第30話 同じではない
朝は、今日も声から始まった。
「申す」
「申す」
「ならぬ方」
「申さぬ」
「参る」
「参る」
「ならぬ方」
「参らぬ」
言われた音を返す。違えば、その場でもう一度言わされる。次へは行かせてもらえない。
「触れるな」
「触れるな」
そこで、与三郎が筆の先を紙から離した。
「次は、問うたことに答えよ」
「……はあ」
「駿府へ参ってから、何をした」
答えを探すあいだに、もう一度同じ問いが来ると思った。来なかった。待っている。
一つでいいのか、それとも全部か。分からないまま、頭の中で順に並べた。
「おやかたさまに、会った。田の話を、聞いた。紙に書いた。ふたつ輪にも、乗った」
「待て」
「会った、ではない」
言われて、前にも同じところを直されたのを思い出した。少し探すと、出てきた。
「……お目にかかった?」
「初めから」
「おやかたさまに、お目にかかった」
「さよう」
「一つずつ申せ」
「……田の話を、聞いた」
「誰から聞いた」
「田の人から」
「田の者、だ」
「田の者から、聞いた」
「次は」
「紙に書いた。線を引いた。石のあるところと、水の口」
「その次は」
「ふたつ輪に、乗った。庭で」
「それより前は」
「部屋にいた。歩いた」
「どこを歩いた」
「屋敷の中」
「誰に止められた」
「知らない男」
「知らぬ男、だ」
「知らぬ男」
与三郎は頷かない。すぐ次が来る。
「何ゆえ止められた」
「……分からない。そちらは、ならぬと言われた」
「駿府へ来る前は、どこにおった」
「みなくち」
与三郎の筆が、一度だけ止まった。それだけで、次の問いへ移る。
「その前は」
「善得寺」
「善得寺より、みなくちへ戻ったのか」
「戻った」
「どれほどおった」
「……分からない」
「日を数えておらぬのか」
「数えてない」
「数えておらぬ、だ」
「数えておらぬ」
問いは止まらなかった。答えるたびに、どこかを短く直される。直されたところは、その場でもう一度言わされる。
いくつ答えたのかは、途中で分からなくなった。二十を越えたあたりで、数えるのをやめている。
与三郎は問うのをやめ、白い紙を引き寄せた。
この何日かで、字の稽古も少しずつ入るようになっていた。話し言葉の合間に、二つか三つ。与三郎が書き、悠人が読んで、書けるものは書く。
知っている字でも、与三郎の筆になると、一度では読めないことがある。二度目でようやく形の合う字もあった。
難しいのは、字そのものではなかった。人の名と、知らない土地の名だ。
与三郎と源左衛門の字は、前に覚えた。それ以外の名は、紙の上に並んでいても、どれがどの音なのか分からない。
今日、最初に出されたのは二字だった。
駿府。
「読めるか」
「すんぷ」
「書いてみよ」
筆が差し出された。悠人は受け取って、同じ二字を並べてみた。
下の字はいい。上の字は、どこかが足りない気がしたまま書き終えた。
与三郎はそれを見たが、直しはしなかった。束の下から、別の紙を引き出す。
見た覚えのない紙だった。細かい字が並んでいて、そのうちの一箇所へ指を置く。
「おぬしの申す、みなくちは、これか」
指の先に、二字あった。
水口。
水と、口。どちらも知っている字だった。
それが「みなくち」だとは思わなかった。
「……みなくち?」
「さよう」
それだけだった。与三郎は、その紙を元のところへ戻した。
みなくちにも、字があった。
筆は、まだ悠人の手にある。返そうとして、思いついた。
白い紙の隅へ、三字書いた。
自転車。
線を止めるたびに角が立つ。それでも、書けた。
「これは何ぞ」
「じてんしゃ」
与三郎の目が、三つ目の字で止まった。
「ふたつ輪のこと」
「あれを、そう申すのか」
「おれのところでは」
与三郎はもう一度その三字を見てから、言った。
「ふたつ輪の方が、分かる」
そのとおりだと思った。
与三郎は筆を受け取ると、稽古に使った紙を重ねた。
「声と字は、ここまでだ」
脇に置いてあった厚い束を持ち上げる。
「次は、あの田のことだ」
「まだ、やるのか」
「まだ決まっておらぬ」
与三郎が立った。
「来い」
朝の板は、この何日かで少し冷たくなった。昼にはまた暖かくなる。冷えるのは、朝のうちだけだ。
廊下へ出ると、突き当たりだけが白んでいた。日の入る場所は、初めのころより少し動いている。
通されたのは、いつも呼ばれる部屋の隣だった。庭に面した側が開けてあって、光が板の間の半分まで入っている。
与三郎は光の当たるところへ座り、束の紐を解いた。
中は一枚ではなかった。順に、少しずつ間を空けて並べていく。
大きさが違う。折り目の数も違う。端が茶色くなっているものもあれば、まだ白いものもあった。
「これは何」
「先日の田のことを書いた紙だ」
「焼けた紙?」
「あれとは別だ。同じ田のことを書いたものを、日をかけて集めた」
焼けたものは戻らない。だから、同じ田について書かれた紙を集めて、突き合わせている。そういうことらしい。
「読めぬな」
「読めない」
「なれば、聞け」
悠人は端に座った。
与三郎は一枚目を取り上げて、読み上げ始めた。
こちらへ向けた声ではない。ただ、聞こえるようには読んでいる。
田の名らしい音。二つの名。数が二度。そこまでは取れた。
そのあとに続いた長い言い回しは、どこで切れているのかも分からなかった。改まった言い方になると、いつもそうなる。
「今の音、前にも出た」
「田の名だ」
読み終わると、与三郎はその紙を自分の右へ置いた。端を揃えて、指で押さえる。
意味は取れない。それでも、同じ音が何度出たかなら数えられる。
一つ目の名が三度。二つ目の名は、終わりの方で一度きりだった。
「一つ目の名、三度。二つ目は、一度」
与三郎の手が止まった。
「数えておるのか」
「うん」
与三郎は何も言わなかった。
次の紙を取った。
また、田の名。同じ二つの名。数の言い方まで、さっきとほとんど同じだった。
「今の、さっきと同じ」
与三郎が紙から目を上げた。
「同じではない」
「何が」
与三郎は、紙の終わりの方を指した。
「ここは、書いた者の名だ」
「違う人?」
「さよう」
字は読めない。ただ、指されたあたりに何か据えてあって、さっきの紙とは置かれた場所が違った。名らしい並びの下にあるか、その横にあるか。
「どっちが、本当」
「そういうことではない」
それ以上は言われなかった。
与三郎は、その紙を左へ置いた。滑らせるような手つきだった。
悠人は右を指した。
「こっちは」
「見る」
左を指す。
「こっちは」
「今は置く」
見る紙と、今は見ない紙。それで分けているようだった。
何を基準に分けているのだろうか。
写しと、元の紙で分けているのか、と考えた。
三枚目と四枚目は、大きさが同じだった。折り目も同じところに入っている。並べて置かれると、二枚とも同じ紙に見えた。
与三郎は両方を読み上げた。声の速さも、区切るところも、ほとんど変わらなかった。
それから、片方を右へ、もう片方を左へ置いた。
同じ形なのに。
写しと元の紙で分けているわけではないようだ。
……間違い探しかよ。
そう思ってから、これが誰かの田の話だったことを思い出した。
何が違うんだ。
悠人は紙の方を見た。
字ではなく、紙そのものを。
大きさ。折り目の数。書き出しがどこから始まっているか。上にどれだけ空きがあるか。終わりの方に据えてあるもの。書いた者の名が、どこに置かれているか。
右と左は、離して置いてある。近づけて突き合わせれば、どこが違うか見えるかもしれない。
手が出た。
「待て」
短い。声は高くならなかった。
悠人の指は、紙の端の手前で止まった。
与三郎は、悠人の手と紙を順に見た。それから、何か言いかけて、やめた。
白い紙を一枚、こちらへ寄越す。筆と硯も、少し押してきた。
「触れるな。そちらへ写せ」
紙は動かせない。なら、同じ向きに揃えて写して、こちらの紙の上で並べればいい。
悠人は筆を取った。墨は薄かった。
一枚目の形を、四角で描いた。折り目のところに、線を一本。終わりの方の印に、丸。書いた者の名があるところへ、短い棒を一本。
書かれている字は写さない。読めない字を形だけ真似ても、何を書いたのか自分には分からない。
要るのは、どこに何があるか、だ。
二枚目。四角。線は二本。丸の位置が違う。棒は、丸より上にあった。
三枚目と四枚目。四角も線も同じになった。丸も同じところへ来た。棒の位置まで、変わらない。
それでも、片方は右にある。
紙の上では、その二つだけが並んで残った。
「何をしておる」
「同じところと、違うところが分かるように、書いている」
与三郎の目が、一度だけこちらへ来た。
「ほう。続けよ」
外で、桶を置く音がした。それから、誰かが板を踏んで通っていく。
与三郎は、悠人の手元を見ていない。筆はもう次の紙にかかっている。
右の紙の中に、ほかより古いものが一枚あった。折り目のところが薄くなって、切れかけている。
読み上げのとき、聞き覚えのある音が二つ混じった。
石。口。
悠人は膝の脇から、自分の紙を引き出した。前に引いた田の図だ。四角と、線と、小さな丸。
「この石は、田にもあったのか」
与三郎は図へ目を落とし、それから紙の方へ戻した。
「あった」
「水の口は、二つあったのか」
「二つあったと申したであろう」
そうだった。悠人は口の印の横へ、もう一つ丸を足した。
丸は二つになった。図の方だけだ。この古い紙に何と書いてあるのかは、分からない。
昼ごろ、水を持った者が一度来た。与三郎は飲むあいだも紙を離さなかった。
日が動いて、板の上の白いところが少しずつ縁の方へ寄っていく。
与三郎が、右の紙から数枚を抜いて立った。
「しばし待て」
戸が閉まる。
紙だけが残った。
読めない。さっき読み上げられたことが、この紙に書いてあるのかどうかも、確かめようがない。
そう思って、そこで止めた。確かめる手がない、というだけのことだ。
庭で鳥が鳴いた。どこかで枝が鳴って、また静かになる。
悠人は座ったまま、右と左を目で追った。
どちらがどちらか、置き場所を見なければ分からない紙が、二枚ある。
柱の影が、板の目を一つ越えた。
与三郎が戻ってきて、また読み始めた。次の紙は短かった。読み上げも短い。
そのうちに、戸の外で足音が止まった。
抑えた声が、二言ほど。
戸越しで、音までは拾えなかった。
与三郎は筆を置いて立った。戸を少し開けて、体を半分だけ外へ出す。
短いやり取りだった。与三郎が二度、何か言った。それだけで、足音は遠ざかっていった。
戸が閉まる。
与三郎は何も持たずに戻ってきた。座り直すと、左に置いてあった紙を一枚取り上げて、右へ移した。
端を揃えて、指で押さえる。
さっき、今は置くと言われた紙だった。
悠人は戸の方を見た。
「今の人から、何も受け取ってないよな」
「さよう」
「それで、その紙は見ることになったのか」
「さよう」
何かを渡されたわけではない。話をしただけで、左にあった紙が右へ移った。
紙に書いてあるものだけで分けているわけでもないらしい。
「今の人は、誰だ」
与三郎は右の端を揃え直してから、答えた。
「奥の方だ」
それだけだった。
「おく」と言われても、どこのことか分からない。もう一度聞いても、たぶん同じ答えが返る。
与三郎が、悠人の紙を引き寄せた。
四角。線。丸。棒。
「これは」
「紙の形と、折り目と、印と、名前の場所。見比べられるように書いた」
与三郎はしばらく見ていた。
それから筆を取って、悠人の四角の脇へ何か書き足した。短い。二つか三つの字だ。
読めない。前に読めた形は、一つも見つからなかった。
書き終わると、与三郎はその紙を右の上へ置いた。
それから、まだ読んでいない紙の山を、少し悠人の方へ寄せた。
「残りも、そのようにいたせ」
「全部か」
「さよう」
「読まなくて、いいのか」
「読むのは、こちらだ」
悠人は次の紙に向き直った。四角を一つ描いて、折り目のところで線を止める。
次も、その次も、同じようにした。丸のないものが二枚あった。棒が二本あるものが一枚。折り目が三つ入っているものが、一枚だけ出てきた。
「これは、折り目が多い」
「さようだ」
それだけで、与三郎はまた自分の紙へ戻った。多い方がどうなのかは、言われなかった。
墨が減って、線が掠れ始めた。悠人は水を足さずに、そのまま最後まで引いた。
日が傾く前に、右の紙が重ねられた。左の紙も、混ぜずに別に重ねられた。
与三郎は二つをそれぞれ縛った。
「明日も、やるのか」
「まだ見るものがあればな」
与三郎は二つの束を抱えて立った。戸口で一度止まったが、何も言わずに出ていった。
板の上には、悠人の紙だけが残った。
四角と、線と、丸と、短い棒だけだった。




