第17話 善得寺
支度は、すぐに済んだ。
持っていく物が、もともとない。着ているものと、貸された草鞋だけだ。納屋の筵を畳んで隅へ寄せると、寝ていた形跡はそれだけで消えた。
庭へ出ると、しんろくが立っていた。鍬を持っている。これから田へ行く姿だった。
「いつ戻る」
「分からない」
しんろくは何か言いかけて、やめた。それから、悠人の肩を一度叩いて、田の方へ歩いていった。振り返らなかった。
やへえが庭口から呼んだ。
「行くぞ」
門の前に、館の使いの男が待っていた。あの日、板を抱えて帰った男だ。腰に刀を差しているが、それだけだった。縄はない。囲む者もいない。やへえの後ろについて、村を出た。
道は、館へ行くときの道とは違った。
田の間を抜け、林の縁を回り、緩い坂を下る。やへえも使いの男も、行き先を説明しない。悠人も聞かなかった。聞いたところで、地名を言われても分からない。
しばらく歩いたころ、行く手に高い屋根が見えた。
一つではなかった。長い塀の向こうに、奥へ重なるように、いくつもの屋根が見える。村の家とは幅も高さも違い、軒が深かった。塀は途中で切れず、道の先まで伸びている。
門は開いていた。
人が出入りしている。材木を担いだ男が二人、悠人たちの脇を通って外へ出ていった。中では、旅装の男が笠を脱いで誰かと話している。
奥から、鐘の音がした。
低く長い音で、鳴り終わってからもしばらく空気に残った。頭を剃り、衣を着た男が、その方へ歩いていく。
寺だ、と悠人にも分かった。
ただ、村で見た小さな堂と、同じ言葉で呼んでよいものには見えなかった。
墨の匂いがした。廊下の先に、紙へ何かを書いている人影が見えた。
村より大きい、というだけではなかった。館とも違う。館では、少なくとも悠人が入れられたあの部屋では、誰もが上座の男の言葉を待っていた。ここでは、目に入る者たちが、それぞれ別の用事に、それぞれの速さで動いている。
上か下か、という並べ方が、うまくできない場所だった。
使いの男が、迎えに出てきた男へひと続きの口上を述べ、やへえも途中で短く答えた。
長くはない。形の決まったものらしい。悠人には、その形が分からない。ただ、そのやり取りの中に二つ、拾える音があった。
みなくち。
これまでにも聞いた音だ。どこかの場所を指す音らしい、とまでは思っていた。今、この場で、やへえと自分を指す言葉の中に混じったということは、あの村を指す音なのだろう。
もう一つは、ぜんとく、と聞こえた。
ぜんとく。
善得寺。
名前は、すぐに浮かんだ。今泉の善得寺公園。昔、大きな寺があった跡だと、子どものころから聞いていた場所だ。
だが、目の前にあるのは跡ではない。塀の向こうに屋根が重なり、鐘が鳴り、人と荷が行き交っている。
同じ名の、別の寺なのか。
それとも、ここが。
そこまで考えて、止めた。目の前の寺と、あの公園が同じ場所だと決めるには、まだ何かが足りなかった。
使いの男が、布の包みを差し出した。
見覚えのある包みだった。シャープペンシルを取り出したあと、また包まれ、それからはやへえの家に預けられたままだった。中身は分かっている。自分の物だったはずのものだ。それが、また別の手へ渡っていく。
包みが受け取られたあと、使いの男は懐へ手を入れ、折った紙を出した。それも渡す。
そちらは、悠人の物ではない。読むこともできない。ただ、自分について書かれたものかもしれない、と思った。二つは別々に渡され、別々にしまわれた。
やへえが、悠人を見た。
「ここにおれ」
それだけだった。一度だけ頷いて、使いの男と門の方へ歩いていく。悠人は深く頭を下げた。顔を上げたときには、二つの背中は塀の切れ目に入るところだった。
引き止めはしない。引き止める言葉は持っていたが、言ってよいのかが分からない。
僧が一人、悠人の前に立った。
四十を過ぎたくらいに見える。目が合っても、驚きも嫌そうな顔もしなかった。ついてこい、というように顎を引いて、先に歩き出す。
通されたのは、さっきの大きな建物の裏手にある、狭い部屋だった。
板敷きに、筵が一枚。壁際に小さな棚。戸口の外に、細い庭と、その向こうの低い塀が見える。僧は部屋の中を指し、それから戸口の外の、庭の端までを手で示した。ここまで。その先は、指さなかった。
閂は、なかった。かといって、どこへでも行っていいわけでもないらしい。
下働きが、水の桶と、丸めた筵をもう一枚運んできた。悠人が立ったままでいると、床の一点を指して、短く言った。
「そこへ、座れ」
分かった。膝を折り、板敷きへ腰を下ろす。
村で何度も聞いた形の言葉だ。指と一緒に来る短い言葉は、もう耳が拾う。
下働きが出ていくと、僧が悠人の正面へ座った。膝の前に、紙と、小さな硯を置く。
そして、話し始めた。
――分からない。
音は聞こえている。区切りも、間の取り方も丁寧だった。だが、一つも入ってこない。言葉の後ろに、悠人の知らない形がいくつも重なっているようだった。
さっきの下働きの一言は分かったのに。
僧は悠人の顔を見て、そこで止めた。それから、言い方を変えた。
「名は」
これは、分かった。
「たかせ、ゆうと」
僧は筆を取り、何かを書いた。それから、悠人の言った音をなぞる。
「たかせ。ゆうと」
頷く。思い切って、聞き返した。
「ここは、どこ」
返ってきたのは、また長い言葉だった。問いが通じたのか、別のことを答えられたのかも分からない。僧は途中で止め、手を横に振るような仕草をした。これ以上は続けるな、ということかもしれなかった。
「どこから、来た」
これも分かった。
「いまいずみ」
館では空を切った音だ。だが、ここで善得寺という名を聞いたあとでは、言わずにはいられなかった。
僧はすぐには書かなかった。悠人の口元を見て、もう一度を求めるように手を上げる。
「いまいずみ」
頷きも、首振りも返らなかった。僧は少し考えてから、その音を書いた。
「くに、は」
くに。その音は分かった。だが、何を答えればよいのかが分からない。日本なのか、静岡なのか。それとも、この人の言う国は、別の何かなのか。
次の問いは、長かった。
丁寧に区切られていたが、区切りの一つ一つが分からない。二度言われても同じだった。三度目に僧は言葉を短くしたが、それでも真ん中あたりの語が抜け落ちる。そこが分からないと、前も後ろも組み立てられない。
悠人は、片手を上げて、手のひらを上に開いた。
答えを持っていない。
僧の目が、その手で止まった。
しばらく見てから、僧はまた短く問うた。今度は、いつ、に近い音だけは拾えた。だが、何をいつと問われたのかが分からない。悠人は手のひらを開いたままにした。
僧は少し間を置き、別の言い方をした。
「みず」
分かる。悠人は頷いた。
「いる」
言ってから、桶の方を見る。僧も見た。
「めし」
頷く。
それから、また分からない語を含む問いが来て、悠人は首を振った。覚えがない。知らない。そういうつもりの首振りだった。
僧の筆が、一度止まった。
もう一度、最初の長い問いへ戻る。悠人は手のひらを開く。次に、みず。頷く。それから、知らない語。首を振る。
僧は三つを順に見た。悠人の顔ではなく、手と首の動きを見ている。
同じ返事ではないらしい――そう見ているように思えた。頷きと、首振りと、手のひらが、一続きの拒みではないことは、伝わったのではないか。
確かめる術は、ない。
僧は紙へ、いくつかの音を書き留めていった。悠人が口にした音を、そのまま置いているらしい。一度、書きかけた筆先が戻り、別の形へ動きかけて止まった。僧は筆を紙から離し、悠人の口元をもう一度見た。同じ音を求め、それから、最初の続きへ筆を下ろした。
結論らしいことは、何も言われなかった。
日が傾き、部屋の中が薄暗くなってきた。
僧は筆を置き、戸口の外へ目をやる。しばらくそのまま外を見てから、紙の端へ、短い線を引いた。まっすぐではない。ゆるく曲がった線だった。
それから、外を指す。
低い雲が垂れていて、その下に、暗い山裾だけが見えていた。稜線の上は雲に隠れ、どこまで高いのかも分からない。
僧はもう一度、山裾を指し、それから紙の曲がった線を指した。
比べようとしている。この線と、外のあの形を。何かの場所を確かめようとしているのだろう。
悠人は、紙の線と、雲の下の暗い山裾を見比べた。
まだ、何一つ確かではなかった。




