復だった。読めるものは、相変わらず何一つない。
夕方近く、その帰り道だった。畦で足を滑らせた。片足が田へ突っ込み、尻から湿った畦へ落ちる。水が跳ねた。
尻の下で、泥が生ぬるい。見上げた空が、妙に高かった。
一拍おいて、しんろくが、堪えきれずに大笑いした。
腰の泥を叩きながら立ち上がる。しんろくが手を出しかけて、やめて、また笑った。片足だけ泥に染まった自分の恰好を見下ろして、悠人も笑った。声を出して笑ったのは、こちらへ来てから、初めてだった。しんろくがまだ笑っている。それを見て、また笑った。遠くの田から、誰かの笑い声も届いた。何がおかしいのか、説明できる言葉は、互いに一つもなかった。それでも、笑っていた。
その日の夕方、母屋の土間と庭先に、村の男が数人、集まって話していた。夕餉の煙の残りが、庭先に細く流れ、男たちの影が長い。
悠人は、呼ばれていない。呼ばれる理由も、ない。離れた納屋の前に座り、夕食の椀を抱えながら、聞くともなく声を聞いていた。
声は、はっきり聞こえている。それなのに、これまで覚えた一語が、ここでは一つも聞き分けられない。声が低い。いくつもの声が重なる。田での一語のやり取りより、ずっと速い。誰のことなのか、何のことなのか、つかめないまま、声だけが先へ進んでいく。覚えのない音の塊が、何度か繰り返される。それが人なのか、場所なのかも、分からない。時々、誰かが短く笑い、すぐに低さへ戻る。意味のあるまとまりは、一つも取り出せなかった。
同じ言葉のはずなのに、まるで別の川だった。
その低い流れの中に、一度だけ、聞き覚えのある音があった。
じぶのたいふどの——に、近い音。誰が言ったのかは、分からない。
じぶのたいふ。よしもとと対に示された、あの長い呼び方だ。
頭の中に、自分の知っている短い名が浮かんだ。よしもと。反射的に、続けて口にしかけていた。唇がわずかに開き、息を吸いかける。声には、していない。
顔を上げると、やへえと呼ばれる男が、こちらを見ていた。
男は口の前に、手を短く立てた。館で、上座の男がしたのと、同じ形だった。
悠人は目を伏せ、小さく頷いた。
あの長い呼び方を聞いたあとに、頭に浮かんだ名を、自分が続けてはいけない。それだけは、分かった。男の視線は、いつもより一瞬だけ、長かった——気がした。
それきり、声は元の低さへ戻っていった。悠人は椀の残りを、ゆっくり食べた。
夜、納屋。乾いた泥を払って筵に横になると、借り物の作業着には、まだ泥の匂いがかすかに残っていた。目を閉じる前に、外の音を一つずつ数えた。
虫。水。風が板を鳴らす音。母屋の物音。板壁の向こうで、覚えのある咳が、ひとつ。
どれも、知っている音だった。




