表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
19/29

第19話 なかったはず

眠りが浅かった。


目を閉じるたびに、昨日見たものが戻ってくる。門。長い塀。奥へ重なる屋根。そのどれもが、自分の知っている場所には、なかった。何度か寝返りを打ち、外が白んでくるのを筵の上で待った。


朝の椀が下げられたころ、僧が来た。紙を広げ、膝の前へ置く。昨日と同じ紙だった。


僧の指が、線をたどっていく。山裾。水。道。それから、一点で止まった。


昨日、悠人が手を止めた場所だった。


僧は指をそこへ置いたまま、悠人を見た。それから自分の目を指し、また紙の一点を指す。


「昨日。ここ。何を、見た」


昨日、この寺を見て急に黙り込んだ理由を、もう一度聞かれているらしい。昨日は答えられなかった。手のひらを開いて、それきりだ。


一晩、そのことばかり考えていた。答えられなかったことも、その理由も、頭の中で同じところを回り続けている。


だから今朝は、口が動いた。


「この寺は……ない」


僧の筆が止まった。顔を上げる。墨を磨っていた若い僧も手を止めて、こちらを見た。声は出さない。部屋が、急に静かになった。


僧の眉が、わずかに動いた。


紙の一点を指す。それから、戸口の外へ手を向けた。塀の向こうに、屋根が重なっている。


「ある」


そうではない、と思った。いま無いと言ったのではない。


だが、そう言うための言葉が出てこない。


「あとには、ない」


言い終える前に、背中が冷たくなった。


またやった。


直したつもりだったが、直したのは意味の方だった。ここにあるものが、いつかなくなる。そう聞こえる形にしただけだ。


言い直すほど、悪くなってないか。


違う、と言おうとした。だが、何を違うと言えばいいのか分からない。もう一度言い直せば、また形がはっきりする。浪人と言ってしまったときと同じだった。あのときも、直そうとして、直せなかった。取り消す言葉を、悠人はいまだに一つも持っていない。


口を閉じた。閉じたところで、もう遅い。


僧は、騒がなかった。


筆を置き、悠人の顔をしばらく見てから、口の中で音を確かめるように言った。


「あと」


紙の空いたところへ短い線を引いた。手前の端を指し、自分の足元を指す。


「いま」


指が、もう一方の端へ動いた。


「あと」


線のこちらが今、向こうがそのあと。そう分けているらしい。悠人は頷いた。


僧が、紙の寺の一点を指した。それから、いまと決めた端。


「ある」


また寺の一点を指す。次に、あとの端。


「ない、か」


「ない」


僧は順を入れ替えて、もう一度確かめた。悠人はまた頷く。確かめ損ねたら困る、という手つきに見えた。


やがて、僧の手が止まった。


「なぜに、知る」


答えられなかった。


理由はある。自分の時代に、この寺は残っていない。跡だと聞かされて育った場所だ。だが、それを言うための言葉が、どこにもなかった。


口を開きかけて、閉じた。もう一度開いて、また閉じた。


悠人は、手のひらを上へ開いた。


僧は急かさなかった。少し待ってから、また尋ねる。


「聞いた、か」


迷ってから、頷いた。昔ここには大きな寺があったのだと、子どものころから知っていた。


「誰に」


答えられなかった。誰から最初に聞いたのかは思い出せない。それに、聞いたのは、この寺がなくなるという話ではない。この場所に昔、寺があったのだと、ずっと後になってから聞いただけだ。


順が逆だった。それを伝える言葉がない。


悠人は、また手のひらを開いた。


僧が、自分の目を指した。それから、寺の一点と、あとの端を順に指す。


「見た、か」


見てはいる。あの場所なら、何度も通った。だが、見たのは、なくなったあとの場所だ。


頷けば、なくなるところを見たことになる。首を振れば、何も見なかったことになる。


悠人は、また手のひらを上へ開いた。


僧が、目を閉じる仕草をしてみせた。


「夢か」


これには、はっきり首を振れた。


僧は黙った。しばらく悠人を見てから、紙へ目を落とす。


やがて、僧の指が、寺の一点へ戻った。それから、あとの端を指し、手を開いて首を傾げる。


今度は、なぜ寺がなくなるのかを聞いているらしかった。


分からない。何かがよぎった気はした。焼ける、という言葉に近い何かだ。だがそれをどこで覚えたのか、本当にそうだったのかも分からない。確かでないことを口にすれば、また形になる。


悠人は、手のひらを上へ開くしかなかった。


僧はそれ以上尋ねず、書いた。書いてから、筆を置いたまま、しばらく動かなかった。


それから、脇に積まれた古い方の束へ手を伸ばした。


紙を繰る音がした。悠人には読めない字が、下から上へ流れていく。日に焼けて縁の反った紙が、いくつか混じっていた。館で見た控えかもしれない。それも、分からない。


僧は何度か手を止め、また繰り、目当てのものを探しているようだった。悠人はそれを見ているしかない。指の先が紙を送る音だけが、しばらく続いている。


やがて、僧の指が一つのところで止まった。


「よしもと」


指は動かなかった。そのまま、続けて言う。


「じぶのたいふどの」


悠人の顔を見る。それから、少し間を置いて、同じところを指したまま、もう一つ音を置いた。


「さきの、おやかたさま」


指は、最初から一度も動いていない。


僧は指を別のところへ移した。


「のぶなが」


同じように、指を置いたまま。


「かずさのすけ」


僧が顔を上げた。


「名は、知っておる」


一度、区切る。


「どう呼ぶかを、知らぬ」


短い言葉だった。それでも、指の置き方を見たあとでは、意味が入ってきた。


悠人の口が、半分開いた。


「よしもと」と「じぶのたいふどの」。二つが対に置かれたことは、前から覚えていた。館でそう示された。村で長い方を聞いたときにも、頭には「よしもと」が浮かんだ。


二つずつ置かれるからには、二つあるのだと思っていた。


だが、並んでいたのではなかった。


――同じ、一人だ。


自分が口にした短い名と、この人たちが使っている呼び方。その二つが、同じ一人を指していた。指が動かなかったのは、そういうことだ。


今川義元。織田信長。悠人の知る歴史では、ずっとその名前だった。教科書にも年表にも、そう書かれていた。


けれど、少なくともここで会った人たちは、今川義元を「じぶのたいふどの」と呼び、「さきの、おやかたさま」と呼ぶ。織田信長には、「かずさのすけ」という呼び方がある。


「よしもと」や「のぶなが」が間違いだったのではない。その音で、相手には通じた。ただ、そのまま口にするのが、この人たちのやり方ではないらしい。


あの日、名前だけが通じて、それなのに部屋の空気が変わった。館を出るとき、口を指されて手を立てられた。村の集まりで長い呼び方の音を聞いて、続けて口にしかけて、止められた。


全部、これだった。


名前を知らなかったのではない。どう呼ぶかを、知らなかった。


耳の後ろが、熱くなった。


頭に先に浮かぶのは、いつも短い方だった。それを、いままで一度も変だと思わなかった。


紙には、自分が何か答えるたびに、字が増えてきた。何がどれなのかは、読めない。


ただ、自分がこれまでどう答えてきたかは、思い出せる。知っていた名前。答えられなかった問い。首を振るしかなかったところ。


外から見れば、それがどう見えるのか。


考えて、寒くなった。怖いのは、嘘をついたと思われることではない。嘘は一つもついていないのに、こういう形になってしまうことだ。


知っていることが、役に立つとは限らない。


この寺はなくなると言った。なぜ知っているのかは言えない。その二つが並んでいる人間を、ここの人たちはどう見るのか。


これから何を聞かれるかは、自分では決められない。せめて、分からないことまで口にしないようにするしかなかった。


僧が、悠人の口を指した。


それから、控えの、長い方を指す。


こちらを言え。


そういうことだと、今度は分かった。館では、口にするなと言われた。今日は、こう言えと言われている。同じ手の動きなのに、意味が一つ進んでいた。禁じられていたものに、代わりが渡された。


悠人は、深く頷く。


もう一度、控えの方へ目をやった。字は読めない。それでも、いま指されたのがどのあたりだったかだけは、覚えておこうと思った。


次に同じことを聞かれたとき、とっさにそちらを選べるかどうかは、また別だった。頭へ先に浮かんだ方を、そのまま出してはいけない。分かったのは、そこまでだ。


僧はまた書いた。途中で筆を止め、悠人の顔をもう一度見てから、続きを書く。一度、書きかけた手を戻して、少し前の行へ何かを足したようにも見えた。書き終えても、その一枚を伏せなかった。


何が書かれたのかは、読めない。読めないまま、そこにある。悠人は膝を崩さずに座っていた。座っているほかに、できることがない。


墨を磨る音が止んだ。僧が若い僧を呼び、短く何かを言った。若い僧は頷いて、そのまま出ていく。手には何も持っていなかった。


それきり、その日は何も起きなかった。粥が来て、椀が下げられ、日が傾いた。誰も悠人を呼びに来ず、部屋も変わらなかった。


夜。


悠人は筵の上で、声を出さずに口を動かした。


じぶのたいふどの。


言えた。難しい音ではない。


それなのに、頭の中には「よしもと」が浮かんでいた。そちらが先に出てくる。何年もかけて、そう覚えてきたのだから、当たり前だった。


一度、止めた。


もう一度、口を動かす。じぶのたいふどの。


今度は「よしもと」が先に来たのかどうか、自分でも分からなかった。


戸の外には、まだ灯りが残っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ