第15話 二本の跡
夜半に目が覚めた。屋根を打つ雨の粒はまばらで、強い降りではない。それより、山の方で低く鳴り続けている音の方が長く耳に残った。雷だ。近くではないが、間を置いて何度も鳴った。
寝床へ戻ってから、川の音が変わっていることに気づいた。日暮れに聞いたときより太い。
明け方、外の声で起こされた。ほどなく、戸の向こうで閂が外された。
戸が開くと、庭ではもう男たちが動いていた。呼ばれるまま、水路の方へ回る。
枝水路の水が増えている。底の石が見えていたところは、濁った面で埋まっていた。
村の男たちの言葉のうち、上で降った、という短い一続きだけが拾えた。山の向こうの雨が、いま下りてきているらしい。理屈は分からない。
庭へ戻ると、やへえが人を割っていた。指が幾度か動いて、男たちが散っていく。取入口の方、畦の方、上手の家の方、それから水路の曲がりの方。しんろくは畦の方へ走った。
悠人にも指が向いた。土だ。運べ、と手が言っている。
土を担いで運ぶ形も、掌の付け根で縁を押さえる形も、いつのまにか手が覚えていた。二度、三度と運んで、袖まで泥になった。
やへえが手を上げ、悠人ともう一人の村の男へ上手を指した。土と縄と鍬を、曲がりの持ち場へ持って行け、ということらしい。
細い道を上がる。連れの男は黙ったまま、悠人の少し先を歩いた。
曲がりのところで、悠人は足を止めた。
曲がった木の、先にあたる場所だ。水路の筋が大きく折れ、外側の縁がほかより低い。すぐ外を、田へ通う細い道が通っている。数日前、年配の男が鎌を置いて、ここで足を止めた。
水が増せば、ここから出る。
しんろくが言い直した言葉が、そのまま出てきた。
水の面は、縁のすぐ下にあった。指の幅にして、いくつ分か。越えてはいない。それでも、乾いていた縁の土が、見ているあいだに色を変えていく。
連れの男も水を見ていた。舌を鳴らし、荷を下ろして、持ち場の男の方へ顎をしゃくる。増えていることは、この男にも見えている。男は縄をほどきにかかり、悠人の方は見なかった。
悠人は担いでいた荷を下ろした。
母屋にある板の、小さな印が頭に浮かんだ。曲がった木の印と、その先に一つ。消し炭で付けたきりの印だ。
外の細い道は低く、緩く曲がりながら、村の下手の家並みまで続いている。
水が縁を越えれば、あの道へ出る。そのまま下へ行く。
やへえに知らせなければ。
悠人は来た道を駆け戻った。
母屋の前へ着くと、息が上がって、最初の一言が出なかった。
やへえが振り返る。
「上の曲がり。水、増した。道へ、出る」
指を上手へ向ける。やへえの眉が寄った。悠人はもう一度上手を指し、低い道の続く方へ手を振り下ろした。
「下へ、来る」
やへえは何も言わずに母屋へ入り、板を抱えて出てきた。持っていったきり、返ってこなかった板だ。炭の面をこちらへ向けて差し出す。
悠人は小さな印を指した。それから、水路の方を指す。
やへえは板と悠人を二度見比べ、印の一つへ自分の指を当てた。悠人が頷くと、板を小脇に挟み、下手の家並みのある方を指す。それから悠人の胸を指し、もう一度、下手を指した。
知らせに行け、ということだ。水より先に着けば、向こうにも備える時間ができる。遅れれば、水が来てから動くことになる。
やへえが庭を見回した。取入口へ、畦へ、上手の家へ、曲がりへ。男たちはもう出ている。目が畦の方で一度止まった。そこにはしんろくがいる。呼び戻す声は、上がらなかった。
歩いていては、水より先に着けるか分からない。
悠人は母屋の軒下を指した。筵の下に、自転車がある。預けたきり、そこに置かれたままだ。自分を指し、拳を二つ、前へ回してみせた。
「早い」
やへえの目が、軒下と悠人のあいだを往復した。
「乗るのか」
頷く。やへえは家の者へ短く言った。筵が剥がされ、土埃をかぶった車体が朝の光の下へ出てくる。
「行け」
自転車が軒下から出されると、畦の方にいたしんろくが駆けてきた。手が泥だらけだ。水路沿いの細い道を指し、首を振る。
「そこは、水だ。こちらを行け。二つ目の曲がりを、下へ」
近道は使えないらしい。しんろくは村を回る広い道を示した。分岐も目印も拾いきれない。広い道と二つ目だけを頭へ入れる。
しんろくが悠人の肩を一度叩いた。
「転ぶな」
サドルにまたがって踏み込む。タイヤが回り、地面が後ろへ流れ始める。
固く踏まれた道では走れた。歩くのとは比べものにならない速さで、畦の列が横を過ぎていく。
だが、続かない。窪みに溜まった水を突っ切ろうとして前輪が急に重くなり、体が前へ投げ出された。足を着いて、どうにか止まる。膝から下が泥になった。そこからは降りて押した。
石の浮いた区間も押した。それでも、押す時間より走る時間の方が長い。
道端で水を汲んでいた女が顔を上げ、桶を取り落とした。半歩下がったまま動かない。過ぎてから、後ろで何か叫ぶ声がした。
下手の家並みが見えたとき、息は喉で鳴っていた。
年配の男が庭先で若い男へ何か指図していた。鍬が二本、壁へ立てかけてある。悠人が来る前から、この家は動いていた。
男が振り返る。数日前に田で会ったきりだが、誰か、とは聞かれなかった。
悠人は自転車を倒すように下ろし、上手を指した。
「上の曲がり。水、道へ出る。下へ、来る」
男の目が指の先を追う。悠人は道の続く方へ、手を振り下ろした。それだけだった。
男は最後まで聞かなかった。庭の方へ向き直り、声を張る。
「子を連れて行け。上へ」
道沿いの小屋から、女が幼い子を抱えて出てきた。足を引きずる年寄りの女には、若い男が腕を貸した。女は子を抱いたまま坂を上がり、若い男と年寄りの女がそのあとを追う。水が来る前に、低い小屋から上へ移すのだ。
「俵、先だ。籠も」
悠人は指された物へ手を掛けた。若い男と二人で、俵を一つずつ坂の上へ運ぶ。中身は分からない。濡らせない物なのだろう。戻って、最後に編み目の粗い籠を抱えた。下ろしたとき、腕が震えていた。
年配の男は、道の反対側を指していた。自分の家の裏手へ続く、低い田が一枚。その畦の道側に、土と草で浅く塞がれたところがある。
水を止めるのではない。家並みへ向かう分の一部を、あの低い田へ落とすつもりらしい。
「そこを、開けろ」
村の男が鍬を入れる。塞いでいた土が崩れ、草の束が外へ落ちた。口が開く。悠人は落ちた草をかき集め、指された脇へ寄せた。
顔を上げると、道の上手が濡れていた。
濁った水が、道の低い側を伝って下りてくる。壁のようには来ない。誰かが短く叫び、坂の上へ駆け上がった。
やがて水は、開いた口から低い田へ落ち始めた。落ち口の土が削れ、畦の裾が濁って崩れる。田の面は低く、水はそちらへ吸われていく。
道は水を被った。下手の田も、いくつかは浸かっている。小屋の土間の手前まで水が来て、そこで縁が止まった。
年配の男は腰へ手を当てて、それを見ていた。
「ここで、止まる」
それきりだった。男は若い者を呼び、水の来ていない側へ回らせる。
自転車を起こすと、前輪が回らなかった。草が軸へ巻き付き、泥が詰まっている。指で引き出せるだけ引き出し、サドルにまたがってペダルへ足を掛けた。
鎖が硬い音を立てた。一度、引っかかるように止まった。
悠人は足を下ろした。それ以上は踏まなかった。
押すと、車輪は動いた。重いが、回る。
道には、来たときの跡が残っていた。細い筋が、泥の上を続いている。曲がったところだけ、筋は二つに分かれて、また合わさっていた。
いま押している跡が、その横に付いていく。重なり、離れ、また重なる。押している方の筋の脇には、悠人の足跡が並んだ。
畦の上から、村の者が何人かこちらを見ている。悠人ではなく、地面の方へ目を落としている者もいた。
もとの庭口まで戻ると、やへえが立っていた。板はもう手にしていない。
悠人が自転車を軒下へ入れると、やへえは椀を差し出した。水だった。飲むあいだ、何も言われない。飲み終えて椀を返すと、やへえは一度だけ頷き、母屋へ入っていった。
庭口を振り返る。
道の泥に、細い筋が二つ続いていた。行きに走って残した筋と、押して戻った筋だ。二つは離れたり重なったりしながら、村の方へ消えている。帰りの筋の横には、自分の足跡が並んでいた。




