第25話 後の世
そのあとも、別の者が何度か来ることがあった。聞かれることは前と同じで、答えられることも前と同じだった。同じ言葉を出すと、相手は同じように黙って出ていく。
粥が来て、椀が下げられた。それが幾日か続いた朝、いつもより早く戸が開いた。
着ていたものを脱がされ、湯で体を洗われた。髪にも櫛が入った。前とは別のものを着せられ、帯を締められる。また氏真に会うことになるのだろう、との予想はついた。
爪までは見られなかった。途中で誰かが見に来ることもない。前のときほど手間はかからず、手つきに急ぐところもない。
歩かされた先は、これまでのどちらでもなかった。廊下が一度折れ、そこから先は人の気配が薄くなる。すれ違ったのは二人だけで、どちらも足を止めなかった。
止められた戸口は狭い。中から声がかかった。
「入れ」
呼ばれてから入る。敷居は踏まない。教えられたとおりにやった。
部屋は前よりもさらに狭かった。上座に氏真がいて、その斜め後ろに一人。それだけだ。
座る位置を手で示された。板の目を数えるまでもない距離で、声を張る必要もなさそうだった。
頭を下げて、上げるのが早すぎないように、と思いながら上げた。
氏真はしばらく悠人を見ていた。膝の上の手は動かない。それから、口を開いた。
「故郷へ立ち帰らんと申したるな」
こきょう。たちかえらん。
音はいくつか取れた。だが、意味がいまいちわからない。
脇の者が短く言った。
「家へ帰りたいと申したな」
この前、自分が言ったことだった。
「帰りたい」
同じ言葉を、もう一度出す。氏真は頷きも首振りもしなかった。
「行く末のことをも知る由、申したるな」
今度は、悠人が黙る前に脇の者が添えた。
「後のことを知るとも申した」
のち。しる。もうす。
これも覚えている。少しは知っています、と答えた。悠人は頷いた。
今日は急かす声もない。
上座の人が何を考えているのかは、やはり分からなかった。分からないまま、別のことが頭をかすめる。
この人の名前を、悠人は知っている。
今川氏真。
教科書に出てくる人であり、現代まで名を残した人だ。
しかし詳しいことは何も知らなかった。
悠人は目を落とした。
「後のことを、なにゆえ知る」
短かった。
なにゆえ。理由を聞かれている。そこまでは取れた。
この前の部屋でも、板の間へ来る者たちも、聞くのは同じところだった。誰の名だ、いつだ、どこだ。
しかし、なぜと聞いた者はいない。
悠人は口を開いた。
「……前にいたところで、知りました」
口にしたあとで、言葉が足りないと思った。前、と言った。だが、それが場所のことなのか、いつのことなのかを、この言い方では分けられない。
「……場所では、なくて」
言い直したところで、次がなかった。
「……前、というのは」
そこで止まる。
なぜ知っているのかを言うには、どこから来たのかを言わなければならない。どこから来たのかを言うには、何があってここにいるのかを言わなければならない。そこが抜けていた。
坂の途中だった。雷が鳴っていて、白い光があって、そこで記憶が切れている。気が付いたら川原にいた。あいだに何があったのかも、悠人自身が知らない。
かみなり、と言いかけて、やめた。言ったところで、なぜ知るのかの答えにはならない。それに、この数日で覚えたことがある。言葉を足すと、たいてい状況が悪化する。
存じ奉らず、という言い方はある。だが、この前それを言い続けて、どうなったかは覚えている。
膝の上で、指を一度握って、開いた。
脇の者は言い直さない。氏真も、同じことをもう一度は言わなかった。外を誰かが通り、板を踏む音が遠ざかっていく。
待たれている。答えを渋っていると取られる時間が、また延びていく。
氏真が口を開いたのは、そのあとだった。
「知らぬなら、知らぬと申せ」
しらぬ。もうせ。
全部は取れない。脇の者が、短く添えた。
「知らぬことは、知らぬと申せ、との仰せじゃ」
この前、言うたびに部屋の温度が下がった言葉だった。
あの部屋では、言えば言うほど答えを渋っているように見えた。
ここでは、知らないと言っていいのか。
悠人は顔を上げた。
「……どうして来たかは、知りません」
言ってから、続きを待つ。誰も何も言わなかった。脇の者も、氏真も、そこを咎めない。
知らないところを、知らないと言って、外へ置けた。置いてしまうと、残りが見えた。
残っているのは、一つだけだ。
言えば、戻せない。信じられなければ、嘘をついたことになる。信じられたら、それはそれで怖い。
言うかどうかを迷う時間はなかった。ほかに、言えることがない。みなくちでも、寺でも、これは一度も口にしていない。言っても通らないと思っていたし、通ったところでどうなるのかも分からなかった。
この前は、口が先に動いた。今度は違う。
「……後の世から、来ました」
言ってしまうと、思ったより短い言葉だった。これを言うために言葉を覚えたわけではない。覚えたものは、どれもここでは使えなかった。使ったのは、はじめから持っていた言い方だけだ。
部屋の何かが動いた。
脇にいた者が姿勢を変え、氏真の方を見て、それから悠人を見る。
「後の世、と申したか」
「はい」
その者は氏真へ向き直り、少し声を落とした。
「冥土のことかと存じまする」
めいど。
冥土の土産、の冥土か?
なぜ、いまその言葉が出てくるのかは分からなかった。
氏真が悠人を見た。声も、顔も変わらない。驚いた様子も訝しむ様子もなかった。
「死にたるか」
死。
その一語で、ようやくつながった。
そっちか。
自分の言った後の世が、死んだあとの方の話として取られている。
「違います」
首を振り、それから、もう一度言った。
「死んでないです」
脇の者が確かめるように言う。
「死したる者にはあらずと申すか」
「はい」
脇の者が氏真を見た。氏真はそちらへ顔を向けないまま、悠人を見ている。
自分の言った言葉が、別の意味で通っている。それは分かった。どこがどう別なのかは、分からない。この人たちが取ったものと、自分が言おうとしたものとが、同じ音でつながっていた。
言い直そうとした。
「違います。もっと、あと……」
言ってから、足りないと思う。
「この時より、あとで……」
「いつじゃ」
氏真が短く聞いた。
いつ。
数なら言える。年を聞かれたときも、じゅうきゅう、と答えた。悠人は口を開きかけて、止まった。
戸の外で、桶か何かが置かれる音がした。それきり、また静かになる。
こちらが何年なのかを、悠人は知らない。義元が討たれた年だと思っているだけで、それからどれだけ過ぎたのかも、この土地で年をどう呼ぶのかも知らない。
片方の端が定まらなければ、正確な数は出せない。
「幾年の後ぞ」
言い方が変わった。かず、を聞かれているのは分かる。
「……ずっと、あとです」
それしか出てこなかった。ずっと、がどれくらいなのかを言う言葉がない。明日の後も、十日の後も、悠人の口からは同じ「あと」になる。
「十年か。二十年か」
数が出てきた。悠人は首を振った。
「もっと」
言ってから、頭にある数を出してみることにした。
「……よんひゃく、くらい」
脇の者が、わずかに眉を寄せた。
「よん、とは」
悠人は、返す言葉が出なかった。
よんが、通じない。
四つなら、指を四本立てればいい。
でも、四百は。
じゃあ、四百って、なんて言うんだ。
「……ずっと、あとで。この、あとで」
同じところへ戻った。数の形を間違えたまま押し通せば、この前と同じことになる。
氏真は聞き直さない。脇の者も、今度は言い直さなかった。
言いたいことは頭の中にある。それを出す口の方が、どこにもなかった。
部屋が静かになった。外の音だけが、戸の向こうで続いている。
氏真はしばらく悠人を見ていた。信じたとも、信じないとも言わない。頷きもしない。眉も動かなかった。
膝の上の手が、そこでようやく動いた。
氏真は、悠人ではなく脇の者の方へ顔を向けた。
「この者に、言葉を習わせよ」
短かった。全部は取れない。ことば、というところと、ならわせ、に近い音と、最後が言いつけの形になっていることだけが分かった。
「はあ」
脇の者が頭を下げる。
それきりだった。なぜとも、いつからとも、誰がとも言われない。他言するな、とも言われなかった。
自分に言葉を習わせるらしい。分かったのは、そこまでだった。
下がれ、という意味の言葉が来た。悠人は頭を下げ、上げるのが早すぎないように、と思いながら上げた。
戸口まで来たとき、脇の者が先に立った。
廊下を一つ曲がったところで、その者は足を止める。悠人が追いつくのを待ってから、また歩き出した。連れて行かれるとき、待たれた覚えはなかった。
その者は何も言わなかった。悠人も聞かない。聞く言い方を、まだ持っていなかった。
何のために、誰が教えるのかは、分からないままだ。
戻された部屋で、悠人は座った。
戸が閉まる。外では、人が通り、何かが運ばれ、遠くで声が上がっていた。どれも、いつもと同じだった。
さっき言った言葉を、口の中でもう一度言ってみた。
後の世。
自分の耳には、どこも変には聞こえなかった。




