第31話 そこにいる者
朝の稽古は、すぐに終わった。
「起きたのは、いつだ」
「鳥が鳴く前」
「暗いうちに、だ」
「暗いうちに、起きた」
「起きて、何をした」
「顔を洗った。それから、待った」
「誰を待った」
「呼びに来る人」
与三郎は筆を置いた。
「声は、そこまででよい」
「今日は、何をする」
「先日の続きだ」
廊下の板は、この前より冷たかった。素足の裏に、しばらく残る。
突き当たりの明るいところが、また少し狭くなっていた。
通されたのは、この前と同じ部屋だった。
庭に面した側が開けてある。板の間の半分に光が入っていて、そこに紙が並べてあった。右と左に分けてあるのも、この前と変わらない。
与三郎は座ると、脇に置いた束の紐を解いた。
「その後に集まった分も、同じようにいたせ」
新しく出された紙は、この前より少なかった。そのかわり、端の白いものが混じっている。折り目のついていないものもあった。
悠人は白い紙を引き寄せた。墨を磨って、薄いところで止めた。
字は写さない。読めないからだ。写すのは紙そのものの形と、何がどこにあるか。
四角を一つ。折り目のところに線を一本。終わりの方へ丸。名前があるところへ、短い棒。
考えるより先に、手が動いた。
一枚目は丸がなかった。二枚目は折り目が三つある。棒の位置も、それぞれ違う。
写している間に、与三郎の読み上げが二枚分進んだ。
三枚目を写し終えたところで、与三郎が言った。
「次は、これではない」
「まだ、あるけど」
「次は、人だ」
「人?」
与三郎は、並べた紙を指した。
「この田について、紙に名のある家を分けて書け。いま田におる者も、その横へ置け」
「いま田にいる人は、おれには分からない」
「こちらで申す」
紙に名前が残っている家と、実際にいま田にいる人間を、照らし合わせるらしい。
悠人は新しい紙を一枚、手前へ出した。
与三郎は一枚目を取り上げて、読み始めた。
こちらへ向けた声ではない。読み上げというより、目で追ったものを口が追いかけているような速さだった。
それでも、名と数だけなら拾える。
一枚目に、家の名が一つ。二枚目にも、同じ名が書かれていた。三枚目も同じだった。
四枚目で、別の家の名が来た。そのあとは、また元の名に戻る。
読み上げが進んでも、名は二つきりだった。三つ目の家の名は、どの紙にも書かれていない。
片方は、田の名のすぐあとに書かれている。もう片方は、納めた、と読まれたところに書かれている。
同じ田についての紙なのに、別々の家の名が残っていた。どちらの家の田なのかまでは、悠人には分からない。
「この二つは、同じ家か」
「別だ」
悠人は、読み上げていた紙を覗き込んだ。名らしいところは、線が続いていて切れ目が見えない。どこまでが一つの字なのかも分からなかった。
「この二つの名、崩さずに書いてくれないか」
与三郎の手が止まった。
「読めるようにか」
「一画ずつ、分かるように」
与三郎は白い紙を一枚取ると、二つ並べて書いた。書くのは遅かった。筆を上げるところが、いちいち見える。
悠人は、書かれた二つを順に見た。
読めた。どちらも、知っている字でできている。
元の紙の同じところへ目を戻すと、やはり読めない。同じ名のはずだった。
字を知らないのではない。あの書き方が読めないだけだ。
悠人は自分の紙へ、田、と書いた。その下へ、教わった二つの名を書き写す。
田の名のすぐあとに書かれていた方を、上に。納めた、と読まれたところの方を、その下に。
筆で書くと角が立つ。それでも、どちらがどちらかは、もう取り違えない。
「いま田にいるのは、どっち?」
「納めた方だ」
「もう一方は」
「あの田にはおらぬ」
悠人は、上の名の下へ、いない、と書いた。下の名の下へ、いる、と書く。
「何人?」
「家の者が、七人」
「ほかは」
「そこで働いておる者が、四人。……五人かもしれぬ」
「どっちだ」
「見たときは、四人おった。もう一人は、隣の者かもしれぬ」
「見たときって」
「田へ行った日だ」
そうだった。悠人は行っていない。
いる、と書いた方の横へ、丸を七つ並べた。丸の下に、家、と足す。
その下へ、また丸を四つ。四つ目の先へ、薄くもう一つ引いた。
紙に名前が書かれている家は、二つ。いま田にいるのは、そのうちの一方の家の七人と、その家の者ではない四人か五人。
「そこで働いている人の名は」
与三郎は、並べた紙へ目を落とした。それから答えた。
「ない」
「どの紙にも?」
「ない」
悠人の手が止まった。
丸は四つ並んでいる。その下に、書く名前がない。
「どっちの家の田か決まったら、いまいる人はどうなる」
「決まってからのことだ」
「決まってからでは、遅くないか」
与三郎は答えなかった。次の紙を取り上げて、また読み始める。
悠人も、それ以上は言わなかった。
板の上の白いところが、少しずつ縁の方へ寄っていった。
庭で鳥が二度鳴いて、それきり静かになる。
そのうちに、足音がした。
戸の前では止まらず、縁を回っていく。
外から、若い男の声がした。
「与三郎殿」
与三郎は筆を置いて出ていった。
悠人は残された。
紙は動かせない。触れるな、と言われている。
悠人は筆を置いた。それから、まだ読まれていない紙の数を数えた。八枚あった。
外の声は、遠くて届かない。与三郎の声も混じっていない。
戻ってきた与三郎の後ろに、もう一人いた。
若い女だった。
屋敷へ来てから、こんなふうに身なりの整った女を見るのは初めてだ。
土間で鍋の前にいた女たちとは、どこか違う。衣に汚れが見えない。髪も、乱れたところがない。
与三郎は元の場所へ座った。女は敷居の手前まで来ると、迷う様子もなく膝をついた。そこから中へは入ってこない。
板の間のこちら側には、日が入っている。女のいるところは、その光の外だった。
女は、悠人を見なかった。用があるのは与三郎の方で、こちらは初めからいないことになっているようだった。
女が口を開いた。話し方は、屋敷でこれまで聞いた誰よりも改まっていた。
「先だってのお尋ねの儀、奥にてお調べのうえ、お返しを申し上げるようにと申しつかってござる」
そこまでは、だいたい意味が取れた。
だが、そのあとに続いた話は、もうよく分からない。
おくに。あの田の。上がった年。
拾えたのは、その三つくらいだった。
同じ言葉のはずなのに、話し方が変わるだけで、聞き取れる量がまるで違った。
与三郎が短く受けた。
「承ってござる」
それから、こちらへ顔を向けた。
「あの田の家から、奥へ上がった者があるそうだ」
奥へ上がった、でようやく引っかかった。
大奥の「奥」なら知っている。表とは別に、家の女たちと、その世話をする者がいるところだ。ここでも、そういう場所らしい。
前に聞いた「おくの方」も、これだったのか。
あの田の家の者が、いまはそこにいる。分かったのは、それだけだった。
用件は、それで終わりらしかった。女が膝を引いて、立とうとした。
悠人は、敷居の向こうへ声をかけた。
「その人に、直接聞けないのか」
自分の声が、思ったより大きく出た。
女は一拍、黙った。
そこで初めて、悠人の方を見た。
「なりませぬ」
「なにゆえ」
「奥にある者のことを、外より尋ねることは、できませぬ」
それだけだった。声は高くならなかった。
女は膝の前で一度手をついて、立った。
足音が縁を戻っていく。
敷居の向こうには、光の入らない板がそのまま残った。
悠人は座り直した。何を言われたのか、まだ半分も分かっていない。
「今のは」
「奥の方だ」
「前も、それだったよな。何が分かったんだ」
与三郎は右の紙の中から、一枚を抜いた。
「あの田の家から奥へ上がった者がある。弘治三年に上がったと、奥の書付にあった」
こうじ。
聞いたことのない年号だった。
田の書付が焼けても、奥には別の記録が残っていたらしい。
与三郎は硯を引き寄せると、その紙の余白へ短く書き足した。
読めない。前に読めた形は、一つも見つからなかった。
「何て書いた」
「弘治三年に、あの家から奥へ上がった者がある、とした」
「それで、この紙は右のまま?」
「さよう」
「これだけで決まるのか」
「決まらぬ」
悠人は、朝から書いていた紙を、もう一度手前へ引いた。
話を整理すると、こういうことだ。
この田には、二つの家が関わっている。
一つは、古い紙で田の名と一緒に書かれている家。紙だけを見れば、この田と強く結びついているのはこっちだ。だが、その家の者はいま田にいない。
もう一つは、納めた者として名前が残っている家。実際にいま田を耕しているのも、こっちだった。その家の者が七人。
それとは別に、そこで働いている者が四人。もう一人いるかもしれない。
つまり、確かにいるのは十一人。もう一人は、隣の者かもしれない。
けれど、田の名と一緒に書かれているのは、いま誰もいない方の家だ。
その家の田だと決まったら、少なくともこの十一人はどうなる。
そこまで考えたところで、与三郎の目が悠人の紙に止まった。
「何を並べておる」
悠人は、田の名と一緒に書かれている方を指した。
「こっちに決まったら、あの田にいられなくなるかもしれない人」
与三郎は何も言わなかった。止めもしなかった。
「この四人は、いま田を耕している家の者じゃないんだよな」
「家の者ではない」
「じゃあ、どこの人なんだ」
与三郎の手が止まった。
「そこまでは知らぬ」
「紙にも、ない?」
「ない」
つまり、この四人は、七人の家の者ではない。けれど、もう一方の家の者だとも聞いていない。
どこの家の者なのか、どこから来たのかも分からない。分かるのは、いまあの田で働いているということだけだ。
悠人は、四つの丸から、二つの家の名のどちらへも線を引かなかった。
紙の下の方に、少しだけ場所が空いた。
そこへ、いま、と書いて、その下へ丸を並べ直した。七つと、四つと、薄い一つ。
与三郎は、しばらくその紙を見ていた。
「もう一枚。見よいように書け」
悠人は新しい紙を出した。
いま田にいる人数を先に置いて、その下へ二つの家の名を書いた。二つの名も、自分で書いた。線は減らして、見れば分かる形にした。
与三郎が、その脇へ短く何か書き足した。
最初に書いた方は、板の上に残った。
日が縁の方へ寄ったころ、戸が開いた。
源左衛門だった。
与三郎が束を差し出す。源左衛門は受け取って、上から順に見ていった。悠人の紙のところで、手が止まった。
抜き出して、目の高さまで上げた。
「これは、誰の指図か」
「こやつが並べてござる。名の字は、こちらで教えてござる」
源左衛門は、もう一度その紙を見た。
丸の並んでいるあたりで、指が止まっている。
「これは、何を数えた」
「田に、いま、いる人」
源左衛門は、それには何も返さなかった。
それから、束へ戻した。
畳んで脇へ抱えると、何も言わずに出ていった。
戸が閉まる。
紙を抱えた足音が、廊下を遠ざかっていく。あの束がどこへ行くのかは、聞いていない。
与三郎も硯を片づけて立った。戸口で一度止まって、言った。
「筆は、洗っておけ」
「うん」
部屋に一人になった。
板の上には、最初に書いた方の紙が残っている。線が交わって、書き足しで汚れていた。
四つの丸の先に引いた薄い一本は、乾いてさらに薄くなっていた。近くで見ないと分からない。
外は、もう日が傾いている。
紙には、二つの家の名があった。
田には、少なくとも十一人いる。
そこで働く四人の名は、どの紙にもなかった。
もう一人も、そうかもしれない。




