第14話 先に押さえる
いつもと同じころ、いつもと同じ順で、田へ向かった。誰も昨日のことを言わない。それでも、鍬を持つ手つきも、前を歩く背中も、いつもとはどこか違って見えた。
道の途中で、悠人はしんろくへ聞いた。
「なぜ、あそこから水が出た」
しんろくは歩きながら、少し考えた。
「低いからだ」
それだけだった。低いから、水が出る。そこまでは分かる。では次はどうするのか、と続けようとして、言葉が出なかった。田の呼び名も、水の出入りを言い表す言い方も、悠人は持っていない。しんろくもそれ以上は言わず、鍬を担ぎ直した。
雨はまだ降らない。道の土は白く、田の水は日ごとに浅くなっている。
昼前、別の田で、しんろくが鍬を止めた。
畦際にしゃがみ、足元の土を掌で寄せて、押さえている。掌の付け根で二度、三度。鍬の背で軽く叩いて、また掌で押さえた。
見たことのある動きだった。何度も見ている。ただ悠人は、それを崩れたところの繕いだと思っていた。
その田には、まだ水が入っていない。
しんろくは立ち上がると、少し先の畦際へ移って、同じことを繰り返した。そこから先は、何もせずに通り過ぎる。畦の全部を押さえるわけではない。場所は選んでいる。
低いところを、水を入れる前に押さえる。手の動きは昨日の後始末とそっくり同じで、違うのは順番だけだった。しんろくは迷わず場所を選び、押さえては次へ移った。押さえた場所と、通り過ぎた場所の違いを、悠人には見分けられなかった。
昼の休みに、悠人は納屋から板を持ち出した。
昨夜、炭で書き足した太い線がある。水が寄った低い側。抜けていった縁。届かなかった隅の短い印。板を畦へ置いて、線と、目の前の田を見比べた。
しんろくが横から覗き込み、炭の印の一つを指した。
「これは、どこだ」
昨夜付けた印だ。しんろくはまだ見ていない。悠人は、土の色が変わったままの畦際を指した。
「水が、出た。ここだ」
しんろくは板と畦際を二度見比べ、頷いた。
それから、その濡れ跡の中の、さらに狭い一点へ鍬の先を当てた。乾いてひびの入った土の、そこだけ色の違うところだ。昨日、水が集まって、畦の裾が緩んだのはここだった。板の上では、悠人が引いた炭の線が、その何倍もの幅を持っている。
日が傾く前、やへえが畦へ来た。板を見て、悠人としんろくを見て、水路沿いの方へ顎を向けた。
下手の畦で、年配の男が草を刈っていた。鎌を動かす手は止まっていない。いつもの仕事の途中らしかった。
悠人は短く聞いた。水は、どこから回るのか。しんろくが言い直して伝えた。自分の言葉がどう変わったのかは、悠人には分からない。
年配の男は鎌を置き、田の一方を掌で示し、それから遠い隅の方を指した。
「先に、こちらだ。隅は、後」
拾えたのは、先、後、という音と、指の動きだけだった。悠人は指を一本立てた。
「今一度」
男はもう一度、同じ順で二か所を指した。声の速さは変わらなかったが、指の順は変わらなかった。低いほうへ先に回って、遠いところは後になる。それだけを、悠人は頭に入れた。
なぜ後になるのか、どれくらい後なのかは、聞けなかった。聞く言葉を持っていない。
男は立ち上がり、水路沿いを少し歩いて、筋の曲がっているところで足を止めた。曲がった木の、先にあたる。曲がりの外側の縁が、ほかより低い。すぐ外に、田へ通う細い道があり、道側の土は削れていた。
男はやへえへ短く何か言った。しんろくが振り返って、悠人へ言い直した。
「水が増せば、ここから出る」
男はそれきり鎌を拾い、草の続きへ戻った。悠人を見もしなかった。
夕方、母屋の竈の焚き口から、消し炭を一つ拾った。
書き足したのは二つだけだ。濡れ跡の中のあの狭い一点へ、短い印を一つ。もう一つは、板の上で筋が曲がっているところへ、小さな印を一つ。曲がった木の印の、先にあたる場所だ。道は板に描かれていない。描き足しもしなかった。
昨夜の線と印は、そのままにした。
炭は木目に引っかかり、粉になって指の腹を黒くした。印は小さく、線にはしなかった。
水が先にどちらへ回るのかも、どれだけ待てばよいのかも、書かなかった。
翌日、朝のうちに、あの小さな田の畦際へ土を寄せた。
しんろくが場所を決め、村の男と悠人が手を入れた。前の試しで、水が抜けていったところだ。前と同じ場所で、前と同じ手つきで、順序だけが違っていた。
表は白く乾いていたが、鍬で掻くと、その下には湿りが残っていた。しんろくは乾いた粉を上から載せず、下の土を掻き上げ、縁へ押し当てた。悠人も掌の付け根で押さえた。土は少し粘り、押した跡が指の形のまま残った。
昼を過ぎて、日はまだ高かった。
やへえが入口の前に立ち、小板の開き方を指で示した。前と同じほどに見えた。
「開けろ」
村の男が板をずらす。細い水が入り、筋を伝って進み、乾いた床に吸われて、また進んだ。
水は前と同じように、田へ入ってすぐ低い側へ寄った。だが、前のようにはすぐ外へ出ない。押さえた土の色がじわりと濃くなり、そこで止まる。低い側に、水が薄く溜まり始めた。
やへえは止めなかった。
悠人は前と同じ位置に立って、水の縁を見ていた。前には、そこで乾いたままだった場所を、水面が越えた。越えてからは、さらに遅い。畦の外を一度歩いて戻ってきても、縁はいくらも動いていなかった。
村の男が入口の脇に座り込み、しんろくは畦の草を抜き始めた。誰も急かさない。悠人も一度、草へ手を伸ばしかけて、やめた。目を離した隙に、どこまで来たか分からなくなる。
押さえた縁のあたりに、細く濡れた筋が見えた。まったく出ていないわけではないらしい。それでも、前のように土の色がみるみる外へ広がっていくことはなかった。
日が少し傾き始める頃、水は隅へ届いた。
触れた、という程度だった。薄い水の縁が隅の土へ届いて、色を変え、そこで止まる。田の全部が満たされたわけではない。前には乾いたままだった場所に、今日は水がある。それだけのことだった。
歓声は上がらなかった。
しんろくは隅の色が変わったのを見て、ふっと歯を見せた。濡れた指でその場所を示し、悠人を見る。
「来たな」
悠人も、隅を見て頷いた。しんろくはもう一度だけ笑い、水へ目を戻した。
「戻せ」
やへえが言い、村の男が小板を元へ戻した。水が細くなり、途切れる。
しんろくが泥の手を振って、短く言った。
「戻るぞ」
母屋の前で、やへえが板を手に取った。
しばらく見てから、印の一つを指す。
「ここか」
悠人は板の上のその印を指し、それから、田のある方を指した。
「そこだ。水が、来た」
やへえは頷き、板を抱えたまま、母屋の中へ入っていった。返す気配はなかった。誰かに見せる、というような短い語が一つ聞こえた気もしたが、誰に、とまでは分からない。
指先に、炭の粉が付いていた。板の炭へ触れたときのものだ。
遠い隅が後になるわけは、まだ聞けなかった。




