第27話 線を引く
何日か経った朝、若い男は紙を出さなかった。来い、という手つきをして、先に立つ。
連れて行かれたのは、前と同じ、庭に面した広い板の間だった。ただ、座れと指された場所が違った。入口の隅ではない。若い男の斜め後ろだった。
端の方に、人が四人、並んで座っていた。
前のときは一人ずつ入ってきて、一人ずつ出ていった。今日は四人ともそこにいる。
顔は覚えていた。四十くらいの男。年配の女。背の低い男。最後に来た、痩せた男。座っている並びは入れ替わっていたが、誰が何番目だったかは、そのまま出てきた。紙の白いところを、上から下へ四つ押さえたときの順番だ。
四人は誰も口をきかない。年配の女が袖の中で手を組み直し、痩せた男は膝の前の板の節を見ていた。
前の方で、若い男が膝へ紙を置き、筆を構えた。細長い箱も横に開いてある。その隣に、別の者が座っていた。問いを出すのはその者で、若い男は書くだけだ。
四人の脇に立っていた者が、端へ向いて言った。
「げんざえもん様に、ありのまま申せ」
四人が頭を下げた。
げんざえもん。どうやら、そう呼ばれているらしい。
問いを出す者が、端の四人へ向いて言った。
「書付は焼けて残らぬ。誰の田であったか、知るところを申せ」
「田は、誰が耕しておった」
呼ばれて前へ出たのは、四十くらいの男だった。
声が大きい。前のときよりも大きかった。
やけた。その音が出る。人の名らしい音が二つ。難しい言い回しになると、ほとんど分からない。
前の方では、若い男の筆が止まらずに動いている。
「その田より、毎年、何ほど出しておった」
男は数を言った。それから、また二つの名を続けて言った。
「しるしは、いずれぞ」
「石でござる。据えてござる」
「その石は、書付の焼ける前より据えてあったか。焼けて後に据えたか」
「前でござる」
言い切って、男は頭を下げた。部屋からは出ず、そのまま端へ戻って座った。
前のときより、言い方が固い。ござる、という音が何度も耳に残る。
次に呼ばれたのは、年配の女だった。話し方は違うのに、出てくる音は似ていた。やけた。同じ二つの名。
「隣の田の者は、見ておったか」
「見ておりました」
「石を据えたは、焼ける前か、後か」
「前でござる」
女も、ござるって言うのか。
さっきの男のときにも、やけた、という音は出ていた。田のことを書いたものが焼けたらしい。
拾えない言葉の方が多い。合っているかどうかも怪しい。
でも、たぶん土地の権利の話だ。
二つの名がある。どちらの田だったのかで揉めている。石は、境か何かの目印。誰の田なのかを確かめる手がかりになるものがあったのに、それが焼けた。だから、誰が耕していたのか、石はいつからあったのかを、人に聞いて確かめている。同じところを、四人に同じように。
……たぶん。
三人目も同じだった。背の低い男は、前の二人が言い終わるのを聞いてから前へ出て、同じところで同じことを答えた。二つの名も、同じ順に並べた。
「前でござる」
最後に、痩せた男が呼ばれた。
膝を立て直してから、前へ出る。問いは同じだった。
「田は、誰が耕しておった」
答えるまでが短かった。前の三人が言ったのと同じ長さの、同じ音が出た。
「しるしは、いずれぞ」
「……石でござる」
「石は、焼ける前か、後か」
男は、間を置いた。
庭で鳥が鳴いた。若い男の筆は動いていない。
「……前でござる」
悠人の頭の中で、四本目の線が動いた。
前のとき、この男だけが違っていた。二つの名を逆に言い、前ではなく、後と言った。三人と、一人。そう分かれていたから、四本目にだけ別の印が付いた。
今日は、四本とも同じになった。
悠人は端の四人を見た。四十くらいの男は、もう前を向いていない。庭の方を見ている。
外から人が入ってきた。何かを提げている。前の方まで来て、若い男へ短く言った。
「よさぶろう」
「はあ」
「これを、預かれ」
若い男は立って受け取り、膝の脇へ置いて、また座った。
よさぶろう。どうやら、そう呼ぶらしい。
しばらくして、別の者が戸口から顔を出した。中へは入らず、そこから声だけをかける。
「よさぶろう殿。あとで、こちらへ」
よさぶろうは頭を少し下げた。
悠人は前の方を見た。
言いたいことがある。だが、よさぶろうまでは五歩か六歩あって、手を上げても誰もこちらを見ていない。
呼ぶしかなかった。
「よさぶろう殿」
声は小さかった。それでも、よさぶろうは振り向いた。
げんざえもんがこちらを一度見て、また顔を戻した。
悠人は、よさぶろうの膝の紙ではなく、その脇の束を指した。
よさぶろうは束を引き寄せ、上から順にめくって、途中で止めた。抜いて、悠人の前へ広げる。
四本の縦線。上の三本に同じ印。四本目に別の印。その下にもう一段。横に、読めない字。
悠人は四本目の線と、そこだけ違う印を押さえた。それから、痩せた男を指した。
「ちがう」
言えたのはそれだけだった。
よさぶろうの目が、紙と痩せた男のあいだを往復した。四本目で止まり、上の三本へ戻り、また四本目へ来る。それから、端に並んでいる四人を、一人ずつ順に見た。
紙の端へ短く書きつけ、筆を置いた。
「……別々に聞くか」
よさぶろうは立って、げんざえもんのところへ行き、膝をついて何か言った。二言か三言だった。
「……よかろう」
げんざえもんが、端の四人を見た。
四人は立たされ、庭へ出された。戸口には、別の者が一人残った。
呼ばれる順は、さっきと同じだった。
最初の男も、年配の女も、答えは変わらなかった。
三人目の、背の低い男が入ってきた。
問いの途中で、男の言葉が止まる。それから、二つの名を続けて言った。
順が、逆だった。
みんなの前では、前の二人と同じ順に並べていた。悠人は膝の上で指を動かした。一つ目。二つ目。逆だ。
聞き直しはなかった。よさぶろうは書いて、次へ進んだ。
最後に、痩せた男が入ってきた。
今度は、ほかの三人はいない。声の大きい男もいない。
「石は、焼ける前か、後か」
男は、さっきより長く黙った。
「……後でござる」
戻った。前のときと同じところへ戻っている。
今日は、四人とも同じことを二度ずつ聞かれた。二人は同じ答えで、二人は答えを変えた。
誰の言うことが本当なのかは分からない。
四人がいなくなったあと、よさぶろうは新しい紙を広げた。
そして、筆をこちらへ差し出した。
悠人は、筆と、白いままの紙を見た。
さっきの四人の答えを、今度は自分で残せということだろうか。
前の紙では、四人が四本の線になっていた。あれでは、同じか違うかまでしか示せない。誰の、どこが変わったかまでは残せない。
なら、簡単な表にすればいい。
四人を縦に置く。聞かれたことを横に置く。同じなら丸。違ったところには、ばつ。
それなら、誰の、どこが変わったのかまで残せる。
悠人は受け取った。硯へ穂先を浸す。墨は少なかった。持ち方は手が覚えていたが、穂先の先まで力が届かない。
左の端を空けて、上から下へ線を引いた。真っ直ぐにはならず、途中で細くなる。俯いた拍子に前髪が落ちてきて、手の甲で払う。間を空けて、もう二本。それから、横に三本。
仕切りは歪んだ。それでも、どこが誰の並びで、どこが何の並びかは、見れば分かる。
左の端へ、上から順に書いた。
男一。女。男二。男三。
前に一字だけ書いたときと同じで、手の方が先に形を思い出した。ただ、筆だと角が立って、よさぶろうの字のようには流れない。
上の端へ、三つ。
石。人。前後。
比べられるのは、この三つだった。
男一の並びに、丸を三つ。女にも、丸を三つ。どちらも、さっきと変わらない。
男二。石は丸。人のところで、手が止まる。みんなの前では、二つの名を前の二人と同じ順に言った。離して聞くと、逆になった。
ばつを置いた。
前後は、丸。
男三。石は丸。人も丸。前後で、またばつ。
置き終えて、悠人は紙を少し離して見た。
ばつは二つ。ただ、場所が違う。男二は「人」、男三は「前後」だった。
よさぶろうが横から覗き込んだ。
見出しを確かめ、男二の「人」のばつで指を止めた。
「これは」
悠人は板の間の端を指した。四人が並んで座っていた場所だ。それから、戸口を指した。
一緒にいたときと、別々に聞いたときで違う。
「ちがう」と悠人は言った。
よさぶろうはもう一度、その印を見た。指がそのまま右へ動き、男三の端のばつで止まる。目が上へ動いて、前後、の字を確かめた。
「それは何ぞ」
げんざえもんが言った。
よさぶろうは紙をそちらへ向け、二つのばつを指しながら何か答えた。
げんざえもんは紙を見て、一度うなずいた。
よさぶろうは筆を取り、悠人の書いた字の脇へ、自分の字を足していく。流れるような字だった。角ばった悠人の字と並ぶと、そこだけが別のものになっていた。
書き終わると、紙を持ち上げ、乾くのを待つように少しのあいだそのままにしてから、膝の脇へ置いた。
よさぶろうは新しい紙を一枚出した。
悠人の紙を見ながら、縦に線を引く。少し考えて、横にも一本引いた。
よさぶろうの目が、男二のばつへ行く。それから、男三のばつへ。
これ、使うのか。
悠人は自分の紙へ目を落とした。
四人の話を並べて、違ったところへ印を置いただけだった。
だが、よさぶろうの紙にも、同じ並びができ始めている。
丸とばつを置いたのは、自分だ。
もし、自分の見方が違っていたら。
このばつ一つで、あの二人がまた呼ばれたり、何かされるのか。
よさぶろうは悠人の紙を束へ挟んだ。
紙の端が見えなくなった。
いつもの部屋へ戻された。
戸が閉まってから、悠人は手を開いた。
指の腹が、黒い。縦の線が乾かないうちに、上から横の線を引いた。押さえていた指へ移ったのだろう。
擦ると、伸びた。伸びただけで、落ちなかった。




