第28話 乾いた隅
朝の椀が下げられたころ、よさぶろうが来た。
紙の束と、細長い箱。そこまではいつもと同じだった。
この何日か、字だけを見せられていたわけではない。よさぶろうが来るたびに、まず声から始まる。
言われた音を、そのまま返す。違えば、もう一度言われる。
申す。申さぬ。
知る。知らぬ。
ござる。ござらぬ。
同じ言葉の、終わりだけが変わる。その変わり目を、耳が拾えるようになってきた。
短いものから始まって、二つ三つをつないだ言い方も増えている。聞いたとおりなら、そのまま返せる。
ただ、自分で組み立てようとすると、途中で言葉が抜ける。
今日は、そのあとが違った。物を指さない。
墨を磨り終えると、よさぶろうは紙を一枚こちらへ向けて置き、その上へ字を書いた。速くはない。線を流さず、一画ずつ止めて置いていく。
水。
読みを待たずに、悠人は言った。
「みず」
よさぶろうの手が一度止まった。それから、次を書く。
田。
「た」
上。
「うえ」
石。
「いし」
四つとも、迷うような字ではなかった。石は、前に自分で書いている。
よさぶろうは筆を置いて、しばらく四つの字を見ていた。それから、水の字と上の字を順に指した。
悠人は二つの字を見た。
「水、上から来る」
よさぶろうが言った。
「水は、上より来る」
「水は、上より来る」
今度は言い直されなかった。
よさぶろうは少し間を置いた。それから自分の胸を指して、また筆を下ろした。
与三郎。
三つとも、知っている字だった。
「よさぶろう」
音と字が、やっと同じものになった。
悠人は字を指して、もう一度言ってみた。
「よさぶろう」
与三郎は頷きも直しもせず、その横へ続けて書いた。
源左衛門。
「げんざえもん」
あの男の名は、こう書くのか。
次に、与三郎がこちらを示した。
「名を書いてみよ」
筆が差し出された。
悠人は受け取って、自分の名を書いた。
高瀬悠人。
筆では、線を止めるたびに角が立った。与三郎の字と並べると、自分の四字だけ妙に固い。
与三郎は四つの字を見た。それから、少し間が空いた。
「……これが、名か」
悠人は字を順に指した。
「高瀬。悠人。たかせ、ゆうと」
「たかせ……ゆうと」
与三郎はもう一度、四つの字へ目を落とした。
「……悠然の悠に、人と書いて、ゆうと、か」
「うん」
「聞かぬ名だ」
自分の名前を、そんなふうに言われたことはなかった。
紙は束へ挟まれた。
束の下から、いつもの書付が出てくる。線が続いていて、どこで切れているのかも見当がつかない。
知っている字を探したが、一つも見つからなかった。
与三郎はすぐに引っ込めて、箱の蓋を閉じた。
「行くぞ」
「今日も、あの部屋か」
「そうだ」
「何のため」
返事が、一瞬遅れた。
「……何ゆえ、か」
「なにゆえ」
「言葉を覚えよとの仰せだ。人の話を聞け」
「俺も、話す?」
「問われぬうちは、答えるな」
廊下へ出てから、もう一つ聞いた。
「よにん、また来る?」
与三郎が少し振り向いた。
「よったり、か」
「よったり……?」
聞いたことのない音だった。
「よったり、とは?」
与三郎が足を止めた。指を四本立てる。
「先の者ども。よったり」
前の四人。
「……よったり」
四人が、よったり。
二人は、ふたり。
じゃあ、三人は。
さんたり、か。
いや。
よったり。よっつ。
三つは、みっつだから――
悠人は指を三本立てた。
「……みたり?」
与三郎がこちらを見た。
「さんにん」
「さんにん?」
「そうだ」
ひとり。ふたり。さんにん。よったり。
おいおい、なんで四だけ戻るんだよ。
「今日は、ふたりだ」
「前と、同じ田の話か」
「そうだ」
与三郎は先に立った。
板の間は前と同じだった。庭に面していて、日の入り方も変わらない。座れと指されたのも、与三郎の斜め後ろだった。
端に、人が二人。どちらも見た顔ではない。年上の方が膝を崩さずに座り、もう一人は少し下がったところで庭を見ていた。
源左衛門は、もう座っていた。
端の脇にいた者が、そちらへ向いて名を呼んだ。
前の四人が何度も出していた、二つの名。そのうちの、先に来る方だ。
あの田のことで、何度も出ていた二人のうちの一人。
紙の上では順番でしかなかったものが、立ち上がって前へ出てくる。
もう一人は、下役に連れられて庭へ出た。
「水は、いずれより入れる」
「道の方の口より、入れ申す」
「しるしは、いずれぞ」
「石でござる。動かしたことはござらぬ」
「先に水の回るは、いずれぞ」
「石の方の隅より、回り申す」
次の問いは、少し遅れて来た。
そのあとも、いくつか問われた。年のこと。田の名らしいもの。数を答えさせる問いが、離れたところで三度あった。改まった長い言い回しになると、やはり途中から追えなくなる。
それでも、水と石と隅は、はっきり残った。
――聞き違えているかもしれない。
悠人は口を開きかけて、閉じた。
問われぬうちは答えるな、と朝に言われたばかりだった。ここでは、まだ何も問われていない。
それでも、たしかめたかった。
「……ここから、水?」
指を、男の言った石の方へ向けた。
与三郎の筆が止まった。源左衛門がこちらを見る。
一拍あった。
「答えよ」
男は、悠人ではなく源左衛門の方を向いて答えた。
「上の田より、落ち申す」
上の田から、水が落ちてくる。
悠人は石の側を指した。
「上の田、石の方?」
男が答えた。
「さようでござる」
悠人は指を、口とは反対の隅へ移した。
「先に濡れる、ここ?」
「さようでござる」
与三郎の筆は、まだ動いていなかった。書いたところへ目を戻して、少し上までたどっている。
源左衛門がその手元を見た。それから、また男の方へ向き直る。それきり、悠人の方は見なかった。
膝の上で手を握ると、掌が湿っていた。
咎められはしなかった。
男が下がり、庭へ出されていた方が呼ばれた。
「上の田は、そちらか」
「さようでござる」
二人とも下げられたあと、与三郎が筆をこちらへ差し出した。
穂先を浸す。墨は、朝より濃かった。
悠人は、田のつもりで四角を一つ描いた。真っ直ぐにはならない。
上の田がある側へ、短い線を一本。水はそこから落ちてくる。
同じ側の辺に、石の印を置いた。
男が水を入れると言った口は、その反対――道の方になる。
最後に、水が先に来ると言われた隅へ、小さな丸をつけた。そこも石の側だった。
悠人は紙を見た。
水は上の田から来る。田へ入れる口は、その反対側にある。それなのに、水が先に来るのは、また石の側だ。
――みなくちの田。乾いた床へ水を入れた日。
水は低い方へ寄っていって、入れた口から一番遠い隅は、日が傾くころになってやっと濡れた。膝をついて掌を当てても、土は白いままだった。
あの田はそうだった。この田は見ていない。どの田でも同じだとは言えない。
それでも、聞いたまま置けば、合わない。
何か、まだ聞いていないことがあるのかもしれない。どれが違うのかまでは、出てこなかった。
「与三郎殿」
与三郎が振り向いた。悠人は紙を向けた。
指が線から口の印へ動き、口の印から隅の印へ移って、そこで止まる。
与三郎が顔を上げて、悠人を見た。それから紙の端を押さえ、源左衛門の方へ少し向ける。
源左衛門が身を寄せて、紙を見た。
「……おぬしも、そこか」
与三郎にではなく、こちらへ。
おぬしも。
源左衛門は紙へ目を落としたまま言った。
「申してみよ」
悠人は紙の線を、指でなぞった。
「水は、ここから来る」
それから口の印を押さえる。
「水を入れる。ここ」
最後に、隅の印。
「先に、ここ」
線から隅まで、指をまっすぐ引いてみせた。途中で、口の印を通らない。
「……ちがう」
そこで言葉が続かなくなった。悠人は板の間の隅へ掌を当て、離して、その掌を源左衛門の方へ向けた。
「遠い。乾く。ここは、遅い」
源左衛門の目が、紙の上を一度往復した。
何も言わなかった。
与三郎が、悠人の紙を自分の膝の脇へ引き寄せた。
そのまま自分の紙を後ろへめくり返す。途中で手が止まった。一つの箇所へ指を置いたまま、少し下の二つへ目が動く。
立って、源左衛門のところへ行き、膝をついて何か言った。
数のことらしい。悠人に分かるのは、そこまでだった。
「……もう一度、呼べ」
男がまた前へ出された。
「水は、いずれより入れる」
「……道の方の口より、入れ申す」
「先に水の回るは」
男は、少し置いてから答えた。
「……石の方の隅より、回り申す」
そのあと、源左衛門が数のことを二つ、続けて問うた。どちらの答えも、さっきより短かった。
庭で鳥が鳴いた。
「よい」
源左衛門はそれだけ言って、男を下がらせた。声は高くならなかった。
出ていくとき、男が一度だけ悠人を見た。
怒っているようにも、困っているようにも見えた。どちらとも決められないまま、男は戸の外へ出ていった。
決まらなかった。
与三郎は悠人の紙の脇へ、一行だけ書き足した。読めない。源左衛門がそれを受け取って畳み、戸口の方へ短く何か言った。
紙が、部屋の外へ出ていった。
役に立ったのだろうか。
役に立つと、また呼ばれる。呼ばれるあいだは、ここに置かれたままだ。
戻る渡りは日が当たっていて、板が足の裏に温かかった。来たときより短く感じるのは、曲がる場所を覚えたからかもしれない。
悠人は、前を歩く背中へ声をかけた。
「あの田、見に行くのか」
与三郎は少し歩いてから答えた。
「知らぬ」
部屋の前まで来たとき、渡りの向こうで人の話す声がした。
「……田を見てもおらぬに」
もう一つは、あてた、に近い音だった。
一人がこちらを一度見て、また向こうを向いた。
戸が閉まった。
言ったのは、水がどこから来るか、それだけだった。
田は見ていない。そこは、あの声の言うとおりだ。
何を当てたのかは、分からなかった。




