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第33話 名のない仕事

与三郎は、まだ来ていない。


板の間には、昨日の続きの紙が出してあった。悠人は墨を磨って、薄いところで止めた。


外は晴れている。庭の木は、この前より下の方まで色が変わっていた。朝のうちは、まだ指の先が冷たい。


戸は開けてある。庭の方から、朝の音が入ってきていた。桶の音と、人の行き来と、どこかで木を割る音。


写しは三枚目に入っている。折り目の数、丸の位置、名前のあるところへ短い棒。手は、もう迷わない。


同じことが何日か続いていた。紙は毎朝出てきて、日のあるうちに少し減って、次の朝にはまた増えている。


字は見ない。見ても読めないし、読めない形を真似ても、あとで何の役にも立たない。


写しているのは、紙そのものの形だ。どこに折り目があって、どこに丸があって、名前らしいところがどのあたりに来るか。それを別の紙へ移していく。中身の方は、こちらへは回ってこない。


そのかわり、紙の隅には自分の覚えのために少しだけ書き足す。田、と一つ。あとは数と、上か下かの向きだけだ。与三郎は何も言わないので、そのまま続けている。


四枚目を引き寄せたところで、渡りの方から声がした。


二人か、三人。近くはない。


「……のちのこと」


田の名らしい音が続いた。そのあとは、また分からなくなる。


悠人は筆を止めた。


立ちはしない。行ってよいところと、ならぬところがある。あの渡りは、ならぬ方だ。


声は、そのまま遠ざかっていった。


渡りの板は、ここからは見えない。声だけが、屋根の下を回って届いてくる。


戸が開いたのは、それからしばらくしてからだった。


「遅うなった。上へ寄っておった」


与三郎はそれだけ言うと、座って束の紐を解いた。指の動きは、いつもと変わらない。


束は、この前より厚かった。田の一件が済んでも、紙は減らないらしい。


「束、厚くなってる」


「増えた」


与三郎は束の上から何枚か取って、悠人の方へ寄せた。手は止まらない。


「田のは、終わったんじゃないのか」


「あればかりではない」


寄せられた紙は、折り目の入り方が昨日のものと似ていた。悠人は端をそろえた。


「さっき上に行ってたのは?」


「呼ばれたまでだ」


与三郎はそれ以上言わずに、寄せた紙のいちばん上を指で叩いた。


「じゃあ、今日は?」


「昨日の続きだ」


「三枚目まで終わってる」


「そのまま進めよ」


束の中ほどに、見覚えのある並びがあった。


丸が七つ。少し離して四つ。その先に、薄い一つ。


字が違う。自分の書いた角の立った字ではない。同じ形を、別の手が写している。


「これ、おれのだ」


「写しだ」


与三郎は顔を上げない。手だけが動いている。


「なにゆえ」


「入り用があった」


「誰が写したんだ」


「知らぬ」


悠人は、写しをもう一度見た。丸の間の空きまで、同じところで空いている。


数も、並びも間違っていない。写した者が、四つと七つを離した理由まで知っているのかは分からない。それでも、離れているところまで同じだった。


元の紙は上へ出したきり戻ってこない。それなのに、同じ並びを写した紙がここにある。自分の書いたものが、別の紙に写されて回っているらしい。


昼前に、知らない男が来た。


与三郎より年上で、袴の色が違う。戸口で名乗らず、まっすぐ板の間の方へ来た。


板の上から、悠人が今朝写した紙を一枚取り上げて、目の高さまで上げた。三枚目の、書き終わったばかりのものだった。


男は、紙を持ったまま与三郎の方へ顔を向けた。


「これを書いたのは」


与三郎が、筆を持ったままの手で悠人を示した。


「こやつだ」


男は悠人を見た。


それから、もう一度紙を見た。


近くで見て、離して見て、また近くへ寄せる。紙を少し傾けて、明るい方へ向けた。


指で、隅の田の字をなぞった。触れてはいない。紙の少し上を、線をたどるように動かしている。


何も言わない。悠人にも、何も聞かない。


紙を元のところへ戻すと、そのまま出ていった。


……俺じゃなくて、字の方か。


戸は、しばらく開いたままだった。与三郎が立って、閉めに行った。


「あの人、誰なんだ」


「書き役だ」


与三郎は戻ってきて、また座った。束の続きへ手を伸ばしている。


「与三郎殿と同じ仕事?」


「同じだ。わしより上だ」


「何しに来たんだ。おれの紙を見るため?」


「さよう」


悠人は仕事に戻った。けれど、さっきの男の目の動きが頭に残っていた。


与三郎が紙を見るときは、何が書いてあるかを追っている。さっきの男は、そうではなかった。読んでいるというより、字の形そのものを見ていた。


いちばん長く見ていたのは、隅に書いた田の字だった。何が気になったのかは分からない。見慣れない書き方に見えたのかもしれない。


外の日が、板の縁から少しずつ内側へ入ってきていた。


日が板の真ん中まで来たころ、外がまた騒がしくなった。


さっきより近い。縁のすぐ向こうだ。


よく聞き取れなかったが、「きめさせた」というところと、自分の名は分かった。


悠人は手を止めた。


自分が誰かに何かを決めさせた、と言われているらしい。誰に何を決めさせたことになっているのかは、分からない。


声が離れてから、悠人は口を開いた。


「おれのこと、何か言われてる?」


与三郎は筆を置かなかった。


「言うておる者はおる」


「何を言ってるんだ?」


「そこまでは聞いておらぬ」


それきりだった。


自分のことが、どこかで話に出ている。そういえば、前にも似たことがあった。


「前にも、おれのことを話してたよな。あてた、って聞こえた。あれ、何のことか分かる?」


与三郎の筆が、一度止まった。


「知らぬ」


止まっただけだった。筆は、また動いている。


日が縁の方へ寄りはじめたころ、足音が来た。


戸の前で止まる。源左衛門だった。


板の間の中を一度見て、二人へ目を止める。


「両人、参れ」


与三郎が筆を置いて立った。悠人も立った。


「何を聞かれるんだ」


「知らぬ」


前のときは、あの紙のことを問われた、と言われた。今日は、それもない。


廊下は、前と同じ方へ折れた。すれ違う人は、あのときより少ない。


板の冷たさが、前より足の裏に残る。日が短くなったぶん、廊下の奥が早く暗くなっていた。


途中で一度、前から来た二人が端へ寄った。与三郎が先に会釈をして、そのまま通る。悠人も同じようにした。合っているのかは、分からない。


通されたのも、同じ部屋だった。


左右に人が並んでいるが、あいだが空いている。前より人が少ない。


悠人が座らされたのは、いちばん端だった。戸のすぐ内側で、前の方は背中しか見えない。


天井の高いところに、細い光の筋が入っている。埃が、そこだけ見えていた。


座ってから、しばらく何も始まらなかった。前の方で、紙をめくる音と低い声が続いている。膝が固くなってきたころ、ようやく声の調子が変わった。


声が重なっていて、話の全体はつかめない。ただ、田の名といくつかの数、それに「のちのこと」という言葉が耳に入った。


前のときは、読み上げが始まってすぐに自分の紙のことだと分かった。今日は、何の話なのかが分からないまま、時間だけが過ぎていく。


重なっていた声の一つが、少し大きくなった。


「……のちのことを申す者が――」


朝にも聞いた言葉だ。


その先は分からないまま、声はまた低くなって、重なりの中へ戻っていった。


やがて、前の方で源左衛門が述べはじめた。


「先の田の儀にてござる」


田の一件の話だ、ということは分かった。そのあとは速くなって、何をどう述べているのかまではついていけない。


名が、いくつか続いた。自分の名、与三郎、それから源左衛門の名が順に聞こえた。


どうやら、あの田の一件で誰が何をしたのかを、一人ずつ分けて話しているらしい。細かな内容までは追えない。


前に、与三郎が同じことをしていた。誰が何を言ったのかを、名ごとに分けて書いていた。今日は、それが声でされている。


自分の名は、そのあとにも二度出た。そのたびに別の声が短く何かを返し、また源左衛門が続けた。


だが、悠人に何かを尋ねる者はいなかった。


前にここへ来たときは、二度質問された。今日は、一度もない。


顔を上げる機会が、まるでなかった。悠人は膝の前の板を見ていた。


板の目を数えた。端から七つ目のところで、木の色が少し違う。もう一度、初めから数え直した。


前の方が静かになった。衣の音が一度に止んで、それから板が一度だけ軋んだ。


上座の方で、声がした。


「この者は――」


その先は追えない。


声は高くなかった。部屋の端まで届いているのに、大きくは聞こえない。


長い言葉ではなかった。二つか三つ続いて、それで終わった。


前に座っていた何人かが、こちらを見た。


……まさか、俺のことか。


視線は、すぐに前へ戻った。


紙の動く音がして、人が動きはじめる。


与三郎が立った。


悠人も、それに続いて出た。


廊下へ出て、角を二つ曲がったところで、与三郎が速さを落とした。


「おぬしのことが決まった」


「おれのこと?」


「これから、何をさせるかだ」


「……何を」


「聞いたことを、分けて置く」


「うん」


「見よいように、並べる」


「うん」


「図に引く」


悠人は歩きながら、口の中で二度繰り返した。


分けて置く。並べる。引く。


「それ、前からやってる」


「さよう」


「変わってない」


「変わったのは、そう申された、というところだ」


「誰が決めたんだ」


「おやかたさまだ」


「おれ、何も言ってないけど」


「申しておらぬ」


「それで決まるのか」


「決まった」


廊下の先で、誰かが戸を閉めた。音が、来た方へ返っていく。


数歩、黙って歩いた。


「もう一つ、申された」


「うん」


「後のことを知ると申す者としては、用いぬ」


悠人は足を止めかけて、止めなかった。


後のことを知る者。


やっぱり、そういうふうに見られていたらしい。


はっきり言われたのは初めてだった。でも、思い当たることはいくつもある。先のことは、これまで何度も聞かれている。


知っていることなら答えられる。けれど、知らないことの方がずっと多い。知らないと言って、本当に信じてもらえるのかは分からなかった。


間違ったことを答えて、それが誰かの決めごとに使われるのも嫌だった。


隠していると思われたら、自分がどう扱われるのか。それが、いちばん怖い。


もう、そういう者としては用いない。


与三郎の言葉の意味が、そこでようやく頭に入ってきた。


心底、ほっとした。


ずっとどこかに入っていた力が抜けていく。膝の裏が、いまごろになって痛い。


与三郎の足は、もういつもの速さに戻っていた。


「この仕事、今日からってこと?」


「今日からだ」


「それまでは、決まってなかった?」


「決まっておらなんだ」


「その仕事、何て呼ばれるんだ」


「そこまでは、申されておらぬ」


「じゃあ、前までは、後のことを知る者だと思われてたってことか」


「そう申す者はおった」


渡りへ出ると、庭の向こうが赤くなっていた。木の下の葉は、朝に見たときより広がっている。


「あの写し、どこへ行くんだ」


「知らぬ。わしが決めることではない」


板の間の戸口で、与三郎は振り返らずに言った。


「筆は、洗っておけ」


「うん」


板の間へ戻ると、紙は朝のままだった。


四枚目の途中で止まっている。


日は、もう縁まで下りていた。


悠人は座って、墨を磨り直した。濃くなりすぎたので、水を少し足す。


折り目の数、丸の位置、名前のあるところへ短い棒。


四枚目の残りは、思ったより少なかった。終われば、五枚目がある。


筆を持ち直したところで、外が少し明るくなった。雲が動いたらしい。


外で、また声がした。


二人か、三人。近くはない。


「……のちのこと」


朝と同じ音だった。ただ、朝より短い。すぐに遠ざかっていった。


仕事も、昨日と同じだ。


決まったのは、役だけだった。


悠人は、写す手を止めなかった。


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