第26話 読める字
粥が来て、椀が下げられた。それが幾日か続いたあと、食べ終えて椀がまだ脇にあるうちに、戸が開いた。
入ってきたのは、これまでのどの者でもなかった。年は悠人と近いか、少し上に見える。片手に紙の束、もう片手に細長い箱を提げていた。
名乗らない。なぜ来たとも言わない。
戸を閉め、悠人の正面ではなく、少し斜めのところへ座った。箱を開けると、筆が二本と、小さな硯が出てきた。水を落として、しばらく墨をする。その音だけが、板の間に続いた。
手を止めて、若い男は指で床を叩いた。
「ゆか」
悠人は、その音を返した。
「ゆか」
頷きもしない。次に戸を指す。
「と」
「と」
椀を指す。
「わん」
これは知っていた。悠人は言われる前に返した。
「わん」
若い男の指が、途中で止まった。それから、また動いた。硯へ落とした水を指す。
「みず」
「みず」
これも長いこと使っている。若い男は椀を持ち上げ、少し傾けてみせた。
「そそぐ」
「そそぐ」
椀を置き、掌で押す。
「おす」
「おす」
帯の結び目を指されたときだけ、悠人は言えなかった。若い男は同じ語をもう一度言い、悠人が返すと、そのまま次へ進んだ。外を誰かが通り、板を踏む音が遠ざかっていく。
半分ほど過ぎたころ、若い男は物を指すのをやめた。
「戸を、開けよ」
悠人は立って、戸を開けた。戸の外は明るく、風が入って、硯の水面が少し揺れた。
「閉めよ」
閉めた。座り直すと、次が来た。
「椀は、いずこにある」
少し遅れた。いずこ、が取れない。だが、椀と、ある、は分かる。悠人は椀を指した。
若い男は頷かなかった。同じことを、少し違う言い方でもう一度言う。
「椀は、どこだ」
「ここ」
それは通った。
村で聞いた音。道中で聞いた音。寺の板の間で、意味も分からないまま何十回も通り過ぎていった音。どこかに溜まっていたらしい、というのは、返せてしまってから分かった。
ただし、言い方が改まると、途端に落ちた。若い男が一度、長い言い方をしたとき、頭の音は取れたのに、その先が続かなかった。悠人が黙っていると、若い男は言い直さず、短い語へ戻した。
その日から、若い男が来るようになった。
何日か経つと、順が変わった。若い男が言って悠人が返すのではなく、若い男が問い、悠人が答える形になった。
「これは」
「かみ」
「これは」
「ふで」
箱の中の筆を並べ、そこへ指を向ける。
「いくつ、ある」
「ふたつ」
「きのうは」
「みっつ」
若い男は書き留めて、次へ進んだ。
来るたびに、紙を出した。悠人へ見せるためではない。教えた語と、悠人が返した音を、自分の手元へ書き留めている。書きながら口を動かし、書き終えると顔を上げて、また次を言う。
悠人は、その手元を横から見ていた。見ても、何も分からなかった。
筆の先が動くと、線がつながって流れていく。どこで一つの字が終わって、どこから次が始まるのかも取れない。切れ目が見えなかった。
それでも見ていたのは、ほかに見るものがなかったからだ。
何日目かの昼だった。
若い男が、途中で筆を止めた。何かを思い出したらしく、紙の端へ短く書きつける。そこだけ、手の動きが違った。速く流さず、一画ずつ置くように書いた。
書いてから、また元の続きへ戻る。
悠人は、その端の一字を見ていた。
四角に、横棒が一本。
日。
流れの中に一つだけ、知っている形が立っていた。
考えるより先に、手が出た。悠人はその字に指を近づけ、それから、窓から入っている光の帯を指した。
若い男の筆が止まった。
音は立てない。手も動かさない。ただ、悠人の指と、紙の端と、窓とを、順に見た。しばらく、そうしていた。
それから、束の下の方から別の紙を抜いて、悠人の前へ置いた。悠人は覗き込んだ。
一字も取れなかった。
線がつながって落ちていく。どこかで切れているはずなのに、切れ目が見えない。さっき読めた形と同じものがどこかにあるのかもしれないが、あるとしても分からなかった。
顔を上げると、若い男はまだ悠人を見ていた。
何も聞かれない。なぜ読めた、とも、あれは何だ、とも言われなかった。
若い男は紙を戻し、筆をこちらへ差し出した。
意味は取れた。悠人は受け取った。持ち方は直されなかった。学校の書き初めで何度もやらされた形が、勝手に手に戻ってきていた。
白いところへ、さっきの字を書いた。四角に、横棒が一本。
書けた。
ただ、若い男が紙の端に残した字と並ぶと、悠人の字だけが妙に固く見えた。
若い男は、二つの字を交互に見た。首をかしげもしない。感心もしない。眉が動いたかどうかも、悠人には分からなかった。
やがて、書いた紙を束へ挟み、筆を仕舞い、立ち上がった。
「あす」
それだけ言って、出ていった。
紙は返らなかった。
教えは続いた。朝に来る日もあれば、日が傾いてから来る日もあり、来ない日もあった。語は増えた。物の名から、動きの言い方へ移り、それから、いつ、どこ、いくつ、を言う言い方へ移った。
字のことは、一度も出なかった。
何日か過ぎた朝、若い男は紙を出さずに、来い、という手つきをした。
連れて行かれた先は、庭に面した広い板の間だった。人が何人か座っている。悠人は入口に近い隅を指され、そこへ座らされた。
「聞いておれ」
若い男はそれだけ言って、前の方へ行った。
誰も悠人を見なかった。庭で鳥が鳴き、どこかで水を汲む音がする。前の方では、若い男が膝に紙を置いて筆を構えていた。筆と硯を入れてきた細長い箱も、横に開かれている。
しばらくして、外から人が入ってきた。四十くらいの男で、頭を下げてから話し始めた。
早い。だが、全部が落ちるわけではなかった。
みなくちで聞いていた話し方とは、少し違う。言葉の終わりなのか、音なのか、そこまでは分からない。ただ、少し聞き取りにくい気がする。
やけた。その音が出た。
それから、場所らしい音。人の名らしい音が二つ、続けて出た。前、という言い方も混じった。
やけた、が、もう一度出た。
一人が出ていき、しばらくして別の者が入ってくる。今度は年配の女だった。話し方は違うのに、出てくる音は似ていた。やけた。同じ場所の音。同じ二つの名。
三人目が座ったとき、悠人は気づいた。
同じ一件の話らしい。
日が高くなってから、もう一人来た。前の方で、若い男の筆がまた動いている。
焼けて、何かがなくなって、それで揉めている。そこまでだ。誰の何が焼けたのかも、何がなくなったのかも、それがなぜ揉め事になるのかも、聞いていて組み立てられなかった。
悠人には何の権もない。口を出せる立場でもない。言われたのは、聞いておれ、それだけだった。
だから、聞いていた。聞いているうちに、頭の中で勝手に並び始めた。
四人とも、同じ場所の音を言った。同じ二つの名も言った。そこは揃っている。
違ったのは、名の順だった。はじめの三人は、二つの名を同じ順で並べた。四人目だけ、逆に言った。
前、と言ったのも三人。四人目だけが、後、と言った。
膝の裏が固くなっても、悠人は座り直さなかった。動くと、順番が飛びそうな気がした。
三人と、一人。
誰が正しいのかは分からない。嘘をついている者がいるのかどうかも分からない。分かるのは、そこで分かれている、ということだけだった。
日が傾いて、人が来なくなった。
前に座っていた者たちが立ち、部屋を出ていく。若い男は残った。
紙を広げ、悠人の前へ置く。筆は渡されない。
「何人、来た」
短い言い方だった。悠人は紙の白いところへ指を近づけ、上から下へ四つ、順に押さえた。
若い男は筆を取り、押さえられたところへ短い線を四本、縦に離して引いた。
さっきの四人が、四本になった。
「同じことを申した者は」
悠人は、上の三本を順に指した。
若い男は、その三本の横へ、同じ形の印を並べて付けた。
「違うは、いずれぞ」
四本目だけを指す。
若い男は、四本目の横へ別の印を置いた。
「前と申したは」
悠人はもう一度、上の三本を指した。
若い男は、さっきの印の下へ、もう一つずつ足していく。四本目のところだけ、また別の形になった。
それから、印の横へ、字を書いた。
悠人は見ていた。線と印までは、自分のものだった。どれとどれが同じで、どれが違うのかが、そのまま紙に残っていく。
その横に足されていく字は、読めなかった。
流れて、つながって、どこで切れているのかも分からない。前に読めた「日」の形も、見つからなかった。
書き終わると、若い男は紙を持ち上げ、乾くのを待つように少しのあいだそのままにしてから、束へ挟んだ。
次にいつ来るとも言わなかった。
何のために質問されたのかは、分からないままだった。
板の間へ戻された。
戸が閉まる。外はまだ明るい。
悠人は座って、自分の手を見た。指の腹に、墨は付いていない。さっきは、筆には一度も触れていない。
さっき押さえた場所の順番だけが、まだ手のどこかに残っていた。




