第24話 違っていたら
あれから、何日かが過ぎた。
一度、椀の脇に小さな干した魚が二尾ついた。骨ごと噛めるほど薄いが、とても美味く感じた。次の日はまた粥だけで、その次も同じだった。何かが変わったのか、その日の献立がそうだっただけなのかは分からない。
戸が開くのは、食事のときと人が来るときだけだった。
これからどうなるかを告げに来る者はいない。あの部屋で何かが決まったのかどうかも、分からないままだった。
一人でいるとき、教えられた言葉を口の中で繰り返した。はあ。存じ奉らず。二つしかないので、すぐ終わる。
また戸が開いたのは、粥が下げられてすぐだった。
人が入ってきて、身なりのチェックが始まった。着せられたものはそのままで、帯だけがまた締め直された。前のように体を洗われも、髪に櫛を通されもしなかった。急いでいるらしい、というのは手つきで分かった。
それから、歩かされて、板塀に沿って曲がり、前とは別の戸口で止められた。
部屋は狭かった。前の広間の半分もない。人も少ない。左右に四人か五人。
上座に、氏真がいた。
教えられたとおりに頭を下げ、教えられた位置に座った。板の目を数える暇はなかったが、前と同じあたりだと思う。
右手にいた男が、先に口を開いた。前のとき、身を乗り出して途中で止められた男だった。
「この家中に、離れる者がおろう」
家中。意味は分かった。
「今川を捨て、他所へ通じる者じゃ。その名を申せ」
何を聞かれているかは分かった。裏切る者を教えろということだ。
悠人は口を開こうとして、閉じた。それから、教えられた言葉を出した。
「……存じ奉らず」
「一人もおらぬと申すか」
「存じ奉らず」
「では、いつじゃ。いつ、離れる」
「存じ奉らず」
「どこへ通じる。北か。西か」
「存じ奉らず」
「この屋敷の内にはおらぬのか」
「存じ奉らず」
「日を限って申せ。ひと月のうちか、ふた月のうちか」
「存じ奉らず」
「ならば、離れる者はおらぬと申すのか」
そうは言っていない。だが、そう言っていないと言うための言葉も、持っていなかった。
同じ言葉ばかりが出ていく。
言うたびに、部屋の温度が下がっていく気がした。答えを持っていないという意味で言っているのに、そう聞こえていない。答えを持っているのに出さない者の言い方に、外からは見えている。
それは、悠人にも分かった。
分かったが、ほかの言い方を教わっていない。
悠人は首を振った。知らない、という意味のつもりだった。
それも、うまくいかなかった。首を振ったところで、言わぬという意思表示と、どこが違うのかは、外からは見えない。
一度だけ、教わっていない言い方をしてみた。
「名前は、知りません」
言ってから、しまったと思った。前の言葉と違う形にしたことで、かえって、選んで答えを変えているように見えたかもしれない。
脇にいた者が、短く言い直した。
「知らぬ、と申す」
「知らぬのか、申さぬのか」
男はそう言って、悠人を見た。言い直しても、そこは変わらなかった。
知らないのです、と言おうとした。知らない、までは出る。その先が続かない。続けたところで、同じところへ戻る気がした。
男の声が、少し高くなった。
「先のことを知ると申したは、そなたであろう」
言った。たしかに言った。少しは知っています、と。
だが、あのとき言ったことと、いま聞かれていることは、同じ形をしていない。
大きなことなら、いくつか知っている。誰が伸びて、誰が消えるのか。それも、名前と、結果だけだ。この屋敷にいる誰かが、いつ、どこで、どちらへ寝返るのか——そういう形で、悠人は何も持っていなかった。
持っていないことを説明する言葉も、持っていない。
「存じ奉らず」
何度目かも、分からなくなっていた。
男が息を吐いた。今度は短くなかった。
「おやかたさま」
そう言ってから、悠人ではなく、上座へ向かって続けた。
「この者の申すこと、偽りではありませぬか」
場が動いた。誰かが姿勢を変え、誰かが小さく頷いた。低い声が二つ三つ重なって、悠人には文にならない。
「なれば、何のために召されたのか」
そう言ったのは、別の男だった。声は高くない。責めるというより、日が詰まっている者の言い方に聞こえた。
「先を申せぬ者を置いて、なんとする」
氏真は止めなかった。
膝の上の手が、湿っていた。
このまま黙っていれば、偽りだということになる。それで済むのならまだいい。だが、済まないかもしれない。
そして、名を出せば済むわけでもない。
知っている名なら、ある。
だが、それは教科書に載っていた名前で、いま聞かれているものとは違う。この部屋のどこかにいる誰か、この屋敷に出入りしている誰か——そういう名は、一つも知らない。
それでも名を出せと言われれば、ここへ来るまでに耳へ入った音の中から、根拠もなく一つ選ぶしかない。
それは答えることではない。誰か一人を、疑わせることだ。
テストなら、外しても赤で直されて終わりだ。
ここでは、直されない。
外せば、何もしていない人のところへ人が行く。当てたところで、行くのは同じだ。その人がどうなるのかを、自分は知らない。
考えている時間は、そう長くなかったはずだ。
悠人は顔を上げた。
己より申すな、と言われている。問われたことだけ答えよ、と。座り直しを何度もやらされた朝に、そう教えられた。
言えば、たぶん、その言いつけを破ることになる。破ったことが、また何かの証しにされるかもしれない。
それでも、口を開いた。
「……名を言えば、その人は疑われます」
部屋が静かになった。
続きが出てこなかった。息を吸って、もう一度、短く言い直した。
「違っていたら。その人は、何もしていません」
言葉の順が、たぶん合っていない。だが、それ以上うまくは言えなかった。
脇にいた者が、氏真の方をうかがってから、口を開いた。
「違うておっても、咎めが及ぶ、と申すか」
とがめ。およぶ。そこが取れない。
だが、さっき自分が言った二つを、一つにして返されているのは分かった。
悠人は、少し遅れて頷いた。
それきり、誰も何も言わなかった。
右手の男が何か言いかけて、やめた。やめたのが、氏真を見たからなのか、ほかの理由なのかは分からない。
氏真は、しばらく黙っていた。手は膝の上に置かれたまま、動かない。
やがて、悠人ではなく、並んだ者たちの方へ顔を向けた。
「この者の申す名のみをもって、咎めとはせぬ」
短かった。それだけで、氏真は口を閉じた。
言葉の全部は取れなかった。名。もうす。とがめ。せぬ。拾えたのはそれだけだ。
だが、何が決められたのかは、分かった。決められたのは、自分のことではなかった。
説き聞かせもしない。理由も言わない。誰かを叱ることもない。
右手の男が、口を開きかけた。
「なれど、おやかたさま」
氏真は答えなかった。同じ言葉を繰り返しもしなかった。ただ、そちらを見た。
右手の男は、言い返さなかった。しばらくしてから、頭を下げた。納得した顔かどうかは、悠人には分からない。
ほかには、何もなかった。
調べるのをやめる、とも言っていない。悠人を信じる、とも、疑いを解く、とも言っていない。これからどうするとも、この者をどう扱うとも、誰も言わない。
悠人の名は、もう呼ばれなかった。
下がれ、という意味の言葉が来た。悠人は頭を下げた。上げるのが早すぎないように、と思いながら上げた。
立ち上がったとき、上座から短く声がかかった。
「また、聞こう」
顔を上げてよいのか分からなかったので、悠人はもう一度頭を下げた。
聞く、は分かった。
何を、とは言われなかった。
板の間へ戻された。
戸が閉められる。外の音が、少しだけ遠くなった。戸の向こうを何度か人が通ったが、止まる者はいない。
座ると、膝の裏が固くなっていた。ずっと同じ姿勢でいたせいだ。
手のひらを見た。まだ湿っている。
さっき言ったことを、もう一度思い返した。
名を言えば、その人は疑われる。違っていたら、その人は何もしていない。
言えたのは、それだけだ。それで自分の扱いが決まったわけでもない。
次に呼ばれたときも、同じことを言えるだろうか。
同じことを言って、同じように終わるだろうか。
膝を伸ばして、座り直した。教えられたとおりの向きに、自分で直していた。
窓の光は、もう床の端まで来ていた。




