第23話 名と、年と
粥が来て、椀が下げられた。それが二度あって、日が暮れた。
板の間は、端から端まで歩けば七歩と少しだった。窓は高いところに一つある。そこから入る光が床のどこに落ちているかで、外の時間だけは分かる。
外の音は多い。人が通り、何かが運ばれ、遠くで声が上がる。木を打つ音が続いたかと思うと、急にやむ。誰かが誰かを呼び、返事があり、また別の声が重なる。
どれも文にはならない。
連れてきた男は、あの日から一度も顔を出さない。荷がどこへ行ったのかも分からない。戸は外から閉められているが、閂の音を聞いたことはなかった。
一度だけ、椀を下げに来た者へ声をかけてみた。覚えている限りで短く、ゆっくり言った。相手は手を止めず、悠人の顔も見ずに出ていった。
それきり、こちらから話しかけるのはやめた。
粥が来て、椀が下げられた。それだけの日が、いくつか続いた。
粥の脇に、塩気の強いものが少し付く日もあった。白っぽい根を細く切ったもので、名前は分からない。噛むと、しばらく口の中に味が残った。
そのあいだに、別の者が何度か来た。毎回、聞かれることは同じだった。名。どこから来たか。何をしていたか。
答えると、頷きもせずに出ていく。次の日にまた来て、また同じところを聞く。人が変わっている日もあった。
同じ答えをするかどうかを見られているらしい、と途中で思った。思ったところで、答えは変えようがない。
来るのは、いつも同じくらいの身なりの者だった。偉い人らしい者は、一度も来なかった。
何日か過ぎた朝、いつもより早い時刻に戸が開いた。粥はまだ来ていなかった。
連れて行かれた先に、桶が並んでいた。湯が張ってある。着ているものを脱げ、という意味の身振りをされて、悠人は脱いだ。
洗われた。自分でも洗ったが、途中から誰かの手が加わった。首の後ろも、耳の裏も、こすられる。髪を解かれ、櫛を通された。
櫛が途中で止まった。上からもう一度通して、また止まる。後ろへまとめようとしているらしい、というのは手つきで分かったが、まとめるそばから額と耳の脇の毛が落ちてきた。洗っている者が、後ろの者へ短く何か言う。全部は取れない。結局、髪は切られず、櫛を通して撫でつけられただけで終わった。
爪の先まで見られ、伸びたところを切られた。
道中で足に入った砂が、ここでようやく全部落ちた。
途中で、別の者が来て悠人を見た。手を取って甲と掌を返し、顎を上げさせて首の周りを見る。それから、洗っている者へ短く何か言って、出ていった。
物を検めるときの手つきに似ていた。館の土間でも、寺でも、同じ動きを見た覚えがある。ただしあのときは、机の上に物が並んでいた。
乾かされたあと、別のものを着せられた。手触りが違う。今まで借りていたものより目が細かくて、重い。袖の長さは合っていない。少し長い。
帯を締め直された。一度締めて、緩めて、また締める。位置が気に入らなかったらしい。二度目のほうがきつかった。
その間、誰も何も聞かなかった。
板の間で繰り返されたのは、名と、どこから来たかと、何をしていたかだけだった。何を知っているのか、なぜここにいるのかは、まだ誰も聞いていない。
今日は、それさえ聞かれない。
かなり上の人へ会わされるらしい、と思った。それ以上は分からない。誰に、なぜ、いつなのかは、やはり誰も言わなかった。
別の者が来た。年は上に見える。動きに迷いがない。
「座れ」
言われた場所に座る。すぐに、違う、という手つきをされた。膝の向きを直され、手の置き方を直される。
「今一度」
立って、座る。また直された。
三度目でようやく頷かれたが、四度目には別のところを直された。敷居を踏むな、という意味らしい。それは言葉ではなく、足の甲を指で軽く弾かれて分かった。
入り方もやらされた。戸口で止まる。呼ばれてから入る。歩く速さ。どこで止まるか。止まる場所は、床の板の目で数えて覚えろということらしかった。
次は頭の下げ方だった。相手を見ないこと、息を止めないこと、上げるのが早すぎないこと——三つとも、やって見せられてから、やらされた。
「呼ばれたら」
「……はっ」
男が首を振った。
「はあ」
はあ?
聞き返されたのかと思った。違う。返事そのものが「はあ」なのだ。
気の抜けた相槌には、聞こえなかった。
「……はあ」
「今一度」
「はあ」
今度は直されなかった。
「存ぜぬことは」
「……存じ奉らず」
「今一度」
「存じ奉らず」
音として覚えるしかなかった。どこで切れるのかも、何を言っているのかも分からない。ただ、答えを持っていないときはこれを言え、ということらしい。
その者は頷いて、それから短く付け加えた。
「己より申すな。問われたことのみ答えよ」
意味は取れた。取れたが、体の方が覚えない。座り直しは、日が高くなるまで続いた。
何の面接だよ。
相手の名前も、まだ聞いていない。
終わっても、褒められも、叱られもしなかった。
昼を過ぎて、別の部屋へ移された。
待っていたのは、四十くらいの男だった。悠人が座るのを待たずに、口を開いた。
「おわりの勢は、次はどこへ来る」
おわり。その音は分かった。
尾張。名前だけは、いやというほど聞いた。だが、いま聞かれているのは、そこから先のことだ。
「……存じ奉らず」
「いつのことぞ」
悠人は、さっき覚えたばかりの言葉をもう一度口にした。
「勢は何ほどぞ」
数を聞かれているらしい、というところまでは分かった。分かったところで、答えは出てこない。
知らないのか、言葉が足りなくて答えられないのか、自分でも切り分けられなかった。桶狭間より後のことなら、順番だけは知っている。誰が伸びて、誰が消えるのかも、大まかには知っている。だが、いつ、どこへ、どれほど、という形にすると、何も出てこない。
男はしばらく悠人を見て、それから短く息を吐いた。
罵りもしない。聞き直しもしない。
男は脇の者へ何か言ってから、悠人へ向き直った。
「これより、おやかたさまの御前へ出る」
文の全部は取れなかった。
ただ、一つだけ、はっきり聞こえた。
おやかたさま。
「己より申すな。問われたことのみ答えよ」
朝から言われていたことだった。悠人は頷いた。
これから、その人に会わされるらしい。
「さきの、おやかたさま」。あの日、館の土間でそう聞いた。それが今川義元のことだと、後になって分かった。
「さきの」が付いていた。
いま、この場所で、誰かがそう呼ばれている。
義元の次。
今川氏真——なのか。
そこまでは並んだ。だが、この屋敷が誰のものかを、悠人はまだ聞いていない。確かめようはなかった。
口にも出さなかった。
通されたのは、これまでで一番広い部屋だった。
人が並んでいる。左右に、数えるのをやめるくらいの数。皆、同じ向きに座っている。話し声が低く続いていて、その中にまた「おわり」に近い音が混じった。
また、そのことを聞かれるのだろう。
教えられたとおりに頭を下げた。教えられた位置に座った。膝の向きは、たぶん合っている。手のひらが湿っていた。
連れてきた者が、上座へ何か短く告げた。
言葉は取れなかった。告げ終えると、その者は深く頭を下げた。
顔を上げてよいのかどうか分からなかったが、悠人は視線だけを上げた。
上座に、若い男が座っていた。
自分と、そう変わらない。二十を少し過ぎたくらいに見える。背筋の伸び方と、手の置き方だけが、周りの誰とも違っていた。
さっき言われた、おやかたさま。
今川氏真。
浮かんだ名を、悠人は口の中にも出さなかった。
並んだ者たちが静かになった。悠人は次の言葉を待った。尾張のこと。軍勢のこと。いつ、どこへ、どれほど。さっき答えられなかったものが、そのまま順番に来るのだと思っていた。
氏真が口を開いた。
「名は」
板の間で何度も聞かれたことだった。
一拍、遅れた。
「……たかせ、ゆうと」
脇で衣擦れがした。右手にいた男が、わずかに顔を上げている。
「年は」
「じゅうきゅう」
脇にいた者が、わずかに顔を動かした。
「じゅうく、か」
少し違って聞こえた。
悠人は頷いた。
氏真は頷きも首振りもせず、次を聞いた。
「母はおるか」
「います」
「父は」
「います。姉も」
自分の声が、思ったより普通に出た。
いる。少なくとも、自分がいたところには。
聞かれたことだけ答えよ、と言われている。だから、それだけ答えた。
「どこから来た」
「いまいずみ」
言った。通じない。それは分かっていた。
氏真は少し目を細めた。だが、聞き返さなかった。追いもしなかった。
少し間があった。
「家へ帰りたいか」
家。帰る。そこは取れた。
「帰りたい」
迷わなかった。
氏真は少しのあいだ悠人を見ていた。
部屋は静かだった。誰かが膝を動かす音が、やけに大きく聞こえた。
帰り方は、相変わらず一つも思いつかない。それでも明日、腹は減る。
「後のことを知ると申すか」
のち。しる。
寺にいたころ、戸の外を遠ざかっていく声にも、その音が混じっていた。あのとき分からなかったものが、いま、自分へ向けて言われている。
答えは、選ばなければならなかった。
「……少しは、知っています」
それだけ言った。
並んだ者の一人が、身を乗り出した。
「おやかたさま。この者に、おわりの——」
氏真の目が、そちらへ動いた。それだけだった。
言いかけた者は口を閉じ、頭を下げて元の位置へ戻った。
それきり、誰も何も言わなかった。
面会は、それで終わった。思っていたより、ずっと短かった。
下がれ、という意味の言葉が来て、悠人は教えられたとおりに頭を下げた。上げるのが早すぎないように、と思いながら上げた。
元の場所へ戻された。
板の間は、出ていったときと同じだった。敷物は隅に畳まれたまま、窓から入る光の形も、朝と変わっていない。
座ると、帯が朝に締め直されたままの位置にあった。緩めてよいのかどうかも、聞いていない。
着せられたものだけが、まだ体に残っていた。




