第34話 預かり
役が決まってから、三日が過ぎた。
紙は毎朝出てくる。折り目の数、丸の位置、名前のあるところへ短い棒。手順は何も変わっていない。
庭の木は、この前より上の方まで裸になっていた。朝は指の先だけでなく、手の甲まで冷たい。墨を磨る水が、桶の中で少し重く見える。
与三郎はいつもの刻に来て、いつものように束の紐を解いた。
「今日はどこから」
「昨日の残りだ」
「三枚目まで終わってる」
「なら、四枚目からだ」
それだけだった。役のことは、あれきり誰も口にしない。
寝る場所も、飯の椀も、昨日までと同じだ。渡りの方から時々声が回ってくるのも、変わらない。近くはないので、何を言っているのかは分からない。
決まったのは役だけだ、というのは、そのとおりらしかった。
写す紙は、前より人の名が多くなった。読めないのは同じだから、手つきも同じだ。
四枚目に移ったころ、日が板の縁まで来た。
そこへ、足音が来た。
戸の前で止まる。源左衛門だった。
与三郎が筆を置きかけた。けれど源左衛門は、与三郎の方を見ていない。
「高瀬、参れ」
与三郎は筆を持ち直した。
「行け」
悠人は一度だけ与三郎を見たが、与三郎はもう次の紙へ移っていた。
廊下は前と同じ方へ折れて、そのあと違う方へ曲がった。
板の冷たさが、草鞋の裏から上がってくる。天井が一度低くなって、また高くなった。奥へ行くほど、すれ違う人が減っていく。
前を行く源左衛門は、一度も振り返らない。歩く速さも変わらない。どこへ行くのかは言われないままだった。
通されたのは狭い部屋だった。左右に人が並ぶ部屋ではない。窓が一つあって、光がそこから斜めに入っている。
その光の中に、布の包みが置いてあった。
見覚えがあった。結び目の形まで覚えている。
源左衛門が座り、その脇に若い男がひとり。硯と紙を前に置いている。前に自転車のことを書いていた者に似ている。同じ人かどうかは分からない。
源左衛門が、その男へ目をやった。
「開けよ」
若い男が結びを解いた。
中の物が、板の上へ並べられていく。
どれも見覚えのある物だった。最後に見たのは寺だ。
悠人は手を伸ばしかけて、止めた。若い男の手が、こちらより先に動いている。どれを先に出すかも、どの面を上にするかも、迷いがない。
初めて見るわけではないらしい。呼ばれる前から、この人たちは何度もここを開けている。
硬貨は、すでに分けて置かれていた。白いもの、赤みのあるもの、黄色いもの。穴のあるものは、二つだけ別の列になっている。いちばん手前に、500円玉が一枚だけ離してあった。
若い男がそれを取って、決めた面を上へ向けた。手元の紙を一度めくって、目を落とす。前に書いたものらしい。
「面には、日本国、五百。それと、この字がござる」
源左衛門が銭を受け取って、字のある面をこちらへ向けた。
「これは、日ノ本の銭か」
「はあ。おれのいたところの銭です」
字と、持ち主の答えが合った。それだけのことだ。それでも、ここにいる誰も、この銭を知らない。
若い男が身を寄せて、最後の一字を指した。
「これは……圓の略かと。円、と読むものか」
源左衛門がその字を指で押さえて、こちらを向いた。
「この字は、円と読むか」
「はあ」
「五百円、か」
「はあ」
源左衛門が銭を若い男へ渡した。若い男が裏へひっくり返す。
裏には、大きな数字が三つ並んでいる。500とある。
「この三つは、何の字ぞ」
五、〇、〇。見慣れすぎて、文字だとも思っていなかった。
そうか。この人たちには、これも異国の字なのか。
「異国の字か」
「もとは異国の字です。数を表します」
「日ノ本の銭に、何ゆえ異国の字を入れる」
「……おれのいたところでは、この数字を使うのが普通です」
源左衛門が、若い男の手元の紙へ目をやった。
「そこでは、皆これを読むか」
「はあ。たいていの人は読めます」
若い男が、裏の三つを指した。
「これは」
「五百です」
若い男は銭を裏返した。表の五百と見比べる。
「ならば、こちらも五百。円とは何ぞ」
「銭を数えるときの言い方です」
「五百円とは、文にて何ほどぞ」
「……分かりませぬ。ここの銭に直すと、いくらになるのか分かりませぬ」
数え方が違うことは分かる。けれど、どこで釣り合うのかは知らなかった。
若い男が指の先で、500円玉の外の輪と、真ん中を順に指した。
「外は黄う、内は白う見え申す」
源左衛門が受け取って、光へ傾けた。それから、こちらを向いた。
「外と内は、同じかねか」
「……分かりませぬ」
若い男が、分けてある列の銭も一枚ずつ裏返して並べ直した。どれにも同じ形の字が入っている。数だけが違う。
源左衛門が、白いものを一枚、赤みのあるものを一枚、こちらへ寄せた。
「同じ日ノ本の銭と申すに、色も、目方も違う。これは」
指されたのは10円玉だった。
「たぶん、銅です」
「これは」
1円玉だった。寄せられたとき、ほかの銭よりずっと軽い音がした。
「アルミです」
「あるみ」
「銅や鉄みたいな、かねの一つです。それより先は、知りませぬ」
若い男が1円玉をつまみ上げ、10円玉と交互に掌へ載せた。二度そうしてから、両方を板へ戻した。
穴のある二枚を、源左衛門が並べ直した。50円玉と5円玉だ。
「穴が、丸い」
そこは、悠人にも分かった。これまで見た銭は、どれも穴が四角かった。
「いずこで鋳た」
「知りませぬ」
「誰の鋳たものぞ」
「そこまでは、知りませぬ」
一つ答えると、すぐ次の問いが来た。
「そのほう、これを鋳る術を心得るか」
「知りませぬ」
答えられないと言うたびに、若い男の筆が動いた。前にも、答えた直後に同じように筆が動いたことがある。あのときは自転車だった。
硬貨が下げられて、北里柴三郎の千円札が板の中ほどへ置かれた。
若い男が、別の紙を開いた。札の形に合わせて枠が引いてあり、その中と外へ字が並んでいる。日本銀行券。日本銀行。千円。北里柴三郎。国立印刷局製造。読めない形をそのまま写した並びもあった。裏の分は、下に別の枠で取ってある。大きな波。舟。山。端の方に、光へ透かすと出る模様のことらしい書き込みがあった。
この札も、もう何度も調べられている。
「ここに、日本銀行券、日本銀行とある。銀行とは何ぞ」
「銭を預けたり、貸したりするところです」
「日本銀行も、そうか」
「……少し違います。この札を出しているところです。それより先は、詳しく知りませぬ」
若い男が枠の脇へ書き足した。それから、記録の別のところへ目を移す。
「北里柴三郎。この者は何者ぞ」
「医者です。病のことを調べた人です」
源左衛門が肖像へ目をやった。
「この線は、筆にて描いたか」
「筆ではありませぬ」
源左衛門が肖像を指の腹で撫でた。
「版にて摺ったものか」
「……印刷です」
「いんさつ」
若い男が肖像の線を、爪の先で横になぞった。
「いかにして、これほど細くする」
「……分かりませぬ」
札なら何度も手にしている。けれど、こんなふうに線の一本一本まで見たことはなかった。
若い男が、細かい字と数の並びを指した。
「これは、先ほどの数の字か」
「はあ。真ん中は数で、前と後ろは異国の字です。札の一枚ずつに、番号が付いています」
それも書き足された。
若い男が札を傾けた。左の隅で、小さな顔が向きを変える。手つきに迷いはない。前にも同じことを試している。
「これは何ぞ」
「ホログラムです」
「ほろぐらむ」
若い男が、その音を書き取った。
「いかにして作る」
「……知りませぬ」
札が裏返された。
「ここにも、異国の字がある」
「日本銀行、と書いてあります。その下は、千。その後ろが円です」
源左衛門が絵を指した。大きな波と、舟と、その向こうの山。
「これは富士か」
「はあ」
「駿河の景か」
悠人はもう一度、絵を見た。
見覚えはある。富士の絵だということも知っている。けれど、どこから見たものだったかは思い出せなかった。
「……駿河ではなかったと思います」
源左衛門は札を若い男へ返した。
次に出されたのは、コンビニの袋だった。
若い男は袋の口を開いて、光へ透かした。指の腹で擦る。両端を持って、少しだけ引く。乾いた音がした。
「これは紙か」
「紙ではありませぬ」
「布か」
「布ではありませぬ」
若い男が袋を指の間で挟んで、こちらへ差し出した。
「何ぞ」
「プラスチックです」
「ぷらすちっく」
源左衛門がもう一度、袋の端を引いた。伸びるが、裂けない。
「何にて作る」
「石油……油から、作ります」
「油」
源左衛門が袋をつまみ直して、指の間で潰した。
「油が、かように固まるか」
「そこまでは、分かりませぬ」
やがて若い男が、スマホを取り上げた。押すところも知っている。
「これは、まだ動くか」
「……もう、動きませぬ」
押しても、何も起きない。寺で最後に光ったきりだ。
若い男が同じところを押した。二度押して、それから縁を持ち替えて、裏の方も見た。板は黒いままだ。
中には写真も、連絡先も入っている。けれど、今のままでは見ることもできない。
若い男がシャーペンを取った。後ろを押して芯を出す。この手順も、もう知っているらしい。
紙の隅へ引いた線が、途中で止まった。芯の先に、細い繊維が引っかかっている。
若い男が少し力を入れた。芯が折れた。
折れた先と紙とを順に見てから、力を抜いて、短い線を二本引いた。
源左衛門が、こちらを見た。
「物を書くものだな」
「はあ」
若い男は芯の先へ顔を近づけた。
「中の黒きものは、炭か」
「炭ではありませぬ。黒鉛といいます」
「こくえん」
若い男がその音を書いた。
「いかなる字ぞ」
「黒い、に、鉛です」
若い男の筆が動いた。
「鉛か」
「違います。名前には鉛とつきますが、鉛ではありませぬ」
源左衛門が芯の先を見た。
「何ぞ」
「……詳しくは知りませぬ」
若い男が小さな入れ物を出して、蓋を外した。中に同じ細い芯が並んでいる。
「これは、これへ入れるものか」
「はあ」
若い男は蓋を戻して、シャーペンと並べて置いた。
源左衛門が、その手元へ言った。
「戻せ」
品が包みへ戻されていく。並べたときと同じ順番で、同じ場所へ収まっていった。
悠人は何も言わなかった。いつ返るのかは、前に一度だけ尋ねている。返ってきたのは、知らぬ、の一言だった。
「これは、あずかっておる」
前に聞いたのと同じ言い方だった。あのときは自転車で、いつ返るのかは誰も知らなかった。
源左衛門はそれだけ言って、立った。
こちらを見る。
「参れ」
廊下をもう一度進んだ。途中の角に見覚えがある。前に二度、同じところを曲がった。上へ行く道だ。
通されたのは、また別の部屋だった。前の広い部屋よりは狭く、人も多くない。
戸のそばに座らされたのは同じだが、今日は前の方まで見えた。
上座に氏真がいた。前の方に紙が何枚か重ねてあって、一番上だけがめくられている。
座ってからしばらく、誰も何も言わなかった。どこかで衣の擦れる音がして、それも止まる。膝が固くなってくる。
一度、人が入ってきて、すぐに出ていった。何をどう聞かれるのかは分からない。さっきの部屋で聞かれたことの続きなのかどうかも分からなかった。
前で、名が順に読み上げられはじめた。速い。ほとんどは知らない音のまま通り過ぎていく。
その中に一つだけ、知っている音があった。
なかむら。
館で一度、書き役が同じ音を読み上げたことがある。あのとき、やへえが低く一言返した。
同じものかどうかは分からない。
それでも、やへえの顔が浮かんだ。
読み上げが終わって、少し間があった。
氏真がこちらを見た。
「何を心得、何を心得ぬ」
短い問いだった。それでも、向けられているのが自分だということは分かった。
「戦のことは、分かりませぬ」
「先のことも、たいていは分かりませぬ」
「聞いたことは、分けて置きます」
「並べて、図に引きます」
そこまで言うと、脇の者が前へ向き直った。いま言ったことを、改まった長い言い方へ直して伝えていく。
最初の方は、いくつか分かった。後ろは、ほとんど分からなかった。
氏真は、しばらく何も言わなかった。膝の上で紙が一度めくられる音がする。
「けにんには、せぬ」
音ははっきり聞こえた。けにん、が何のことかは分からない。
「客として置く」
客なら分かる。
「ふちは、これまでのごとく」
ふち、は分からない。ただ、これまでのごとく、というところは聞き取れた。いま受けているものが、そのまま続くということらしい。
氏真はそれで目を戻した。
前の方で紙の動く音がして、人が立ちはじめる。源左衛門が先に立った。悠人はその後ろについて出た。
廊下は、来たときより暗くなっていた。角を曲がったところで源左衛門は別の方へ折れ、そのまま離れていった。
板の間へ戻ると、与三郎はまだ座っていた。
「どうだった」
「客として置く、って。あとは、よく分からなかった」
与三郎は筆を置いた。
「おやかたさまが、おぬしの身を預かられる」
「それ、どういうこと」
「おぬしに事あらば、おやかたさまへ申す」
自分に何かあれば、今度はあの人のところへ話が行く。
前にも似たことがあった。やへえが自分を引き受けたときだ。
あのとき分かったのは、自分が何かすれば、自分ひとりでは済まないということだった。中村の家にも話が及ぶ。村で暮らすうちに、それがどれくらいのことなのかも、少しずつ分かってきた。
今度は、その先が氏真になったらしい。
この屋敷で客として置かれると、実際に何が変わるのかは分からない。
「なにか、変わるのか」
「仕事は変わらぬ」
「寝るところは」
「今のままだ」
与三郎は筆を持ち直した。
「墨が薄い」
外はもう暗くなりかけていた。渡りの向こうで戸が閉まる音がして、それきり静かになる。
包みは、来た方とは違う方へ運ばれていった。
板の間の紙は、朝のままだった。
四枚目の途中で止まったままだ。
あの品は、預かられている。
自分の身も、預かられる。
明日も紙は出てくる。折り目の数を数えて、丸を写して、名前のあるところへ短い棒を引く。
悠人は墨を磨り直した。今日は、いつもより長く磨る。
それから、四枚目の続きにかかった。




