第12話 曲がった木の先
朝、納屋の戸を開けると、地面の図は半分になっていた。
田の囲みがいくつか、踏まれて消えている。川の線も、途中で途切れていた。足跡か、風か、鶏か。誰かが消しに来た、という感じではなかった。ここは道の脇だ。人も鶏も通る。
しんろくが横に来て、消えかけた線を見下ろした。
「消えたな」
「消えた」
悠人は棒切れを拾い、なぞり直しかけて、やめた。直しても、また消える。昨日、男たちが指した場所も、これでは消えていく。どの口とどの田がつながるのか、また最初から覚え直しだ。描くことより、残すことを考えないといけないらしい。
その日の仕事は、いつもどおりだった。朝の椀。田の草。水汲み。田から田へ移るたび、悠人は足の下で歩数を数えた。正確なものではない。この田からあの田まで、だいたいこのくらい、という感覚を頭に置いていくだけだ。
唇が動いていたのか、しんろくが振り返った。
「何を数えている」
「歩いた数」
「何のためだ」
「田の場所を、忘れないため」
しんろくはしばらく足元を見て、前へ向き直った。歩調が、わずかに緩んだ気がした。
道の曲がり。畦の高さ。水路脇の、幹の曲がった木。水路がどちらへ流れているか。仕事の手を止めずに見られるものだけを、見て、覚えた。よその田には入らない。
道の途中に、水の少ない田があった。昨日の争いの田とは別の、小さな田だ。
「この田、水が来てない」
悠人が言うと、しんろくは首を振った。田の反対側へ回り、低くなった縁を指す。
「水は来る。——」
続きは、知らない言葉だった。しんろくは低い縁の上で、手を外へ流すように動かした。
「出ていく? ここから」
しんろくは頷き、短く何か付け足したが、そこはもう追えなかった。入る口ではなく、出ていく側の話らしい。なぜこの田だけそうなるのかは、分からない。悠人は、その田を「水が来ない田」と決めつけるのをやめた。何が起きているのか、まだ分からない田として覚え直した。
歩いて、見て、数えても、この土地には自分の知らない理由がある。
夕方、日がまだ残っている時間に、悠人は地面の消えた場所を棒で指した。
「これ、残したい」
「昨日の水か」
「うん。どこから、どこへ行くか。消えないようにしたい」
「何に残す」
悠人は、消えかけた線を見た。すぐには答えが出ない。少し考えて、しんろくが言った。
「板ならば、残る」
しんろくは納屋から、古い板を出してきた。片面が比較的平らな板だ。手で土を払い、平らな面を上にして置く。
板を見て、悠人は思い出した。書く道具なら、自分の荷物の中にある。
悠人は母屋の奥の方を指した。それから、板を指す。しんろくには通じない。しんろくが母屋へ声を投げると、やへえが出てきた。
「書くもの。俺の」
やへえは悠人を見た。
「何に使う」
悠人は、消えかけた図と板とを、交互に指した。
「これを、板に残す」
やへえは母屋から布包みを持って出て、悠人の見ている前で開いた。取り出したのは、シャープペンシルが一本。包みは、すぐに閉じられた。
「これか」
「うん」
やへえは板の端を指した。
「まず、そこへ」
悠人は受け取って、板の端へ短い線を一本引いた。細い黒の線が、すっと残った。
しんろくが顔を近づけ、先端と線を交互に見て、線のすぐ横を指で軽くこすった。消えない。
「墨か」
「違う。字を、書くもの」
やへえは試しの線と道具の先を見て、それから、板の真ん中を無言で指した。
悠人はしゃがみ、図の最初の線を引いた。
芯が折れた。乾いた、小さな音だった。
あの夜、この芯を買いに出た。今は、田と水の線を引いている。
ノックすると、折れた芯の続きが、先からわずかに出た。まだ書ける。ただ、いま折れた先は、もう戻らない。買い足せる場所は、もうどこにもない。悠人は握りを浅くして、力を抜いた。木目を避け、大きく、ゆっくり線を引く。川。分かれる筋。田の囲み。田へ水を入れる口の位置には、小さな丸を付けた。水路脇の曲がった木には、幹の曲がりをまねた小さな印を付けた。歩いて確かめた場所だけを描き、分からない場所は空けたままにした。
描き終えた板を、二人へ向けた。
しんろくとやへえは、板を覗き込んだ。だが、しんろくの指は板の上で止まったまま動かない。やがて板ごと持ち上げ、回して、逆へも回した。
「上は、どの方だ」
悠人は答えられなかった。自分には分かる。描いたからだ。だが、この線が川で、この筋が水路で、こちらが川上だという印は、どこにもない。土地の呼び名も知らない。何を書けば二人に通じるのかも、分からなかった。
悠人は板を持って立ち上がり、水路の方を指した。それから板を示して、やへえの顔を見る。
やへえが歩き出した。しんろくも続く。悠人は板を抱え、その後ろへついた。
母屋から水路の方へ向かう畦の途中に、わずかに高くなった場所がある。そこに立つと、水路沿いの曲がった木と、水路の分かれ目が、同時に見えた。
悠人はまず、曲がった木を指した。それから、板の上の、曲げて描いた小さな印を指す。
「木。……これ」
次に、実際の分かれ目を指し、板の上の、筋が割れる場所を指した。板を回す。木と、分かれ目。二つの位置が、目の前の景色と合った。
しんろくの指が、動き始めた。
線をなぞり、なぞった先で顔を上げて、実際の水路の方を指す。また線へ戻り、道の筋をなぞって、後ろの母屋を振り返った。
「ここ、か」
「そこ」
やへえは急がない。木と、分かれ目と、道と、板の線を、一つずつ見比べていく。見えない川下の方の田は、悠人が道の先を指し、それから板の隅の囲みを指して示した。
「この先。……この田」
悠人は最後に、板の上で二つの場所を順に指した。筋が割れる場所——昨日、男たちが集まっていた、あの分かれ目。そして、年配の男が何度も指していた、川下の田。
やへえは図を見て、それから実際の方向を見た。長かった。日は傾いて、板の上の細い線に、影が付き始めていた。
やへえの指が動いた。まず、あの分かれ目を指す。次に、川下の田の囲みを指して、首を振った。
「ここは、ならぬ」
それから指は別の場所へ移り、細い筋の一本を、入口から先まで、ゆっくりなぞった。なぞられたのは、いつもしんろくと入っている田の方へ延びる筋だった。その先の、小さな囲みで、指が止まる。
「ここだ」
「ここだけ?」
「ここだけだ」
やへえは実際の水路の入口の方と、田の方向を見比べた。それから、しんろくへ向けて、入口の板をつまむように指を動かし、少しだけずらして、すぐ元へ戻した。
「少し、試す」
「水を?」
やへえは頷いた。
「ここまで来るか、見る。すぐ戻す」
しんろくも、短く頷いた。
悠人にも、そこまでは分かった。いつ行うのか。誰が入口の板を動かすのか。どれほどの間、水を流すのか。そこまでは、分からなかった。
日が落ちる前に、三人は母屋へ戻った。シャープペンシルは、やへえに返した。再び布包みへ収まり、包みは家の奥へ消えていく。
やへえは図を描いた板を、地面へ平らに置いた。
畦で選んだ細い筋を、入口から先まで、もう一度なぞる。指は、その先の小さな囲みで止まった。
やへえは囲みを二度、軽く叩いて、悠人を見る。
その指は、小さな囲みの上から、しばらく動かなかった。




