第22話 東海道
前を行く男の背中は、歩幅が変わらない。速くも遅くもならず、同じ間隔で足が出る。悠人はその後ろを歩いた。さらに後ろで、時おり縄のきしむ音と、車輪が低く鳴る音がした。
道は畦を離れ、低い林の縁を回っていく。振り返っても、庭口はもう見えない。
下りきったあたりで、木々の切れ目に見覚えのある屋根が現れた。
数日前まで、あの中にいた。長い廊下も、鐘の間合いも覚えている。
また戻るのか、と思った。
だが、男はそちらへ向かわなかった。屋根が見えるところまで来て、脇へ折れた。
細い道の先に、土の高まりがあった。手前は溝で、水は少ない。柵が続き、途中で木戸になっている。脇に槍を持った者が二人立ち、入る者を順に見ていた。
砦か何かだろうか、と思った。
木戸の者が何か問い、先導してきた男が答えた。長い。悠人には取れない。ただ、一つだけ聞き取れる音があった。
「しろ」
城、ということか。
もう一度、目の前を見た。中は平らに均され、低い建物がいくつか、間を空けて建っている。さっき見えた屋根のような高さはない。
石を積んだ壁はない。高い建物もない。
これが城なのか、と思った。
平場の隅で、人と荷が一つずつ確かめられていた。数える声。俵の口を開けて中を見る手つき。
悠人も列の中に立たされた。
……俺、荷物側じゃないよな。
「顔を上げよ」
意味は取れないが、前の者がそうしたので、同じようにした。台の向こうの男が悠人の顔をしばらく見て、脇の者へ短く言う。筆が動いた。
「名」
これは分かった。
「たかせ、ゆうと」
筆がまた動く。それから、もう一つ何か問われた。
意味は取れない。
悠人は手のひらを上へ向けた。
台の向こうの男が一度こちらを見て、脇の者へ何か言った。それ以上は聞かれなかった。
数えて、書き付けて、次へ回す。俵と、順が同じだった。
自転車も確かめられた。縄がほどかれ、また括り直される。悠人は近寄らない。
先導してきた男が、懐から折った物を出した。受け取った側が開いて目を落とし、頷く。男は一度頭を下げ、来た道へ戻っていった。
入れ替わりに、建物の陰から男が一人出てきた。
見覚えがあった。館にいた男だ。あの日、水の話を何度も確かめ直した。
男は悠人の前で足を止め、上から下まで一度見た。それから言った。
「歩けるか」
「歩ける」
「離れるな」
「分かった」
「来い」
館で聞いたときと同じ、短い言い方だった。三つとも、一度で分かった。
隊列が組み直された。前にあの男、次に悠人、後ろに荷と自転車。木戸を出てしばらくすると、後ろでまた車輪が低く鳴った。
寺へ置いてきた布の包みは、どこにも見えない。荷のどれかにあるのかも分からない。探しても仕方がないので、目を戻した。
人とすれ違う。荷を負った者、馬を引く者、笠をかぶった二人連れ。
馬が横を通ったとき、悠人は思わず目で追った。
思っていたより、ずっと背が低い。テレビで見る競走馬とは違って、首も脚も短く見える。ただ、小さいというより、体全体が詰まっていた。胸も脚も細くない。
間近で見る機会などほとんどなかったが、それでも、思い浮かべていた馬とは違った。
昼を過ぎたころ、向こうから来た男が、館にいた男へ何か声をかけた。
速い。語尾が伸びて、途中で切れる。村で聞いていた話し方とは、音の高さが違った。
拾えた語はある。みず。きのう。とおい。あとは、聞いたことのない音ばかりだった。
拾えるのに、つながらない。どれとどれが結びつくのかが分からない。
悠人は一歩出て、聞き返した。
「もう一度。ゆっくり」
男が悠人を見て、それから館にいた男の方を見た。館にいた男が短く二言、三言返すと、相手は頷いて行ってしまった。
何の話だったのかは、教えられなかった。
道は田の間を抜けていった。ひとまたぎで越えられる細い流れがあり、次のものは水に頭を出した石を拾って渡った。その次には石がなく、そのまま入る。上がってからも、草鞋の砂が足の裏で転がっていた。
田の切れ目で、悠人は一度足を止めた。
富士山が見えた。
村から見るのとは角度が違う。宝永山がないことを除けば、見慣れた形だった。
初めてだったのは、そこまでの間だった。電柱がない。屋根はどれも低く、田と水と林が、裾までそのまま続いている。遮るものがないと、山はこんなに近くに立つ。
道の先は林の縁に沿っていて、木の重なったところだけが暗い。
そこから、カナカナ、と声がした。
ヒグラシ。みなくちでも聞いた。夕方に鳴くものだと思っていた。
悠人は空を見た。まだ日は高い。
蝉は鳴いていた。けれど、あの声がない。静岡の夏なら、朝から嫌というほど聞いていた、シャアシャアいうクマゼミの声。
みなくちにいたころから、一度も聞いていない気がする。
まだ、こっちにはいないのか。
聞いていないものなら、ほかにもあった。車の音。エンジンの音。
「行くぞ」
前から声がかかって、悠人は歩き出した。
日は高く、歩けば汗は出た。それでも、現代の夏の道とは違う。足元から、あのむっとする熱が返ってこない。木の下へ入ると、はっきり涼しい。土の道を風が抜けると、濡れた背中が冷えた。
今になって思えば、みなくちの田でも同じだった。
昼を過ぎたあたりから、歩幅が狭くなった。
太腿の前が重い。足の裏が熱を持ち、草鞋の紐の当たるところが痛む。息は上がらないのに、足だけが遅れた。
朝から、前を行く男の歩幅は変わっていない。荷を負った者たちも同じだった。悠人は、自分の歩幅がいつから狭くなったのか分からなかった。
差が開き、男が一度だけ振り返った。
「少し、待って」
言ってから、通じるだろうかと思った。
男は止まった。何も言わない。悠人は道の端に腰を下ろし、草鞋を脱いで砂を落とした。ほかの者は立ったまま、水を飲むか荷の紐を確かめている。誰も笑わなかった。
その水が回ってきた。回してきた者が、悠人へ何か短く言った。
村で聞き慣れた言い方ではなかった。音の並びが違う。悠人が黙っていると、相手はもう一度、少し大きな声で同じことを言った。同じ音では、二度目も分からない。
せっかく通じるようになったのに、相手が変わるとこれか。
男が横から一言だけ挟んだ。
「置いていけ」
相手は頷いて、椀を悠人の足元へ置き、行ってしまった。
悠人は椀を取って、水を飲んだ。
ここで一人になったら、どうするのか。
道が分からない。言葉も、村を離れれば半分も通らない。銭は持っていないし、持っていたところで、どう使うのかも知らない。今夜どこで寝るのかを決めているのは、前を歩いている背中だ。
そこまで考えて、足の裏の痛みへ戻った。
やがて男が顎で先を示した。立ち上がると、座る前より足が重い。
日が西へ傾きはじめたころ、地面が変わった。土が減り、砂と丸い石が増える。流れの数も増え、越えるたびに幅が違う。どれが本筋なのか分からない。
三つか四つ越えたあたりで、先が開けた。
水の広がりが、そこにあった。
対岸が遠い。水は濁り、速いところと緩んだところがある。岸には人が集まって、順を待っていた。
富士川だろうか、と思った。
何度も来たことはある。大きな川ではあったが、見覚えのある富士川は、こんなふうではなかった。
いくつもの流れを越えてきて、その先にまだ、この水の広がりがある。現代の橋から見た一本の川と、どうしても重ならない。どこからが富士川なのかも分からなかった。
待たされた。そのあいだ、男は一度も座らなかった。悠人は座った。
影が長くなり、水の色が変わっていく。
対岸から、舟が戻ってきた。
思っていたより小さい。数人も乗れば埋まりそうな舟で、扱っているのは男が二人。桟橋のようなものはなく、岸の浅いところまで寄って止まった。
待っていた者が、何人かずつに区切られる。声が飛び交い、順を指す手が何度も上がった。
「渡る。離れるな」
「分かった」
悠人も草鞋のまま水へ入った。足首を越え、脛まで来る。冷たかった。舟縁へ手を掛けると、上から腕を取られて引き上げられた。
座る前に、一度だけ後ろを見た。
自転車は、まだ岸にあった。縄を持った男も残っている。
「あれは」
「後だ」
それきりだった。
川へ出ると、水面が近かった。橋の上から見下ろしていたときとは違う。濁った水が、舟縁のすぐ下を流れていく。音も、思っていたより大きい。
舟は揺れながら、真っ直ぐには進まない。舳先が対岸を向いていても、体は少しずつ下へ押されていく。悠人は舟縁から手を離さなかった。
向こう岸でも、舟は浅いところで止まった。また水へ降りて、岸まで歩く。渡りきったとき、足の指が固まっていた。
一度、来た方を見た。遠くなった岸に、まだ人と荷が残っている。どれがどれかまでは分からない。
岸を上がりきったころには、日はもう低かった。
しばらく行くと、道沿いに家が増えた。十軒ほどが並び、軒下に荷が積まれ、杭に馬が繋がれている。人が出入りしていた。
あの男が一軒の前で足を止め、出てきた家の者へ短く言って、懐から折った物を見せた。相手は目を落として頷き、奥へ手を向けた。
土間があり、その脇に板敷きの一間があった。今夜はここらしい。
後ろから来ていた荷は、まだ着いていなかった。車輪の音も、川を渡ってから一度も聞いていない。
土間の隅で、家の者と、先に来ていたらしい者が話していた。低い声。悠人には文にならない。
その中に一度だけ、聞き取れる形が混じった。
「ふたつ輪」
悠人は顔を上げた。
二人はこちらを見なかった。そのまま別の話へ移り、やがて片方が外へ出ていった。
自転車のことらしい。
表を見た。荷を負った者と、繋がれた馬しかいない。自転車はまだどこにもない。
物より先に、話だけが着くのか。
暗くなってから、外で人の声がした。荷が着いたらしい。板戸の向こうで、縄を解く音と、聞き覚えのある低い音が一度した。
車輪だ。
悠人は座ったまま、しばらくそちらを見ていた。それから敷物を広げて、横になった。
翌朝は暗いうちに発った。
足は昨日よりましだった。歩き出してしばらくは痛むが、そのうち感じなくなる。腿の付け根の重さだけが残った。
道は海の側へ寄っていった。
右手から山が迫り、しまいには斜面がそのまま道の肩になった。左手は下りで、その先に水がある。
寺で一度、遠くに帯のように見たきりだった。こんなに近くで、これほど長く海を見ながら歩くのは初めてだ。
これが、駿河湾なのか。
潮の匂いがする。下で波が寄せて、白いところが動いては消える。水平線は、思っていたより高かった。
海沿いに太い道も、線路もない。山の斜面が、そのまま水の方へ落ちている。海際に、舟が三艘、小さく見えた。
道は細い。二人が並べないところが続く。足元は砂と小石が混じり、踏むたびに少しずれた。前を行く男の背中だけを見て歩いた。
狭いところを抜けて道が平らになったとき、悠人は何かの拍子に後ろを見た。
海の縁が、来た方へ長く伸びている。その向こうに、富士山がまだ大きく立っていた。
昨日より遠い。見え方が変わっている。
昨日の朝は、あの山をもっと近くに見ていた。
それだけのことだ。だが、足の重さと、その違いとが、そこで初めて同じものになった。
その先で、道はまた広くなった。
家が増え、道に沿って軒が並び、途中から切れ目がなくなる。道の端で荷を下ろし、受け渡している者たちがいた。
人が増え、荷が増えた。すれ違うのを待つ側と、待たれる側ができる。
悠人は数えた。足は重いが、目は動く。数えるくらいしか、することがない。
前を行くあの男が、振り返らずに聞いた。
「幾人、通った」
「十と……よん、か、五。馬は三」
男がわずかに顔を向けた。
悠人は指を四本立て、それから手を開いた。男は一度頷いて、前へ戻った。
「馬は」
「三。荷を負ったのが二、人が乗ったのが一」
あの男は前を向いたまま、少し先の者へ短く何か言った。それきりだった。こちらを見もしない。
やがて、前を行く男が足を止めた。悠人も止まる。
「あれだ」
指の先を追った。
低い屋根が、切れずに続いていた。塀があり、その向こうにまた屋根があり、奥にも屋根がある。煙が何本も上がっている。門らしいものが、見えるだけで三つ。
道の幅も違う。馬を引く者と荷を負った者が並んですれ違っても、まだ余る。その道を、人が途切れずに流れていた。土埃と、煮炊きの匂いと、聞き取れない声が、遠くからひと続きになって届いてくる。
悠人は数えようとして、やめた。
村と、寺と、館。歩いて行き来できた場所は、全部この中のどこかに収まってしまう。そう思っただけで、足の裏の感覚が少し変わった。
「ここが、駿府か」
そう尋ねると、男は「そうだ」と頷いた。
門の前で止められた。
あの男が懐から折った物を出す。受け取った者がそれを開き、目を落とし、脇の者に何か言う。二人が短くやり取りし、それで通った。
悠人は何も言わなかった。言うことがあっても、言えなかった。
門を入り、また別の門を入り、板塀に沿って歩いた。荷はどこかで別の方へ運ばれていく。自転車の音も、いつのまにか聞こえなくなっていた。
門を入ってからも、建物がいくつもあった。塀の内に空いた土地があり、その奥に、村では見なかった大きさの屋根が見える。人が何人も、別々の方へ歩いていく。
普通の家ではない、と思った。誰の家なのかは分からない。
通されたのは、その端にある一棟だった。板の間があり、隅に薄い敷物が畳んである。窓は高いところに一つ。
案内の者が、戸口から中を指した。
「ここだ」
それから外を手で横に払い、続けて何か言った。長い。悠人には取れない。だが、手の動きは分かる。ここまで、それより外は駄目だ、ということらしい。
「分かった」
言ってから、通じたかどうかは分からないと気づいた。相手は頷きも首振りもせず、次の言葉へ移っていた。
その者があの男へ何か言い、あの男が短く返した。速い。取れたのは二つだけだった。
「あす」に近い音。少し置いて、「まて」に近い音。
あすか、あさってか、そのあたりに、誰かへ会わされるらしい。
誰なのかは分からない。何を聞かれるのかも分からない。分かるのは、待て、ということだけだ。
戸が閉められた。外の音が、少しだけ遠くなった。
板の間に座ると、足の裏が熱を持っていた。
戸の向こうで、話し声が続いていた。どれも、文にならなかった。




