第20話 短くなった言葉
粥が何度か来て、何度か下げられた。
日は同じ向きから入り、同じ向きへ抜けていく。筵も、戸の立て付けも、朝に椀の来る頃合いも、ここへ移された日と変わらない。呼び出されることもなかった。
変わったのは、隅に積まれた紙の量と、僧の来る回数だけだった。
日に焼けて縁の反った古い束と、白い新しい束が、少し離して置かれている。古い方は厚さが変わらない。白い方が、日ごとに厚くなっていく。
悠人はそれを、毎朝、目の端で確かめるようになっていた。厚みのほかに数えられるものがない。戸の外を人が通る音の回数と、鐘の間合いも、いつのまにか覚えてしまった。
その朝も、僧が来た。
膝の前へ置いたのは、白い方だった。上から順に、指でたどっていく。
それから、短く尋ねる。
「あと。ない、か」
昨日も聞かれた。その前にも聞かれた。悠人は同じように答える。
「ない」
僧は筆を止め、何かを書き、また指をたどらせた。
新しいことは聞かれない。出てくるのは、どれも一度は答えた問いばかりだった。同じものが、少し順を変えて戻ってくる。答えを覚えているというより、答えが一つしかないから、それしか出てこない。
途中で分かった。確かめ直している。答えが毎回同じかどうかを見ているのではなく、書いてあるものと、目の前の自分とを突き合わせている。
指が止まった。
「なぜに、知る」
答えられない。あの日と同じだった。理由はある。だが、それを言うための言葉が、やはりどこにもない。
悠人は手のひらを上へ開いた。
僧が書く。指が、また動き出す。
「誰に」
これも同じだ。誰から最初に聞いたのかは思い出せないし、そもそも聞いたのは、この寺がこれからなくなるという話ではない。
また、手のひらを開いた。
「見た、か」
頷けば、なくなるところを見たことになる。首を振れば、何も見なかったことになる。あの日、どちらも選べなかった。今日も選べない。
三度目の手のひらだった。
「夢か」
これには首を振る。あの日と同じように、はっきりと。
僧は一つずつ確かめ、そのたびに筆を止め、書き、次へ進んだ。書いた字を消さない。
日が過ぎるあいだに、答えられなかったところが、そのまま増えていった。白い束の厚みが、また少し増した。
それから数日して、僧が新しい一枚を出した。
白い束を膝に置き、そちらへ目を落としながら書き始める。手が速い。目を上げては下ろし、また上げる。
悠人の顔は、一度も見なかった。
これまでは違った。何か書くたびに、僧は顔を上げて悠人を見た。合っているかを確かめるような目つきだった。今日は、紙しか見ていない。
書き終わるのが、早かった。
悠人は二つを見比べた。束の方は何枚もあって、指で押さえないと端が崩れる。新しい方は、一枚しかない。
同じところから写したはずなのに、厚みがまるで違った。
僧の書いたものは、二つに分かれているらしい。答えたことも、答えられなかったことも、日ごとに書き足されてきた束。そして、その束から抜き出して短くまとめた、一枚。
僧はその一枚を膝の前へ置くと、紙の一部を指し、悠人を見た。
「ぜんとく」
頷く。
指が少し動いた。動く幅が、狭い。
「あと」
また頷いた。
「ない」
頷く。
指が別のところへ移る。移るといっても、紙の端から端まで一寸ほどしかない。
「よしもと」
頷いた。
「のぶなが」
同じように頷く。
それから僧は、包みの置かれていた方へ手を向けた。悠人はもう一度頷いた。
僧はもう一度だけ、上から下まで指を通した。今度は何も尋ねない。
終わった。
僧は白い束を揃えて、もとの隅へ戻した。日に焼けた古い束の横、いつもの場所だ。一枚だけが、膝の前に残された。
問いの数が少ない。束を確かめていたときの、半分もなかった。
座り直そうとして、悠人は自分の手を見た。
膝の上に、両手が伏せたまま置かれている。
――今度は、一度も開いていない。
束を確かめていたときは、何度も上を向けた。なぜ知るのか、誰から聞いたのか、見たのかどうか。答えようとして、答えられなくて、そのたびに手のひらを上へ向けるしかなかった。
その問いは、この一枚には一つもない。
確かめられたことに、違うものはなかった。寺のことも、名前のことも、包みのことも、全部、自分が頷いたことだ。
ただ、答えられなかったところが、この一枚には入っていない。
……そこを削るのかよ。
書いてあることは、たぶん違っていない。ただ、この一枚だけを見た人には、自分がどこで答えられなくなったのかが分からない。
あの手の形は、返事のつもりだった。知らないとも、違うとも言えないときのための返事だ。僧はそれを見て、そのたびに何か書いていた。書いてはいたのだ。
悠人は一枚を指した。
それから自分の口を指し、手のひらを上へ開いてみせて、首を振る。
こういう返事をした場所が、この一枚にはない。そう言いたかった。
僧は動かなかった。しばらく悠人を見て、それから一枚へ目を落とし、また悠人を見る。
悠人はもう一度、同じ順でやってみた。一枚。口。開いた手。首。
僧の眉が、少し動いた。目が、悠人の手のあたりで一度止まる。伏せたままの手を見たのか、指した先を見たのか。
やがて、僧は束を引き寄せた。
筆を取り、少し前の行へ、行と行のあいだへ入れるように小さく書き足す。消さない。
書き終えてから、一枚をもう一度見た。
悠人もそちらを見る。
僧は筆を持ち直した。持ち直したまま、一枚を見て、束を見て、しばらく動かない。
それから、筆を置いた。
一枚は、直らなかった。
昼を過ぎて、使いが来た。
荷を下ろす。墨と、束ねた紙と、布に巻いた何かが出てきた。若い僧が受け取り、短く言葉を交わす。それから使いは、僧の前へ座った。
一枚が折られ、布に包まれ、使いの手へ渡る。
——持っていくのは、この一枚なのか。
束は、隅に置かれたままだった。折られてもいないし、包まれてもいない。束はここに残るもので、この一枚は、ここにいない誰かへ見せるためのものらしい。誰なのかは、分からない。
渡す前に、僧が何か言った。長くはない。悠人には全部は追えなかった。
「ぜんとく」――聞き取れる音があった。それから分からない音が続いて、「あと」。また分からない音。それから、「ない」。
また寺のことを話しているらしい、と思った。
使いが僧を見て、短く返す。それから包みを受け取り、懐へ入れた。
白い束は、動かなかった。
荷の中に、板が一枚混じっていた。
日に焼けている。表に、炭の線。隅に、小さな印。
自分が引いた線だった。太いところは消し炭を寝かせて引き、細いところは角を使った。どの田のことだったのかも、まだ覚えている。頭より先に、手の方が覚えている。
僧が板を取り上げ、表を見て、裏を返し、束の脇へ置いた。それきりだった。
あれも、もう自分のものではない。
手を伸ばそうとは思わなかった。返してくれと言う言葉も持っていないし、言ってよいのかどうかも分からない。
空になった籠を、若い僧が抱えて外へ出た。使いも立ち上がり、そのあとに続く。
悠人は、自分の言ったことのうち、どれが持っていかれたのかを数えようとした。数えられなかった。
戸の外で、声がした。
使いと若い僧が、何か短く話している。悠人には文にならない。歩きながらの話し方で、区切りも短い。
ただ、その中に一度だけ、聞き取れる音が混じった。
「のち」に近い音。少し置いて、「しる」に近い音。
二人が、こちらを見た気がした。すぐに向き直り、また歩き出す。
自分のことを話しているらしい。それだけは分かった。何と言っているのかは、分からない。
足音が遠ざかっていく。悠人は戸の方へ顔を向けたまま、しばらく動かなかった。
夜。
悠人は筵の上で、自分の手を離れたものを思い出した。
板。板を写した紙。今日の、一枚。
どれも、自分から出たものだ。
ここに残ったものと、もうないものがある。どれも、読めない。
遠くへ行った一枚に残っているのは、頷いたことばかりだった。
首を振ったことは、あの束の中に書き足された。束は、動かなかった。それも、いつか誰かのところへ行くのだろうか。
あの一枚だけを見た人には、自分が何を知らないのかは分からない。知っていることだけが並んでいたら、本当よりずっと多くを知っているように見えるのではないか。
知っていることばかりが、自分のいないところへ運ばれていく。
悠人には、それを追いかけることも、読み返すこともできなかった。
戸の外には、まだ灯りが残っていた。




