第11話 同じ水
田の稲は、いつの間にか膝の高さを越えていた。
朝、草鞋の紐を結ぶ。指はもう迷わない。借り物の作業着の、肩の継ぎの位置も、袖の短さも、体の方が覚えた。しんろくが納屋の戸口から顎を振る。
「鍬を持て。行くぞ」
「昨日の田?」
悠人が聞くと、しんろくは首を振った。
「先の田だ」
「分かった」
悠人は立てかけてあった鍬を取った。いつもの田、いつもの道具、いつもの順番なら、聞き返さずに動ける。分からない言葉は今も多いが、確かめたいことは、短くなら聞けるようになった。
ここ数日、雨がない。朝の水汲みでは、桶を沈める手が、前より深くまで下りるようになった。川の水が細い。田の水も、日ごとに浅くなっている気がする。
「水、少なくなったな」
悠人が水面を指して言うと、しんろくは空を見上げ、短く答えた。雨がないからだ、というところまでは分かった。
田へ向かう道に出たところで、しんろくが不意に、脇の田を指した。
「おまえの里にも、田はあるのか」
「ある。たくさんある。でも、俺は、田で働いたことがない」
しんろくは、悠人の手を見た。
「なら、何をしていた」
悠人は少し迷った。
「字を、習っていた」
しんろくは、しばらく悠人の顔を見ていた。それから、自分の手のひらを開いて見せた。
「俺は、ずっと田だ」
分かったのか、分からなかったのか、顔からは読めない。しんろくは前を向いて歩き出し、悠人は鍬を持ち直して続いた。
その道の途中で、しんろくの足が速くなった。
道の先、水路の方から、男の声が重なって聞こえていた。
水路が二つに分かれる場所に、人が集まっていた。五、六人。水路の縁の土は白く乾いて、細いひびが筋になっている。声は速く、途切れず、重なる。それでも、切れ端は拾えた。水が来ない。上の口。こちらの田。昨日。短いまとまりが、あちこちから聞こえてくる。しんろくは人垣の少し手前で足を止めた。悠人はさらにその後ろに立った。前へ出ない。視線を上げすぎない。それだけは、もう体が覚えている。
拾った切れ端を、頭の中でつなごうとした。水が来ない——どの田にか。上の口——誰が、どうしたのか。開けたのか、止めたのか。声は重なり、主語は省かれ、皆が知っていて自分だけが知らない何かの上で、話は進んでいく。つながらない。
言葉を追うのは、途中でやめた。代わりに、目で追うことにした。
誰が、どこに立っているか。誰の指が、どこを指すか。
一番強い声を出しているのは、年配の男だった。男の指は、水の浅い川下の田を指し、それから川上の方の、田へ水を入れる口へ向き、最後に、二つをつなぐ水路を指した。同じ順で、何度も動く。川上側に立つ男は、自分のそばの田へ手を向けて、首を振る。その田の水も、浅かった。別の男は、また別の場所を指す。
指す先が、全員違う。
声の強さも違った。年配の男の太い声は、途切れずに続く。川上の男の声は、それを払うように短い。相手が別の場所を指しても、二人の指はすぐ、元の場所へ戻っていく。指す場所が違うまま、声だけがぶつかり続けていた。
それでも、形は見えてきた。下へ水を回せと言っている側と、こちらにも足りないと返している側。少なくとも、そういう形には見えた。
悠人の目には、どれも同じ水に見えた。同じ川から来て、同じ水路を流れる、同じ一筋の水だ。足りない場所があるなら、そちらへ回せば済むのではないか。そう思いかけて、それなら誰も、こんな声は出さないだろう、とも思った。水だけの話ではないのかもしれない。では何の話なのかは、分からなかった。
年配の男の横顔に、見覚えがあった。
村の入口で、やへえと呼ばれる男に向かって、強い声で訴えていた男だ。あのとき、男の指は悠人を指していた。それから、田の方へも向いた。指されているのは自分だけではない、と思ったことを覚えている。あの日の指の動きを、今日の指が思い出させた。自分だけを嫌っていたのではなく、田に関わる何かを訴えていたのかもしれない。何を言っていたのかは、今も分からないままだ。
水路の分かれ目には、板が差してあった。縁が黒ずんだ、古い板だ。脇には石が積んである。板を少し起こせば、水の向きは変わりそうに見えた。手は、出さなかった。いつだったか、しんろくは板に手をかける前に、上流と隣の田を確かめていた。手伝おうとした悠人の手は、軽く押し戻された。あれは、勝手に触っていいものではない。板と、流れと、男たちの指の先を、順に見比べるだけにした。
人垣の向こうから、やへえ、と呼ぶ声がしたのは、そのときだった。
男たちの間がわずかに開き、あの男が真ん中まで進んだ。やへえ。呼ばれて出てくるのなら、それが、あの男の名前なのだろう。
やへえは、声の主を一人ずつ、順に指した。指されるたび、声が一つずつ止む。それから水路を見て、川上を見て、川下を見た。短く何か言い、手のひらを下へ向けて、ゆっくり押さえるように動かした。同時に話すな、ということらしい。分かったのは、そこまでだった。
男たちは、すぐには動かなかった。やがて、口を結んだまま、一人ずつ散っていく。板も石も、動かされないままだった。少なくとも、ここで水の流れを変えることにはならなかったらしい。やへえは、去り際に一度だけ、悠人の方を見る。何も言わなかった。
人がいなくなると、水路には、元の細い水音だけが残っている。
帰り道、悠人は水路を指して聞いた。
「あの水は、どの田へ行く?」
しんろくは足を緩め、まず川上の方を指し、それから水路沿いの田を、いくつか順に指して答えた。水が上から来て、田へ入る。その大筋までは分かった。だが、途中に挟まる場所の呼び名が分からない。人の名前なのか、田の呼び方なのか、それすら分からず、どの田を指しているのかまでは、つながらなかった。
「もう一度。ゆっくり」
しんろくは言い直してくれた。ゆっくりには、なった。それでも、知らない言葉は同じところで挟まり、同じところで分からなくなる。しんろくが水路と田を交互に指して、答えを補おうとしてくれていることだけは分かった。
しんろくは悠人の顔をしばらく見て、それから先に立って歩き出した。
夕方、仕事から戻ると、しんろくは鍬を担いだまま、道具の片付けに離れていった。
悠人は納屋の前に残った。戸口の脇の地面は、乾いて固い。足元から棒切れを拾い、しゃがんで、地面に線を引いた。
川の線。そこから分かれる筋。筋の脇に、田をひとつずつ、囲っていく。囲みの形は、どれも揃わない。実際の田も、揃っていない。道と水路と畦に挟まれて、田はそれぞれ違う形をしている。引きながら、足の裏が道を覚えていたことに気づいた。毎朝通う道。田から田へ回る順。水を汲みに下りる場所。歩いた分だけ、地面の上へ置いていける。歩いていない場所は、引けない。そこは空けたままにした。
小石を拾って、田へ水を入れる口があった場所に、ひとつずつ置いた。それから、覚えているかぎりで、男たちが指した場所を思い出した。年配の男の指は、ここと、ここと、ここ。川上の男の指は、ここだけ。
昼間、あの場では、声も指もいっぺんに動いて、何一つ追い切れなかった。地面の上では、ばらばらに指されていた場所が、同時に並んでいる。声は消えたのに、場所は残っている。どの口から、どの田へ水が行くのか。男たちが指していた場所を並べれば、何を争っていたのか、少しは近づけるかもしれない。
もう少しで、日が落ちる。悠人は棒の先で、空けたままの場所をなぞった。ここに何があるのかを、まだ知らない。
気配に顔を上げると、片付けを終えたしんろくが、横に立っていた。
しんろくは、何も言わない。地面の線を、黙って見下ろしていた。




