第16話 写される線
水が引くと、道はまた歩けるようになった。
低い田の泥をならし、崩れた畦の裾を寄せ直す。増水の前と同じ順で、同じ道を通って田へ出る。違うのは、朝に鍬を渡す手が少しだけ早くなったことと、畦の分かれ目で先に行けと顎で示されるようになったことくらいだった。誰も、あの日のことを口にしない。変わったのは、それだけだった。
板は戻ってこず、悠人も求めなかった。
数日が過ぎた朝、庭先に見慣れない男が立っていた。
供も連れず、菅笠を手にしている。館の者だと分かったのは、やへえの背中の下げ方だった。男は短く何かを言い、指を二度、前へ送るように動かした。日を数えている、と思った。
やへえは頷いて、母屋の中へ消えた。
出てきた手に、板があった。
悠人が納屋から持ち出し、炭で線を足し、印を付けたあの板だ。やへえはそれを男の前へ差し出し、低い声で何か言い添えた。男が板を裏返す。指が、板の面をゆっくりたどっていった。
やへえの言葉は途切れがちだった。悠人が拾えたのは、水、上、下、という音と、輪を描くように動いた手だけだ。あの朝に自分が走ったことを言ったのかもしれない。曲がりのことなのかもしれない。どこまでが自分の話なのか、分からなかった。
男は板を布に包むと、それを抱えて門を出た。
その背中が見えなくなってから、やへえが振り返った。
「五日目に、館へ行くぞ」
五日目。館。行く。どれも、今では聞き取れた。悠人は自分を指す。
「俺も、館へ行くのか」
やへえは悠人を指したまま、一度頷いた。
板を抱えて去った男の方を、悠人はもう一度見た。
「何をする?」
「知らぬ」
やへえは首を振り、それきり母屋へ入っていった。
聞けるのは、そこまでだった。やへえが知らないなら、重ねて聞いても仕方がない。
田仕事は変わらず続いた。夜、外から閂の落ちる音を聞くたび、館で何を問われるのかを考えかけて、やめた。
四日目の夕方、田から戻ったところで、やへえが悠人としんろくの前に立った。
「あすの朝、館へ行くぞ」
「分かった」
しんろくは鍬を持ち直し、何も言わなかった。
その帰り、納屋へ戻る道でしんろくが横に並んだ。
「行くのか」
「行く」
それだけだった。しんろくは肩を一度叩き、先へ歩いていった。
翌朝、悠人はやへえと二人で村を出た。
縄はない。前を歩く男の背中も、両脇に立つ男もいない。やへえの半歩後ろを、ただ歩く。初めてこの道を通ったときは四人に囲まれていて、足が思うように動かなかった。同じ道が、同じ長さには感じられない。
館は、記憶にあるままだった。門の前で草を運ぶ男たちが手を止め、こちらを見て、また動き出す。前庭を横切るあいだ、誰にも呼び止められなかった。
靴を脱ぎ、板敷きの下手に座る。座り方は、もう教わらなくても分かる。書き役が控えの束を膝の脇へ広げ、端をそろえていた。厚みは、前に見たときより増している。以前ここで自分が言った言葉も、この中のどこかにあるはずだった。
書き役が紙へ目を落とし、短く読み上げた。
「中村弥兵衛」
隣で、やへえが低く応じ、頭を下げた。返した言葉は、村で悠人へ話すときよりずっと拾いにくい。同じ人が、ここでは違う話し方をしている。
中村。やへえの名の前に付いたその音が、何を指すのかは分からない。ただ、館ではそう呼ばれるらしかった。
上座に、あの男が座った。悠人の前へ、板が置かれる。
炭の印は、消されていなかった。太い線も、隅の短い印も、そのまま残っている。指が黒くなったときの感触が、急に戻ってきた。
上座の男は板を一度見て、それから控えの束へ目を移した。書き役が紙を送る。見比べているのだと分かったが、何と何を比べているのかまでは分からない。
やがて、短く問いが来た。
「あの日、何をした」
村で覚えた音が混じっているのに、一度では意味にならない。館の言葉は、村より遠かった。
言い方を変えて、二度繰り返される。二度目で、水、という音と、板を指す指が結びついた。
悠人は板の上の、小さな印を指した。それから、指を印の外の方へ動かす。
「聞いた。水、増せば、ここから出る。印、付けた。あの日、水、来た。ここだ」
言葉が足りているとは思えなかった。それでも、上座の男は遮らない。書き役の筆が動き、止まり、また動いた。
上座の男は板の印を指し、指を一本ずつ折りながら短く問うた。いつ付けたのか、と聞いているらしい。悠人は指を三本立てかけ、すぐに手を曖昧に揺らした。数日前。何日前かまでは数えていない。上座の男の指は下ろされ、また控えの方へ戻った。
刀を差した男が、口を開いた。
「誰に聞いた」
「名は、知らない」
言ってから、田のある方角を指した。腰をかがめて、草を刈る手つきをしてみせる。それから、自分の顎の下で手を動かした。年を取った男。示せるのは、それだけだった。
あの人が呼ばれるのだろうか、と思った。田で鎌を置き、水路沿いを歩いて、曲がりで足を止めた男。何も言わずに草の続きへ戻っていった背中。自分が指したせいで、あの人まで館へ引かれるのなら。
刀を差した男が、やへえの方へ目を向けた。
やへえは、一度だけ頷いた。
それ以上は、何も言わない。刀を差した男もそれきり方角のことを問わず、次へ移った。
「聞く前から、知っていたか」
悠人は首を振った。強く、二度。
「なぜに印を付けた」
答えは短い。
「忘れる、から」
書き役の筆が動いた。刀を差した男は、その筆先を見てから、控えの一枚を膝の上へ引き寄せ、指の背で二度叩いた。字は読めない。ただ、その男の目が上がって、悠人を見た。
「どの道を通った」
「近い道、水。通れない。広い道、行った」
言葉だけでは足りない。悠人は板ではなく、戸口の向こうを指した。村のある方角だ。それから床へ、一本の道を引いた。二度曲げて、最後に下手の方を指した。
続けて、その脇へ短い線を引き、指を線の上で波打たせて首を振る。それだけは伝わってほしかった。
刀を差した男は、指の動きを最後まで見ていた。それから控えへ目を落とし、また上げる。
「ほかに、何を知る」
問いが、急に広くなった。
何について聞かれているのか、分からなかった。田のことか、水のことか、それとも、この先のことか。どこまでを問われているのかが分からないまま、悠人は手のひらを上へ開いた。
覚えがない。答えを、持っていない。
前にこの部屋で作った、あの形だった。
刀を差した男の声が、初めて高くなった。短い言葉が続けて二つ。意味は取れない。取れないまま、悠人は手を開いたままにしていた。膝の上で、指先が震えているのが自分でも分かった。
上座の男が、片手を上げた。
それから、しばらく悠人を見ていた。長い沈黙だった。やがて書き役の方へ短く何か言う。書き役の筆が走り、控えへ一行が足された。
何と書かれたのかは、分からない。分かるのは、手のひらを開いたことが、そこに何かの言葉として残ったということだけだ。
上座の男が目を向けると、書き役が束の前の方を一枚めくった。男はそこへ指を置く。指はそこと、今日の紙のあいだを一度往復して、止まった。悠人には、どちらの紙にも読めるものがない。
それから、上座の男はやへえへ向き直った。
「それまで、預かれるか」
やへえが頷く。低く、短い返事が一つ。
上座の男の脇に、折った紙があった。男はそれを開かずに、上から一度だけ目を落とす。それから悠人の方へ、二つか三つの言葉を向けた。
続いた言葉の中に、てら、に近い音があった。それから、日を数えるような音。指が二度、前へ送られる。
寺。行くらしい。いつなのかは、分からない。
やへえが頷いた。悠人も、頭を下げた。行きたいとも、行きたくないとも言わなかった。言う言葉がなかったのではない。言ってよいのかが、分からなかった。
刀を差した男が、短く息を吐く。控えの束を、元の位置へ戻す音がした。
立つように示されるまで、少しの間があった。
その間に、書き役が板を膝の前へ引き寄せていた。
新しい紙が広げられる。筆が墨を含み、板の上の線をたどっていった。悠人が炭で引いた太い線は、紙の上では細い墨の線になる。曲がりの印も、隅の短い印も、同じ形で置き直されていく。筆は速くも遅くもなく、線の途中で一度止まって、板と紙を見比べてから続いた。
線の脇に、字が添えられた。読めない字だ。線そのものも、もう自分の手の癖ではなくなっている。
悠人は、それを見ていた。
止めなかった。返してほしいとも言わなかった。板は、館に残る。写された紙も、悠人の手には来ない。




