第18話 同じ土地
寺へ来て、数日が過ぎた。
朝に椀が来て、そのあとに僧が来る。同じことを、また聞かれる。名。来た場所。くに。答えられるものだけ答え、答えられないものには首を振るか、手のひらを上へ開いた。日の運びが、そういう形に決まりつつあった。
同じ問いを何度も向けられる理由は、分からない。ただ、返す答えが毎回同じかどうかを見られているらしい、というところまでは察しがついていた。
その朝は、晴れていた。
来た日に垂れていた低い雲が、高いところまで上がっている。僧は紙を広げ、膝の前へ置いた。前に引かれた曲がった線の脇に、新しい線が何本か足されている。
僧が、その曲がった線を指した。それから、戸口の外を指す。
「山」
悠人は外へ目を向けた。
雲の上に、山があった。
来た日に見えたのは、暗い山裾だけだった。今は、上まで見えている。白いものが頂の近くに残り、右側の斜面が、下まで滑らかに落ちていく。あるはずの突起は、やはりない。
「ふじ」
言うと、僧が短く頷いた。
悠人の目は、そこから右へ動いた。
主峰の右手に、低い山並みが連なっている。一つの高い峰ではなく、いくつもの尾根が重なりながら、東の方へ長く伸びていく。
――愛鷹山だ。
漂着した朝、霧の中で探して、どこにも見つけられなかった稜線だった。あの日は、富士山も、この山も、まとめて呑まれていた。それが今、二つとも、同じ並びで空の下に置かれている。
胸の奥で、何かが小さく鳴った。
僧は悠人の顔を見ていた。何を見たのか、と問うような目だった。悠人は答えなかった。答える言葉がない。
僧は紙へ向き直り、筆でもう一本、短い線を引いた。それから、指を線の上で滑らせる。流れる、という動きだった。
「みず」
悠人は頷き、また外を見た。
寺のある土地は、北から南へ、ゆるく下っている。水は高い側から来て、低い側へ抜けていく。田の縁を回り、林の手前で見えなくなる。向きは、記憶と同じだった。
そういえば、と思う。水は、水路だけにあったわけではない。館へ連れて行かれた日も、村へ帰った日も、道端の石の間から水が出ていて、細い流れになって下の田へ落ちていた。
僧の指が、また動いた。今度は、悠人が歩いてきた方角を示している。それから、紙の別の線へ触れた。
「みなくち」
その音は、聞き取れた。
「みなくち」
悠人が繰り返すと、僧はもう一度、同じ線を指で押さえた。
あの村へ戻る道は、途中から緩く上っていた。下ってきたのだから、当たり前だ。当たり前のはずのことが、なぜか引っかかった。
僧が立ち上がり、顎で外を示した。
部屋を出て、庭の端まで数歩。そこで僧は、紙の一点を指し、次に足元を指した。二度、同じ順で繰り返す。この紙のここが、いま立っている場所だ――そういうことらしい。
悠人は、周りを見た。
北に、富士山。その右手に、低い山並み。山側から来て、低い方へ抜けていく水。みなくちへ戻る、上りの道。
そして、南。
堂と塀の切れ目の向こうに、田と林が広がっていた。その先に低い高まりが横たわり、さらにその上に、灰色がかった青い帯が細く伸びている。浜は見えない。波も見えない。それでも、何かは分かった。
海だ。
山と海のあいだに、この寺が置かれている。
悠人の手が、止まった。
もう一度、寺を見た。門。長い塀。奥へ重なる屋根。それから山を見て、水を見て、南を見た。
ここだ。
理屈は、あとから来た。先に来たのは、確信だった。
ここは、今泉だ。
息が浅くなった。膝の横で、指が勝手に動いている。
この寺は、善得寺公園の場所だ。昔、大きな寺があった跡だと、子どものころから聞いていた、あの公園。
そこまでは、すぐだった。
それから、少し遅れて、悠人は目の前を見た。門。塀。奥へ重なっていく屋根。人が出入りし、荷が運ばれ、鐘の音が響いている。
自分の知るあの公園には、これがない。
一つもない。
なぜ、と思った。思っただけで、何も出てこなかった。分からない。ただ、いま目の前にあるものは、自分のいた時代には、なかった。
口には出せない。言う言葉もないし、言ってよいのかも分からない。
「何を、見た」
僧の声は短かった。悠人は顔を上げ、片手のひらを上へ開いた。
僧はしばらく悠人を見てから、部屋へ戻り、紙へ筆を下ろした。何を書いたのかは見えない。読めもしない。
悠人は、庭の端に立ったままだった。
村へ戻る道の方角を、目で辿る。あの向こう、緩い上りを上がって、少し行った先。そのあたりに、家があったはずだった。
田がある。林がある。知らない道が、林の手前で曲がっている。
家はない。知っている道も、ない。
どの田なのかも、分からなかった。
過去だ。
……いや、今さらそこからかよ。
山の形も、水の向きも、とっくに見ていた。それでも、家があるはずのところに田しかないのを見るまでは、どこかで、まだ元へ戻れるような気がしていた。
帰る。
どうやって。
そこで止まった。
昼、粥と漬物が出た。僧は紙を畳んで席を外し、しばらく戻らなかった。悠人は膝を抱えて座り、外の光が板の間を少しずつ移っていくのを見ていた。
椀は、誰かが運んできて、誰かが下げていく。今夜どこで寝るのかも、自分では決めていない。
それでも腹は減る。明日も減る。
帰り方が分からないあいだも、食べて、寝ることになる。
日が傾き始めるころ、僧が戻ってきた。若い僧が、布の包みを抱えている。
見覚えのある包みだった。それが、筵の上で開かれる。
スマートフォン。財布。鍵。シャープペンシル。替え芯とレシートの袋。
僧は手に取らなかった。膝をつき、置いたまま順に見ていく。それから、鍵を指した。
「これは」
悠人は鍵をつまむ真似をして、手首を回した。それから、両手で戸を引き開ける形を作る。
「いえ。あける」
僧が頷いた。戸を開けるための物だと伝わったのかどうかは、分からない。
次に指されたのは、小さな袋だった。悠人は中の紙を出して見せた。細かい字が並んでいたはずのところは、端の方が薄くなり、擦れて読めなくなりかけている。僧は目を近づけたが、何も言わなかった。
シャープペンシルは、書く動作を一度しただけで済んだ。僧はそれ以上尋ねなかった。
最後に、僧の指が止まった。
「これは」
悠人は僧を見た。触ってよいか、という目だった。僧は止めなかった。
手に取る。冷たい。側面のボタンを押し込むと、指の下で小さく震え、画面が白く光った。
若い僧が、半歩下がった。
隅の表示は、ほとんど残っていない。あの夜、納屋の中で電源を切って取っておいた、わずかな分がまだ生きていた。
悠人は写真を開いた。
暗くなりかけた部屋の中で、そこだけが白く光っている。
父。母。姉。
三人が並んで、こちらを見ている。いつ撮ったのかは思い出せない。ただ、姉が半分笑いかけていて、母がその姉の方を見ていて、父だけがまっすぐこちらを向いていた。
姉の肩の向こうに、台所の戸棚が写り込んでいた。取っ手のところが少し欠けた、あの白い戸棚だ。撮ったときには、目にも入っていなかったものだった。
指が、止まった。
一人ずつ、順に見た。それから板を少し傾け、光の当たり方を変える。父の目のあたりが、さっきよりはっきりした。
息を吸って、止めた。
何か言いかけて、やめた。ここで声を出せば、この時間が短くなる気がした。
顔を近づけて、もう一度見る。次の写真へは送らなかった。送れば、この一枚が画面から消える。
どれだけそうしていたのかは、分からない。長くはなかったはずだ。
僧が、覗き込んだ。触れはしない。息を詰めるような気配だけがあって、声はなかった。
画面が、暗くなった。
ボタンを押す。
何も起きなかった。
手のひらの中で、それはただ冷たいだけのものになった。
さっきまで、この中に三人がいた。いまは、板が一枚ある。
悠人は、筵の上へ戻した。
僧はしばらくそれを見てから、紙へ筆を下ろした。光る板があったこと。悠人が動かなくなったこと。書いているのは、たぶんそれだけだ。それ以上のことは、伝わっていない。
包みが、また閉じられていく。若い僧の手が、布の端を順に折り返していった。
閉じられる前に、悠人は鍵を見た。
自分の家の鍵だった。銀色の、どこにでもある形の。
自分の時代なら、この土地のどこかに、それで開く戸があった。
どこか、までは分からない。
戸口の向こうでは、日が傾いて、田と林が長い影を落としていた。




