第13話 低いほう
朝、母屋の前に、図を描いた板が立てかけてあった。
しんろくが鍬を担いで出てくる。村の男が一人、その後ろで足元を締め直していた。誰がいつ決めたのかは分からない。ただ、今日らしい、ということだけは分かった。
雨は、まだ降らない。道の土は白く乾いて、歩くたびに足の甲が薄く汚れた。田の水も、日ごとに浅くなっている。
人は集めていない。水路へ向かうのは、やへえと、しんろくと、村の男と、悠人だけだった。川下の方へ目をやると、水路沿いに人影が一つ、小さく見えた。年配の男だ。こちらへ来る様子はない。歩きながら、水の方を見ている。いつもの見回りらしかった。
着いたのは、細い筋の入口だった。分かれ目からずっと先、いつもしんろくと入っている田の方へ延びる、あの筋だ。
しんろくが抱えてきた板を、やへえが受け取った。図の中の、小さな囲みを指す。それから顔を上げ、実際の田の、入口から一番遠い隅を指した。
「ここまで」
しんろくが頷く。
水が入口から入って、この小さな田へ届くだけでは足りないらしい。あの隅まで水が行き渡るかどうかを見る。悠人は指の先を目で追って、それだけは呑み込んだ。
田は、狭い。畦で囲まれた、田としては小さな一枚だ。入口はこちら側の端にあり、やへえが指した隅は、その反対の、いちばん遠い角にあたる。
「開けろ」
村の男が、入口の板へ手をかけた。ほんのわずかに、ずらす。
水が入った。細い。
筋を伝って、水は進んでいく。板に引いた線のとおりだ。曲がるところで曲がり、田の方へ向かう。
歩数を数えた道が、線になって、その線の上を水が動いている。合っている——そう思いかけた。
進みが、遅くなった。
先が細くなり、止まったように見える。乾いた床が、吸っているらしい。水の来たところだけ、土の色が濃く変わっていた。
待つ。誰も急かさない。しんろくは腰を伸ばして立っているし、村の男は入口の脇へしゃがんだままだ。時を計るものは、悠人の手元にない。どこで止まって、どれくらい待ってから、また動いたか。それを順に覚えていくしかなかった。
先端はもう一度止まり、それからゆっくりと、田の口へ入っていった。
「来た」
しんろくが言う。
悠人は、やへえが示した遠い隅へ目をやった。
「まだだ」
そこから先が、思ったとおりにならなかった。
水は、やへえの指した隅の方へは広がらない。入ってすぐ、薄く舌のように延びて、畦際へ寄っていく。土の色が変わるのは、その一筋だけだ。
板の図には、田の囲みしかない。囲みの内側の、どちらが高くてどちらが低いかは、どこにも入っていなかった。歩いて見ただけでは、その差は目に入らない。
寄った先で、水は溜まりもしなかった。畦際のわずかに低いところから、外へ抜けていく。田の縁が、そこだけ低い。もとから、そういう場所らしかった。
「下へ行く」
村の男の声がした。
隅は、乾いたままだった。
数日前の、道の途中の田が浮かんだ。しんろくが首を振って、田の反対側へ回り、低くなった縁を指した。水は来る。出ていく側の話だ、と。あのとき聞いたことが、この田にも当てはまるとは、考えていなかった。教わっていたのに、別の田の話として、頭の隅に置いたままにしていた。
抜けたところの土には、細いひびが走っていた。乾いて割れた跡だ。そこへ水が集まり、畦の裾が、わずかに緩む。
やへえは、驚いた顔をしなかった。低い側を見て、水の先を見て、それから畦の裾を見る。
「戻せ」
村の男が入口の板を戻した。水が細くなり、途切れて、止まる。
入れた水のすべてが、なくなったわけではない。田の土へ残った分もある。それでも、目標の隅へは届かず、低い縁から外へ抜けた分は戻らない。隅は、乾いたままだ。この時期に、入れた水を、狙った場所へ回せなかった。それが軽いことなのかどうかは、男たちの顔を見れば、聞かなくても分かった。
男たちが畦の裾へ回った。鍬で土を寄せ、掌で押さえ直していく。悠人も足を泥へ入れた。指された場所へ手をつき、体重をかける。土は冷たく、思ったより柔らかい。押した端から水を含んで、指が沈んだ。
同じ動きを、しばらく繰り返した。
そのうちに、年配の男が近くへ来ていた。
濡れた裾を見て、元へ戻された入口の板を見て、それから悠人を見た。やへえの方へ、短く何か言う。あの分かれ目のときより、低くて、短い声だった。
拾えたのは、水、田、下、という音だけだ。何の話かは分からない。責めている調子でもなかった。指も、悠人の方へは向かなかった。
それから男は、畦の裾の一点を指して、村の男へ短く言った。
「そこを押せ」
村の男が、手の位置を変えた。
あの人が村の入口で言っていたことにも、こういうことが入っていたのかもしれない。何を言っていたのかは、今も分からないままだ。
やへえと男たちが、少し離れたところで短く何か話していた。声は低い。
空気は重かった。それでも、誰も騒がない。悠人を責める声も、庇う声も出なかった。ただ、母屋へ戻る道で、村の男は、しんろくが抱えた板へ目をやらなかった。しんろくの口数も、いつもより少なかった。
夕方、納屋の前で草鞋を脱いでいると、しんろくが桶を提げて通りかかった。
悠人は、その背へ声をかけた。
「明日も、田か」
「田だ」
それだけ言って、しんろくは水汲みの方へ歩いていった。
日が落ちてから、やへえが図を描いた板を持ってきた。
悠人の前へ、黙って置く。何も言わない。しばらくして、母屋へ戻っていった。
悠人は竈の焚き口から、消し炭を一つ拾った。
板に残っていた細い線は、そのままにした。川も、筋も、田の囲みも、口の丸も、曲がった木の印も、場所としては合っている。
その上へ、炭で太く書き足していく。炭は板の木目に引っかかり、粉になって、指の腹を黒くした。
水が田へ入った場所。そこから寄っていった、低い側。抜けていった縁。届かなかった隅には、短い印を一つ。
細い線の上に、太い線が重なった。細い線は、消さなかった。
書き足せたのは、今日、目で見たものだけだ。板の上には、まだ何も引かれていない場所が、いくつも残っていた。




