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第29話 二つ輪

朝の椀が下げられる前に、与三郎が来た。


この何日か、朝はまず声を出しての稽古から始まっていた。言われた音を返し、違えばもう一度言われる。そのあとで紙が出て、字を見せられる。


今日は、稽古は始まらなかった。


紙の束は布に巻かれていて、細長い箱の紐も締め直してある。持ち歩く形だった。


「あの田を、見に行く」


あの話、まだ続いていたのか。


紙が部屋の外へ出ていったのは、もう何日か前だ。それきり、誰も何も言わなかった。その後どうなったのかも聞いていない。


「おれも、行くのか」


「ならぬ」


短かった。考えたようにも見えなかった。


「なにゆえ、見に行く」


与三郎は箱の紐を確かめながら答えた。


「田を見よとの仰せだ」


仰せ。この部屋でも聞いた言い方だ。誰かが言った、ということらしい。


今川氏真。


浮かんだのはその名前だった。


「……おやかたさま?」


与三郎の手が止まった。


「違う。源左衛門様の仰せだ」


それだけ言って、束を抱え直す。


「戻るまで、待っておれ」


「いつ、戻る」


「日のあるうちに」


何をしていろとは、言われなかった。


戸が閉まった。廊下を行く足音が、渡りの向こうで消えた。


朝の板は冷たかった。足の裏の冷たさが、前より長く残った。


椀が下げられた。それきり、誰も来なかった。


紙もない。墨もない。今日は、何もない。


柱の影が、板の目を一つ越えた。時を知らせるものが何もないので、動いているのはそれだけだった。


村にいたころは、朝から日が落ちるまで、何かしらやることがあった。田へ出るか、水を見に行くか、薪を運ぶか。ここでは、呼ばれるまで何もない。


呼ばれなければ、何も始まらない。


こういう時間ができると、いろいろと考え込んでしまう。ここに来たばかりの頃もそうだった。


もう元の時代には帰れないのではないか、このままここで生きていくのか、生きていけるのか、それとももう生きてさえいないのか、そもそもなぜ自分はここにいるのか。自分の置かれてる状況を考えれば考えるほど悲観的になる。そして、答えのないことを考えても意味がない、と自分に言い聞かせて心を落ち着かせるまでがセットだ。


外の音は、いつもどおりだった。朝のうちに板を踏む音が同じ順で通る。少ししてから桶の音。何かを割る音が続けて三度。遠くで馬。毎日聞いているのに、どれがどこで鳴っているのかは知らなかった。


影が、また一つ板の目を越えた。


悠人は立った。


廊下へ出ても、誰もいなかった。


いつも曲がるところを、曲がらずに行ってみる。


いつも呼ばれる部屋の前を通った。戸が開いていて、中には誰もいない。人がいないと、思っていたより狭い部屋だった。


角の先に段があって、下りたところに土間が見えた。煙の匂いがする。


女が二人、大きな鍋の前にいた。片方が顔を上げて、こちらを見た。目が合った。


年かさの方が何か言うと、若い方が手を止めて、鍋の前を空けた。


何と言ったのかまでは聞き取れなかった。それでも、指図するのがどちらで、従うのがどちらかは見れば分かる。


この屋敷の中にも、そういう順番がある。そのどこにも、自分は入っていない。


外の明るいところで、男が桶を担いでいく。井戸の縁が濡れていた。


朝に聞こえるのは、この音か。


その向こうに馬が一頭つながれていて、尾を振っていた。人が近づくと耳を動かし、離れるとまた動かなくなる。


奥の方で、何かを割る音が続けて三度した。薪を割っているのだと、初めて分かった。


もう一つ、渡りがあった。その手前まで来たとき、柱の陰から男が出てきた。中年の、袴の男だった。


「そちらは、ならぬ」


触れられはしなかったが、道の真ん中に立たれた。


渡りの向こうから、何人かの声がした。この屋敷で聞いてきた声とは、調子が違う。


悠人は二歩下がった。男は追ってこなかった。ただ、渡りの前からは動かなかった。


戻る道で、足が止まった。


聞くなら、今しかない。与三郎がいない日でなければ、こんなふうに歩くこともなかった。


みなくちを出る朝、自転車が軒下から出されて、縄で括られていた。宿の土間で、一度だけ「ふたつ輪」という音を聞いた。それきりだ。財布も、鍵も、スマートフォンも、どこにあるのかは知らない。


戻ったところで、帰れるわけではない。それでも、あれは自分の物だった。


土間の隅で、女が布を畳んでいた。悠人はそちらへ行って、膝を折った。


「おれの、もの」


女の手が止まる。


「みなくちから、来た。おれの、もの」


通じない。言葉が足りないというより、何を指しているのかが伝わっていない。


村では、物を指せば済んだ。ここには、指すものがない。


悠人は土間の土へ指を下ろした。


丸を一つ。少し離して、もう一つ。二つのあいだに線を引いて、上へ短い棒を足した。


女が覗き込んだ。それから顔を上げて、後ろにいた若い男へ何か言った。速い。ほとんど分からない。


分からないなかに、知っている音が一つあった。


「ふたつ輪」


宿の土間で聞いたのと、同じ音だった。


絵が下手だったわけじゃなかったらしい。


自分より先に、その音がここまで来ている。


若い男が土間を出ていって、少ししてから、さっきの袴の男が戻ってきた。


「何を探しておる」


「おれの、もの」


男は土の上の丸を一度見た。それから言った。


「あずかっておる」


預かる。


分かる言葉だった。分かるだけに、そこで止まった。


なら、いつか返すということなのか。そこまでは分からなかった。


いつ、とも言われなかった。どこに、とも言われなかった。


村を出るとき、布の包みはやへえの家にあった。寺へ移るときに、寺の者が受け取った。それから荷と一緒に運ばれて、たぶんここまで来ている。


移った先で、そのたびに誰かが預かった。


「見たい」


言ってみた。


男は答えなかった。答える代わりに、来た道の方へ手を向けた。


土間を出るとき、土の上の丸は、もう誰かの足で消えかけていた。


部屋まで戻るあいだ、男は一度も振り返らなかったが、足は悠人の後ろにあった。


戸口で、男が別の者へ短く何か言った。相手が頷いて、どこかへ行った。


歩いた。それだけのことが、たぶん今、誰かへ伝えられている。


部屋へ戻されてからが、長かった。


叱られるようなことをしたのかどうかも、分からない。ならぬと言われた先へは、行っていない。行く前に止められた。


それでも、待つあいだに何度か、戸の方を見た。


日が高くなってから、廊下に足音がした。与三郎の足音ではなかった。


戸が開いて、さっきの袴の男が立っていた。


「来い」


それだけだった。


廊下を、今日歩いたのとは反対の方へ行く。段を一つ下りて、暗い板の間を抜けると、先に外の光が見えた。


草履が出されていた。履けということらしい。


出たところは庭だった。土が広く取ってあって、木は端の方にしかない。日の当たるところはまだ暖かく、木の陰へ入ると、ひやりとした。


その真ん中に、自転車があった。


男が一人、両手でハンドルの端を持って、まっすぐ立てている。


少し離れて、三人。そのうちの一人は若く、板に紙を載せて筆を持っていた。


縁側に、源左衛門が座っていた。


今朝、与三郎を田へやったのは、この人だ。


土の上に、細い筋が何本も残っていた。どれも短い。まっすぐなものは一本もなく、途中で曲がって、そこで切れている。


前の輪の脇に、しゃがんだ跡があった。


泥は落とされていた。村で付いた土も、鎖のあたりの土も、もうない。かわりに、握るところが少し黒くなっている。


押した者がいる。輪を回した者も、ペダルを回した者もいる。


たぶん、乗ろうともした。


そりゃ、乗ってみるよな。


けれど、あの筋はどれも短い。自分で走らせるところまでは、いかなかったらしい。


悠人は自転車を見た。


見慣れたものだった。見慣れているはずなのに、ここにあるとひどくおかしい。


木と土と縄の中で、自転車だけが浮いて見えた。


源左衛門が口を開いた。


「これに、乗れるか」


「乗れる」


一度で答えていた。


「乗ってみよ」


支えていた男が、こちらへ向きを変えた。悠人はサドルへ手を掛けた。


またがると、前の輪が少し柔らかいのが分かった。空気が抜けている。入れるものは、ここにはない。


ペダルへ足を掛ける。鎖が一度、硬い音を立てた。


支えていた手が離れた。


踏んだ。


最初の一漕ぎで、体が左へ振れた。足を出しかけて、やめる。二漕ぎ目で、まっすぐになった。


土は乾いていて、思ったより固い。小石を踏むたびに、細かい音が手のひらまで上がってくる。


風が来た。


顔の前の空気が動いている。こんな速さで風を受けるのは、村の道を走った日以来だった。


庭の端が近づく。踏むのをやめて、少しだけ体を倒した。輪が向きを変え、後ろで土の擦れる音がした。


曲がりたい方へ、曲がった。


木の陰が横へ流れ、日向へ出て、また陰へ入る。


もう一度踏む。速くなった。自分で速くした。


まっすぐ行けるのは、塀までだった。


戻って、足を下ろす。


誰も声を出さなかったが、不思議なものを見たような、それでいて感心しているような表情をしていた。


支えていた男が半歩下がって、それから、また同じところへ立った。


若い男の筆が止まっていた。少ししてから、また動いた。


三人の目が、輪と、悠人の足と、手の位置を順に見ている。見終わると、また輪へ戻る。


源左衛門は座ったままだった。


「なにゆえ、倒れぬ」


「走る。倒れない」


言い直した。


「走ると、倒れにくい。止まると、倒れる」


源左衛門は少し黙ってから、次を言った。


「なにゆえ、走れば倒れぬ」


口を開いて、そのまま閉じた。


考えたことがなかった。乗れるようになったのは小学生のころで、それからは毎日乗っていた。倒れないのが当たり前で、なぜかと聞かれたことは一度もない。


倒れそうになれば、ハンドルを切る。いや、切っているつもりすらない。勝手に手がやっている。それで何度も戻しているから、倒れない。たぶん。


悠人はハンドルへ手を掛けた。


「倒れそうになると、手が動く」


自転車を、少し左へ傾ける。


「こっちへ倒れる」


前の輪を、同じ方へ向けてみせた。


「輪も、こっちへ向ける。それで、戻る」


源左衛門が、前の輪を見た。


「己で動かしておるのか」


「……たぶん。考えてない」


「考えずに、動かすか」


「はあ」


言ってから、頷いてみせた。


源左衛門の目が、前の輪から悠人の手元へ移る。


「なれど、なにゆえ走れば倒れぬ」


手が動くのは分かる。速い方が楽なのも知っている。ただ、それがなぜなのかは、出てこない。


「……分からない」


若い男の筆が動いた。


分からない、と答えたところで、紙に何か書かれている。


「同じものを、作れるか」


「作れない」


これは、すぐに答えられた。


源左衛門は、それ以上は聞かなかった。


「よい」


男が二人がかりで自転車を受け取った。一人がハンドルを持ち、もう一人が後ろへ回る。押していく先は、来た方ではなかった。


悠人は手を離しただけだった。渡した、という形にすらならない。


車輪の音が、庭の端の建物の陰で聞こえなくなった。


若い男は、まだ土を見ていた。短い筋の横に、長い筋が続いている。曲がったところだけ、筋は二つに分かれて、また合わさっていた。


消しはしなかった。


袴の男が、来た道を指した。


部屋へ戻ると、板が冷たかった。


手のひらに、鉄の匂いが残っていた。


見たい、と言ったからか。


そう思ってから、やめた。今日でなくてもよかったはずだ。今日だったのなら、それは悠人の都合ではない。


日が傾いてから、渡りの向こうで足音がした。


戸が開いて、与三郎が入ってきた。袴の裾に乾いた土がついている。束を置く手が、朝より重そうだった。


「田のこと、どうなった」


与三郎が顔を上げた。少し間があった。


「水の口が、二つあった」


「……二つ?」


「紙にある口のほかに、もう一つあった」


紙は間違っていなかった。足りなかっただけだ。


「二つとも、口か」


「土地の者は、別の名で申す」


それ以上は言わなかった。


「誰の田だ」


「まだ決まらぬ」


与三郎は、しばらく何も言わなかった。それから言った。


「今日、歩いたと聞いた」


もう伝わっている。


「……歩いた」


叱られるかと思った。与三郎は叱らなかった。


「行ってよいところと、ならぬところがある」


指が、廊下の先へ向いた。


「あの段までだ。その先はならぬ」


段まで。今日歩いたところは、そのうちに入っていた。入っていなかったのは、止められたところだけだ。


「おれの、もの」


与三郎の目が上がった。


「あずかっておる、と言われた」


「そう聞いておる」


「今日、見た。乗った」


与三郎の手が止まった。


「あれに、まことに乗れるのか」


「乗れる」


「倒れぬのか」


「走ると、倒れにくい。止まると、倒れる」


与三郎は、そのまま少し黙っていた。


「……分からぬ」


「おれも、分からない」


与三郎がこちらを見た。口の端が少し動いて、それだけだった。


「いつ、返る」


「知らぬ」


それから、付け足した。


「決める者は、ほかにおる」


まあ、そうだろうな、と思うしかなかった。


外が暗くなって、雨戸の向こうで虫が鳴きはじめた。


雨戸の隙間から入る風が、足首に冷たい。悠人は夜具の中へ足を引き入れた。


手のひらの匂いは、もう消えていた。


明日は、また声の稽古から始まるだろう。


あの二つの輪は、今日たしかに目の前にあって、乗って、それから持っていかれた。


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