第19話 なかったはず
眠りが浅かった。
目を閉じるたびに、昨日見たものが戻ってくる。門。長い塀。奥へ重なる屋根。そのどれもが、自分の知っている場所には、なかった。何度か寝返りを打ち、外が白んでくるのを筵の上で待った。
朝の椀が下げられたころ、僧が来た。紙を広げ、膝の前へ置く。昨日と同じ紙だった。
僧の指が、線をたどっていく。山裾。水。道。それから、一点で止まった。
昨日、悠人が手を止めた場所だった。
僧は指をそこへ置いたまま、悠人を見た。それから自分の目を指し、また紙の一点を指す。
「昨日。ここ。何を、見た」
昨日、この寺を見て急に黙り込んだ理由を、もう一度聞かれているらしい。昨日は答えられなかった。手のひらを開いて、それきりだ。
一晩、そのことばかり考えていた。答えられなかったことも、その理由も、頭の中で同じところを回り続けている。
だから今朝は、口が動いた。
「この寺は……ない」
僧の筆が止まった。顔を上げる。墨を磨っていた若い僧も手を止めて、こちらを見た。声は出さない。部屋が、急に静かになった。
僧の眉が、わずかに動いた。
紙の一点を指す。それから、戸口の外へ手を向けた。塀の向こうに、屋根が重なっている。
「ある」
そうではない、と思った。いま無いと言ったのではない。
だが、そう言うための言葉が出てこない。
「あとには、ない」
言い終える前に、背中が冷たくなった。
またやった。
直したつもりだったが、直したのは意味の方だった。ここにあるものが、いつかなくなる。そう聞こえる形にしただけだ。
言い直すほど、悪くなってないか。
違う、と言おうとした。だが、何を違うと言えばいいのか分からない。もう一度言い直せば、また形がはっきりする。浪人と言ってしまったときと同じだった。あのときも、直そうとして、直せなかった。取り消す言葉を、悠人はいまだに一つも持っていない。
口を閉じた。閉じたところで、もう遅い。
僧は、騒がなかった。
筆を置き、悠人の顔をしばらく見てから、口の中で音を確かめるように言った。
「あと」
紙の空いたところへ短い線を引いた。手前の端を指し、自分の足元を指す。
「いま」
指が、もう一方の端へ動いた。
「あと」
線のこちらが今、向こうがそのあと。そう分けているらしい。悠人は頷いた。
僧が、紙の寺の一点を指した。それから、いまと決めた端。
「ある」
また寺の一点を指す。次に、あとの端。
「ない、か」
「ない」
僧は順を入れ替えて、もう一度確かめた。悠人はまた頷く。確かめ損ねたら困る、という手つきに見えた。
やがて、僧の手が止まった。
「なぜに、知る」
答えられなかった。
理由はある。自分の時代に、この寺は残っていない。跡だと聞かされて育った場所だ。だが、それを言うための言葉が、どこにもなかった。
口を開きかけて、閉じた。もう一度開いて、また閉じた。
悠人は、手のひらを上へ開いた。
僧は急かさなかった。少し待ってから、また尋ねる。
「聞いた、か」
迷ってから、頷いた。昔ここには大きな寺があったのだと、子どものころから知っていた。
「誰に」
答えられなかった。誰から最初に聞いたのかは思い出せない。それに、聞いたのは、この寺がなくなるという話ではない。この場所に昔、寺があったのだと、ずっと後になってから聞いただけだ。
順が逆だった。それを伝える言葉がない。
悠人は、また手のひらを開いた。
僧が、自分の目を指した。それから、寺の一点と、あとの端を順に指す。
「見た、か」
見てはいる。あの場所なら、何度も通った。だが、見たのは、なくなったあとの場所だ。
頷けば、なくなるところを見たことになる。首を振れば、何も見なかったことになる。
悠人は、また手のひらを上へ開いた。
僧が、目を閉じる仕草をしてみせた。
「夢か」
これには、はっきり首を振れた。
僧は黙った。しばらく悠人を見てから、紙へ目を落とす。
やがて、僧の指が、寺の一点へ戻った。それから、あとの端を指し、手を開いて首を傾げる。
今度は、なぜ寺がなくなるのかを聞いているらしかった。
分からない。何かがよぎった気はした。焼ける、という言葉に近い何かだ。だがそれをどこで覚えたのか、本当にそうだったのかも分からない。確かでないことを口にすれば、また形になる。
悠人は、手のひらを上へ開くしかなかった。
僧はそれ以上尋ねず、書いた。書いてから、筆を置いたまま、しばらく動かなかった。
それから、脇に積まれた古い方の束へ手を伸ばした。
紙を繰る音がした。悠人には読めない字が、下から上へ流れていく。日に焼けて縁の反った紙が、いくつか混じっていた。館で見た控えかもしれない。それも、分からない。
僧は何度か手を止め、また繰り、目当てのものを探しているようだった。悠人はそれを見ているしかない。指の先が紙を送る音だけが、しばらく続いている。
やがて、僧の指が一つのところで止まった。
「よしもと」
指は動かなかった。そのまま、続けて言う。
「じぶのたいふどの」
悠人の顔を見る。それから、少し間を置いて、同じところを指したまま、もう一つ音を置いた。
「さきの、おやかたさま」
指は、最初から一度も動いていない。
僧は指を別のところへ移した。
「のぶなが」
同じように、指を置いたまま。
「かずさのすけ」
僧が顔を上げた。
「名は、知っておる」
一度、区切る。
「どう呼ぶかを、知らぬ」
短い言葉だった。それでも、指の置き方を見たあとでは、意味が入ってきた。
悠人の口が、半分開いた。
「よしもと」と「じぶのたいふどの」。二つが対に置かれたことは、前から覚えていた。館でそう示された。村で長い方を聞いたときにも、頭には「よしもと」が浮かんだ。
二つずつ置かれるからには、二つあるのだと思っていた。
だが、並んでいたのではなかった。
――同じ、一人だ。
自分が口にした短い名と、この人たちが使っている呼び方。その二つが、同じ一人を指していた。指が動かなかったのは、そういうことだ。
今川義元。織田信長。悠人の知る歴史では、ずっとその名前だった。教科書にも年表にも、そう書かれていた。
けれど、少なくともここで会った人たちは、今川義元を「じぶのたいふどの」と呼び、「さきの、おやかたさま」と呼ぶ。織田信長には、「かずさのすけ」という呼び方がある。
「よしもと」や「のぶなが」が間違いだったのではない。その音で、相手には通じた。ただ、そのまま口にするのが、この人たちのやり方ではないらしい。
あの日、名前だけが通じて、それなのに部屋の空気が変わった。館を出るとき、口を指されて手を立てられた。村の集まりで長い呼び方の音を聞いて、続けて口にしかけて、止められた。
全部、これだった。
名前を知らなかったのではない。どう呼ぶかを、知らなかった。
耳の後ろが、熱くなった。
頭に先に浮かぶのは、いつも短い方だった。それを、いままで一度も変だと思わなかった。
紙には、自分が何か答えるたびに、字が増えてきた。何がどれなのかは、読めない。
ただ、自分がこれまでどう答えてきたかは、思い出せる。知っていた名前。答えられなかった問い。首を振るしかなかったところ。
外から見れば、それがどう見えるのか。
考えて、寒くなった。怖いのは、嘘をついたと思われることではない。嘘は一つもついていないのに、こういう形になってしまうことだ。
知っていることが、役に立つとは限らない。
この寺はなくなると言った。なぜ知っているのかは言えない。その二つが並んでいる人間を、ここの人たちはどう見るのか。
これから何を聞かれるかは、自分では決められない。せめて、分からないことまで口にしないようにするしかなかった。
僧が、悠人の口を指した。
それから、控えの、長い方を指す。
こちらを言え。
そういうことだと、今度は分かった。館では、口にするなと言われた。今日は、こう言えと言われている。同じ手の動きなのに、意味が一つ進んでいた。禁じられていたものに、代わりが渡された。
悠人は、深く頷く。
もう一度、控えの方へ目をやった。字は読めない。それでも、いま指されたのがどのあたりだったかだけは、覚えておこうと思った。
次に同じことを聞かれたとき、とっさにそちらを選べるかどうかは、また別だった。頭へ先に浮かんだ方を、そのまま出してはいけない。分かったのは、そこまでだ。
僧はまた書いた。途中で筆を止め、悠人の顔をもう一度見てから、続きを書く。一度、書きかけた手を戻して、少し前の行へ何かを足したようにも見えた。書き終えても、その一枚を伏せなかった。
何が書かれたのかは、読めない。読めないまま、そこにある。悠人は膝を崩さずに座っていた。座っているほかに、できることがない。
墨を磨る音が止んだ。僧が若い僧を呼び、短く何かを言った。若い僧は頷いて、そのまま出ていく。手には何も持っていなかった。
それきり、その日は何も起きなかった。粥が来て、椀が下げられ、日が傾いた。誰も悠人を呼びに来ず、部屋も変わらなかった。
夜。
悠人は筵の上で、声を出さずに口を動かした。
じぶのたいふどの。
言えた。難しい音ではない。
それなのに、頭の中には「よしもと」が浮かんでいた。そちらが先に出てくる。何年もかけて、そう覚えてきたのだから、当たり前だった。
一度、止めた。
もう一度、口を動かす。じぶのたいふどの。
今度は「よしもと」が先に来たのかどうか、自分でも分からなかった。
戸の外には、まだ灯りが残っていた。




