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第32話 四つの丸

束は、もう縛ってあった。


あの日に源左衛門が抱えていった束は、次の日には戻ってきていた。あとから集まった分を、同じ束へ入れるためだったらしい。


与三郎は紐の端を二度回して、結び目を上へ向けた。それを脇へ寄せると、また新しい紙を引き寄せる。


「今日、出すのか」


「昼までに出す」


「おれの書いたのも入ってる?」


「入っておる」


「上の方か、下の方か」


「上から三枚目だ」


朝の光は、板の間の半分まで来ていた。この前より、届く幅が狭い。庭の木の下に、落ちた葉が寄っている。


戸を開けたときに入ってくる風が、素足に冷たかった。日が高くなるまでは、指の先がうまく動かない。


与三郎は束を膝の横へ置き直した。置き方が、この前より慎重に見えた。


悠人は束の端をのぞいた。三枚目の白いところが、少しだけ見えた。


見えなくても、書いたものは覚えている。いま田にいる人数を先に置いて、その下へ二つの家の名。丸は七つと、四つと、薄い一つ。二つの名は自分で書いた。筆で書くと角が立つのは、あの日と変わらない。


崩した字は相変わらず読めないままだが、一画ずつ見せてもらったあの二つだけは、目を閉じても順番が出てくる。


「これ、何て書いたんだっけ」


悠人は、自分の丸の脇に足された字を指した。


「田を見に参った日だ」


「日にちだけ?」


「それでよい」


「四人のことは」


「書いておらぬ」


「書かなくていいのか」


与三郎は答えなかった。次の紙の端を揃えている。


「あれ、返ってくるのか」


「戻らぬ」


「ずっと?」


「束に入ったものは、束のまま置かれる」


そういうものらしい。悠人は聞き返すのをやめた。


「決まったら、教えてもらえるのか」


「知らせがあれば、申す」


「知らせがなかったら」


「そのときは、こちらにも分からぬ」


「昼まで、何をする」


「写しだ」


「終わったら」


「そのときに申す」


足音が縁を回ってきて、戸の前で止まった。


源左衛門だった。


与三郎が束を差し出す。源左衛門は紐を一度見ただけで、中は開かなかった。


「昼までと承ってござる」


与三郎が言い添えると、源左衛門は短く返した。


「よい」


束は源左衛門の脇の下へ入って、そのまま戸の向こうへ出ていった。三枚目の白いところは、もう見えない。


戸が閉まる。足音が遠ざかっていった。


「あれ、どこへ行くんだ」


「上だ」


「上って」


与三郎は次の紙を出した。


「今日は、こっちを写せ」


聞いても答えが増えないことは、もう分かっている。悠人は墨を磨り直した。


新しく来た紙は五枚あった。折り目の数を写して、丸の位置を写して、名前があるところへ短い棒を置く。手が慣れてきたぶん、思ったより早く終わってしまう。


写しているあいだ、字の方は見ないようにしている。見ても読めないし、読めない形を真似たところで、あとで何の役にも立たない。


五枚目は、端が破れていた。破れ目から一寸ほど内へ、墨の跡が続いている。その先は、もう紙がなかった。


終わってしまうと、つい戸の方を見た。


見ても、誰も来ない。


「次は」


「まだない」


「じゃあ、待つのか」


「待て」


日が板の真ん中まで来たころ、足音が戻ってきた。


出ていったときより速い。


戸が開いて、源左衛門が立った。中へは入らない。


「参れ」


与三郎が筆を置いて立った。悠人も膝を浮かせて、そこで止まった。呼ばれたのは与三郎だと思った。


「おれも?」


「そのほうだ」


「なにゆえ」


「あの紙のことを問われた」


紙が先に行って、あとから呼ばれる。順番が逆だろ。


廊下は、通ったことのない方へ折れた。すれ違う人が多く、そのたびに端へ寄って、また歩く。足の裏に板の冷たさが残らないくらい、歩く速さが上がっていた。


途中で、何かを担いだ二人組とすれ違った。板の間の方から、湯気と、煮えたものの匂いが流れてくる。どこかで戸が続けて開いて、その先の声が急に近くなった。


「与三郎殿も、上へ呼ばれることがあるのか」


「ある」


「何度も?」


「数えておらぬ」


「何を聞かれるんだ」


前を行く与三郎は、振り返らなかった。


「問われたことのみ答えよ」


初めの日に叩き込まれたのと、同じ言い方だった。


通されたのは、広い部屋だった。


教わったとおりに頭を下げて、示された位置に座った。上座はまだ見なかった。


左右に人が並んでいる。数えるのはやめた。前にも、こういう部屋に入ったことがある。


天井が高く、奥まったところは暗い。開けてある側から入る光は、並んだ人の膝の前で切れていた。悠人が座らされたのは、その外側だった。


背中と背中のあいだから、前の方が少しだけ見える。紙の束がいくつか出ていて、そのうちの一つは、朝に見た結び目の向きをしていた。


声が重なっていた。一つを追うと別のが被さって、両方とも取れなくなる。拾えたのは、田の名らしい音と、数と、焼けた、という音だけだった。


隣に座った与三郎は、膝の上で紙を一枚開いている。こちらへは向けない。


どこかで炭のはぜる音がした。並んだ背中は動かない。誰かが咳をして、それもすぐに収まった。


上座の方から、時々、短い声が来る。そのたびに、前の方の話がいったん止まった。


源左衛門の声が、前の方から始まった。


こちらへ向けた声ではない。読み上げの速さは、与三郎が紙を読むときよりさらに上だった。


音の切れ目が分からない。分かる音は、間を置いて時々出てくるだけだった。


家の名が一つ。次に、もう一つ。そのあいだに、聞き覚えのある音が挟まった。


「弘治三年」


こうじ。奥へ上がった者があったという年だ。


そこから先は、また分からなくなる。納めた、に近い音が二度あって、焼けた、がもう一度出た。


知っている音が出るたびに、そこだけが手前へ来る。前と後ろはつながらないまま、次の音へ流れていく。


それから、数が来た。


「いま田におる者、七人」


「ほかに、四人」


「いま一人、あるやに申す」


悠人は顔を上げかけて、やめた。


読まれているのは、自分の紙だ。


自分が置いた並びを、誰かの口が順番になぞっている。


前の方から、別の声が来た。


「その数は、いつのものぞ」


与三郎が短く受けた。


「田へ参った日に、見てござる」


「たしかか」


「見たままにてござる」


「この紙を並べたのは」


「この者にてござる」


問いは、そこで止まった。


七人。四人。もう一人のところにも、何か言い添えられた。


数は合っている。


けれど、なぜ七つと四つを分けたのかは、読まれなかった。


四人は、七人の家の者ではない。もう一方の家の者だとも聞いていない。


そもそも、どこの家の者なのかが分かっていない。


膝の上で、指が動いた。七つ数えて、少し空けて、四つ。


読み上げは、もう次の紙へ移っている。


数は全部出たのに、そこだけが出ない。


言い直したかった。この場で使う言い方を、悠人は持っていない。


前の方で、紙の動く音がした。


悠人は目を上げた。


上座に、氏真がいた。背筋の伸び方は、前に見たときと変わらない。


手元に紙が一枚あった。こちらからでも見分けがつく。丸のところに墨の濃いのが並んでいて、その下に、自分の書いた角の立った字がある。


氏真は、それを膝の上へ寝かせて見ていた。指は動かない。


「この四つは、何ゆえ分けた」


声は、こちらへ来た。


一拍、遅れた。


「七人の家の人じゃない。もう一方の家の人かどうかも、分からないから」


脇で衣擦れがした。


「薄いのは」


「もう一人いるかもしれない。でも、分からない」


言い終わると、前の方で筆が動いた。読み上げには、なかったところだった。


氏真は、紙をもう一度見た。それから、膝の前へ置いた。


短く、部屋の方へ何か問う。悠人には取れない。


前の方でいくつか声が返って、重なって、また取れなくなった。


「名は、いずれの紙にもござらぬ」


源左衛門の声が、そこだけはっきり通った。


それから、上座から来た。


「この者どもの儀は、今度の沙汰に及ばず」


ぎ。前に、奥から来た女も使っていた音だ。


「いずれの家の者かは、ここでは決めぬ」


決めぬ。


そこは取れた。


言うなら、いましかない。


どう言えばいいのかは、まだ決まっていなかった。


悠人は口を開いた。


「あの人たちは、どこにも——」


前の方で、別の声がもう始まっていた。


自分の声の後ろ半分が、その中へ混ざって消えた。


誰も、こちらを見なかった。与三郎も、膝の紙を見たままだった。


氏真が、また短く言った。長くはない。田の名らしい音があって、秋、と聞こえて、来年に近い音が続いた。


言い終わると、部屋が少し動いた。膝の位置を直す音が、あちこちで重なる。


前の方で、紙をめくる音がいくつか続く。


それから、どこかで誰かが何か言った。


二人か三人が、こちらを見た。見られている、と分かるまでに間があった。


こやつ。紙。


取れたのは、それだけだった。


上座から、声が来た。


「決めたのは、わしだ」


それで、こちらを見る目はなくなった。


前の方の話が戻っていく。誰かが紙を読み、誰かが受ける。悠人の名は、初めから終わりまで一度も出てこなかった。


廊下へ出ると、来たときより人が少なかった。


与三郎は先に立って歩き、角を二つ曲がったところで速さを落とした。


「あの田は、古い紙にある方のものとなった」


「古い紙って、上に書いた方?」


「さよう」


「じゃあ、いま作ってる人たちは」


「この秋は、いまの者が作る」


「そのあとは」


「来年のことは、追って申される」


「追ってって、いつ」


「決まっておらぬ」


「決まってないのに、決まったのか」


与三郎は答えず、廊下の先を見ていた。


数歩、黙って歩いた。


「あの四人は」


足は止まらなかった。


「問われた」


「それで」


「それきりだ」


「どこの家の者か、決まらなかったのか」


「決めぬ、と申された」


「決めないままってことだよな」


「そうだ」


「そのままにしておいて、いいのか」


「よいとは申されておらぬ」


それ以上は続かなかった。


渡り廊下の先に、庭が見えた。朝に見た木の下の葉が、さっきより広がっている。


廊下の板は、影になっている分だけ冷たかった。


板の間の戸口で、与三郎は一度止まった。


「おのれより申すな、とは言うたな」


「……言われた」


「次は、待て」


そう言って、先に中へ入った。


叱る声ではなかった。それでも、はっきりと言われた。


部屋へ戻ると、板の上には何も残っていない。


朝に写していた紙も、脇へ寄せられている。墨は片づけられていて、硯は裏返しに伏せてあった。


日は縁の方まで下りている。庭で鳥が鳴いて、すぐにやんだ。


悠人は座って、板へ指を置いた。


七つ。少し離して、四つ。その先に、もう一つ。


指では、何も残らない。


それでも、もう一度なぞった。


田のことは決まった。


四人のことは、決まっていない。


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