第21話 駿府へ
若い僧の出入りが増えていた。朝のうちに二度、昼を過ぎてまた二度。何かを抱えて入り、何も持たずに出ていく日もある。
部屋も、粥の来る頃合いも変わらない。変わったのは、戸の外を通る足の数だった。
昼を回った頃、外で馬の足音がして、若い僧が門の方へ走っていった。戻ってきた手に、細く畳んだ物があった。それがどこへ行ったのかは、悠人の側からは見えない。
その日から、僧の手つきが変わった。白い束を膝へ広げ、上から順に紙の端を送るのは同じでも、途中で指を止め、しばらく置いてまた送る。数えているように見えた。悠人には何も尋ねない。
やがて戸口で、僧が若い僧と短く言葉を交わした。速い。悠人には文にならない。それでも、ひと続きの音の中に一度だけ、拾える形が混じった。
「すんぷ」に近い音だった。
聞き覚えがあった。
駿府。静岡の、昔の呼び方だ。今川の名と並んで出てくる地名で、たしか徳川家康も、年を取ってからそこにいた。悠人の中から出てくるのは、その程度だった。
何という場所なのかは分かる。なぜここでその名前が出るのかは、分からない。その前後で自分のことが言われたのかどうかも、聞き取れなかった。
日課は変わらなかった。粥が来て、椀が下がる。白い束は隅に積まれたまま、もう厚くならない。
確かめ直しも来なくなった。同じ問いを順に並べ直す、あの手つきがやんだ。問われなくなったことで、何かが決まったらしいと分かった。
幾日か過ぎた朝、若い僧が戸を開けた。
「支度」
悠人が顔を上げると、若い僧は続けた。
「みなくちへ、戻る」
悠人は立った。持つ物はない。
出る前に、隅を見た。日に焼けて縁の反った古い束と、白い束。その脇に、板が一枚。表の炭の線も、隅の小さな印も、置かれた日のままだった。
どれも動かない。動くのは自分だけだ。
長い廊下を通って外へ出ると、風が思ったより冷たかった。来た日と同じように、材木を担ぐ男が横切り、どこかで鐘が鳴り、墨の匂いが一度だけ流れてくる。誰も悠人の方を見ない。ここで幾日を過ごしたのかも、正確には数えられなかった。
門まで来ると、若い僧はそこで足を止めた。悠人は一度頭を下げて、寺を出た。
来たときと同じ道を、逆にたどった。あのとき下ってきたところを、今度は上る。右手の奥の山も、水の落ちていく向きも、同じ位置にある。景色は何一つ変わっていない。
村へ入って、足の運びが遅くなった。
畦で鍬を使っていた男が、手を止めてこちらを見た。前は止めなかった。道の先を歩いていた二人が、脇へ寄って空けた。会釈を返すと、目を合わせる前に逸らされた。少し離れた木の下に立ったまま、動かずに見ている者もいる。
道の端で遊んでいた子どもが、家の中から呼ばれて戻っていった。
村の音は前と同じだった。鶏、水の落ちる音、遠くで木を打つ音。変わっているのは、人の方だけだ。
誰も声をかけてこない。
「なぜ」も「どうした」も、村で覚えた。使えるはずの言葉はある。だが、誰に向ければいいのかが分からなかった。田の水は前と同じ高さで、畦の草は前より伸びている。分かるのは、それくらいだった。
道からは、増水の日に土をどけた低い田も、印を付けた曲がりも見えた。今は水がゆるく回っているだけで、あの日の跡はどこにも残っていない。
やへえの家の庭口を入ると、母屋から家の者が出てきて、納屋の方を指した。悠人はそちらへ行った。
翌日から、悠人の触れないところで支度が進んだ。
家の者が納屋へ入り、しばらくして出ていく。何を持って出たのかは、背中と手元の影だけでは分からない。隅の方——濡れたまま脱いで、乾かされて、それきりになっていた自分の服と靴を置いた辺りにも、人が入った。出てきたとき、その手は塞がっていた。
庭では、見たことのない男が縄と筵を広げて何かを測っていた。やへえが出てきて短く二言、三言。男は頷き、また縄を伸ばす。悠人が近づく前に話は終わっていた。
何をどこへ運ぶのか、悠人は聞かれない。どれを持っていくか、と尋ねられることもない。選ぶ立場だとは、自分でも思っていなかった。
引っ越しみたいだ。荷は日ごとに形を変えて、日取りもたぶん決まっている。ただ、本人だけが何も決めていない。
寺へ置いてきた布の包みがどうなったのかも、分からないままだった。返ってはこない。誰も出してこない。
悠人にできたのは、いつもどおり田へ出ることだけだった。戻ってくるたび、庭の隅の荷は形を変えている。触ってよいものかどうかも分からず、悠人はそのたびに横を通り過ぎた。
身なりは変わらなかった。借りたままの着物と、草鞋。
三日目の夕方だった。田から戻り、納屋の前で草鞋の泥を落としていると、やへえが来て立った。
いつもと同じ立ち方で、いつもと同じ間合いだった。
「行くか」
悠人は手を止めた。
どこへ、と思った。
支度はもう何日も続いている。庭の荷は形を変え、自分の服を置いた辺りにも人が入った。そこに自分も含まれていることだけは、見ていれば分かる。行き先だけが、まだ出てこない。
前にやへえが来たときは、五日目に館へ行くぞ、と言われた。あれは知らせで、答える場所がなかった。今度は、返事を待たれている。
それでも、首を振って済む話ではない。支度は、悠人の返事とは関わりなく進んでいる。
断っても、荷は括られる。
逃げてどうする。道も知らない。この時代で、どこかに勝手に住みつけるのかどうかも分からない。
草鞋の泥が、足元へ落ちた。悠人はそれを下ろし、顔を上げた。やへえは急かさない。答えを待っているというより、答えるまでそこにいるという立ち方だった。
「行く」
どこへ行くのかは、分からないままだった。
やへえは一度頷いた。
「駿府までだ。あさっての朝に出る」
一瞬、意味がつながらなかった。
駿府。
寺で聞いた地名だ。
あのとき聞こえた話は、自分のことだったのか。
つまり、静岡まで行くということか。
家の車で通ったときは、遠いと思った覚えもない。けれど、今は車も電車もない。あの距離を歩こうと考えたことは、一度もなかった。
「駿府まで、歩くのか」
「歩く」
「朝は早い。飯を食ってから出ろ。草鞋は、替えを持て」
「分かった」
慰めも励ましもなかった。庭口の方を一度見て、それから母屋へ入っていく。日の落ちる速さは、昨日と変わらない。
決めたのではない。決められたことに返事をしただけだ。それでも、「行く」と言ったのは自分だった。
翌朝も、いつもどおり田へ出た。
出るのは明日だ。今日はまだ、ここにいる。
しんろくは上の口を直していた。悠人が近づくと、鍬の先で水の来ている筋を示した。
「水は」
「入った。上を、少し掘った」
悠人はしゃがんで水の縁を見た。前に見たときより、指の幅ほど高い。
「次は」
「土だ。あの隅から寄せる」
「去年も、そこか」
「去年は、こちら」しんろくは反対の畦を指した。「水が回らなかった」
「なぜ」
「低い。水が、先に落ちる」
悠人は畦の草を寄せ、しんろくは掘った縁を鍬の背で押さえた。
「寺では、何をしていた」
「座っていた。聞かれて、答えた」
「それだけか」
「それだけだ」
しんろくが鼻から息を抜いた。あきれたのか、笑ったのか、そこまでは分からない。
「飯は」
「粥だ。毎日、粥だった」
「ここも粥だ」
「ここのは、あたたかい」
しんろくは声を出して笑い、また鍬を入れた。それから、手を止めずに聞いた。
「駿府へ行くのか」
「行く」
「何しに」
「分からない」
鍬が止まった。しんろくが顔を上げる。
「知らぬのか」
「知らない。誰も言わない」
しんろくはしばらく悠人を見てから、鍬を土へ戻した。それ以上は聞かなかった。
日が傾いて道具を片づけるとき、しんろくが悠人の手元を見た。
「前よりは、ましだ」
「何が」
しんろくは悠人の鍬の先を顎で示した。それから自分の鍬とまとめて担ぎ、先に歩き出す。悠人はその後ろを歩いた。畦の道は一人分の幅しかない。
出立の朝は、風がなかった。
庭口に人が二人立っていた。一人は帯刀していて、もう一人は縄を持っている。やへえが出てきて、その二人と短く言葉を交わした。速い。悠人に取れたのは、日と、道と、あとは自分を指す一語くらいだった。
促されて庭へ出たところで、悠人の足が止まった。
母屋の軒下に、自転車がない。
外に出されていた。かけてあった筵は畳んで脇に置かれ、車輪の間と柄のところに縄が回してある。縄を持っていた男が、その脇にしゃがんで結び目を確かめていた。持ち上げようとしては下ろし、括る場所を変えている。
昨日まで、あそこにあった。悠人は触っていない。手を貸せとも言われていない。
——自転車も、持っていかれるのか。
それ以上は出てこなかった。返してくれと言うつもりはない。自分の物だと言ってみたところで、それが何かの証しになるわけでもない。悠人は自転車から目を離した。
やへえは庭口に立ったままだった。帰ってこいとは言わない。悠人も、戻るとは言わない。
帯刀した男が先に道へ出た。
縄の男はまだ自転車の脇にいて、結び目を一度確かめている。
促されて、悠人も庭口へ向かった。
庭口を出ようとしたところで、後ろから声がかかった。
「達者でな」
悠人は足を止め、振り返って一度頷いた。やへえも頷き返す。それだけだった。
やへえの向こうで、縄の男が自転車へ手を伸ばしている。
悠人は道へ出て、先を行く背中に続いた。
後ろで、車輪が一度、低く鳴った。




