第35話 尋ねぬ
身を預かられると聞いてから、四日が過ぎた。
紙は毎朝出てくる。折り目を数えて、丸を写して、名前のあるところへ短い棒を引く。手順は何も変わっていない。
寝るところも、飯の椀も同じだ。
ふちのことは、次の日に与三郎へ聞いた。
「ふちって何」
「食う分だ。屋敷に置く者へ、その分を出す」
「おれ、もらってるの」
「これまでのごとく、と申された。今までと同じということだ」
飯と、ここで暮らすためのものらしい。増えも減りもしない、という話でもある。
客として置く、と言われたのが何を変えたのかは、まだ分からないままだった。
朝の冷えは、この数日で一段深くなった。桶の水は、はじめのひとすくいが手にこたえる。庭の木はもう上まで裸で、枝のあいだに空がそのまま見えた。
与三郎はいつもの刻に来て、束の紐を解く。
「今日は」
「昨日の続きだ」
「三枚目の途中で止まってる」
「なら、そこからだ」
それで一日が始まる。
写す紙は、この四日で少し変わった。名の並びが長くなって、丸の数も増えている。読めないのは同じなので、手つきは変わらない。
「この束、前のより厚い」
「名が多い。今日はこれを先にやる」
「全部やるの」
「さよう。今日のうちにだ」
昼を過ぎるころには指がかじかんで、線が太くなった。与三郎が手元をのぞく。
「持ち方が下がっておる」
「寒い」
「火にあたってこい」
「あとで」
「今だ。太いのを写されては、直す者が困る」
言われたとおりに立って、渡りの手前まで行った。灰を入れた浅い鉢が置いてある。真ん中に炭が二、三本、赤いところを残して埋まっていた。手をかざすと、指の先から先に熱くなる。手のひらまで届くには、しばらくかかった。戻って持ち直すと、線は元の太さになった。
与三郎は見比べて、次の束を置く。
日が落ちて、板の間に灯りが入った。浅い皿に油を張って、縁から出した芯の先が小さく燃えている。近くだけが明るくて、隅の方は暗いままだ。
紙はもう片づけてある。与三郎はまだ何か書いていた。悠人は膝を抱えて、外の音を聞いていた。渡りの方で戸が動く音が、いつもより長く続いている。
「今日は、遅いね」
「客が入っておる」
与三郎はそれだけ言って手元へ戻った。渡りの音は、しばらく続いてから小さくなる。
そこへ足音が来た。戸の前で止まる。
源左衛門だった。
この刻に呼ばれたことは、これまでにない。
「高瀬、参れ」
与三郎が顔を上げた。
「行け」
それだけだった。
廊下は冷えていた。源左衛門は前を歩き、何も言わない。灯りは要所に一つずつ置いてある。板の間のものと同じで、届くところだけが明るい。そのあいだは暗い。
また自分の持ち物のことか、と思った。この前の続きで、まだ聞き足りないところがあるのかもしれない。あの日、答えられなかったことはいくつもあった。
角を二つ曲がって、また一つ曲がる。途中で人には会わない。
通されたのは、前のどちらとも違う部屋だった。
広くない。左右に人が並んでいない。灯りが一つ、隅に置いてあるきりだ。同じ皿と、同じ芯。天井のあたりまでは届かない。
戸の内側に、若い男が一人控えている。知らない顔だった。こちらを見ない。
奥に氏真がいた。
灯りが近いせいで、顔の片側だけが明るい。反対側は暗く沈んでいる。
源左衛門は敷居の内へ入らず、そこで下がった。
悠人は、示されたところへ座る。
氏真の前に紙が置いてあった。この前見た形と同じだ。あの日、あの人たちが書いていたものだろう。何が書いてあるのかは分からない。
その脇に、もう一枚あった。書きかけらしい。行が短くて、ところどころ空いている。何のものかは分からなかった。
来た、と思った。
今日は何を聞かれるのか。あの中には、自分が答えられなかったところが残っている。
氏真は紙に手を置いた。端をそろえて、そのまま閉じる。
閉じたきり、手は紙へ戻らなかった。
「言葉は、よう覚えたと聞く」
「はあ。前よりは」
「与三郎とも、言葉が通ずるか」
「はあ。仕事の話なら、分かります」
「まだ、分からぬ言葉はあるか」
「あります。長く言われると、半ばから分かりませぬ」
「改まった言葉は」
「あれは、ほとんど分かりませぬ」
氏真は膝の上で手を組んだ。
「先には、そなたの申す後の世は、死したる者の行く世にあらず、と申したな」
「はあ」
「遥か末の世より参った、ということか」
「はあ」
「いかほど先ぞ」
「しひゃくねん、ほどです」
「四百年」
氏真がそれを繰り返した。
部屋が静かになった。
氏真の目が、閉じた紙の方へ動いた。
「にわかには信じ難き話よ」
悠人は黙っていた。返す言葉がない。本当のことを言っているのに、それを確かめる手立てが自分にもない。
「されど、そなたの持ちたる物を、我らは知らぬ」
紙の上に手を置いたまま、氏真は続けた。
「見た者に問うても、いずこの品とも申せぬ。作りようも分からぬ。あれを揃えて偽りを申す者があるとは、思えぬ」
少し間があった。
「偽りと申すにも、分からぬことが多すぎる」
氏真は閉じた紙から目を上げた。
「遠き国より参ったのか」
「遠くはありませぬ」
「いずこぞ」
「富士の、近くです」
氏真の手が止まった。
「富士の」
「はあ。あの山が、家からも見えました」
そこで言葉が続かなくなった。近い、と言っただけでは何も言ったことにならない。どの道を行けば着くのか、何日かかるのか、そこに何があるのか。この時代の言い方を、自分は一つも持っていない。
「……どのあたりかは、うまく申せませぬ」
「富士は、大きく見ゆるか」
「はあ。晴れた日は、外へ出れば大きく見えました」
氏真は灯りの方へ目を動かして、そのまま戻した。
「ならば、帰れぬのか」
「……帰る術が、分かりませぬ」
「道は」
「道は、たぶんあります。行っても、家がありませぬ」
「いかにして来た」
「……覚えておりませぬ。光って、それきりです」
氏真はしばらく黙っていた。
「そのことは、みだりに申すな」
「四百年のことですか」
「さよう」
この屋敷では、もう自分のことがいろいろに言われている。それは知っている。何をどう言えば静かになるのかが、分からないだけだ。
「問われれば、遠き地より参ったと申せ」
「はあ」
「信ずる者もあろう。そなたを求むる者も出よう」
氏真はそこで言葉を切った。
「みだりに申さぬがよい」
富士の近くだと、さっき言ったばかりだ。けれど、そう申せと言われたのなら、そう言う。遠いことは、たしかに遠い。
「故郷では、何をしておった」
「学んでおりました」
「何を」
「字と、数と……ほかにもいくつか」
言いながら、うまく言えていないのが分かった。学校のことを、この言い方で説明する術がない。
「学びは、いつまでぞ」
「もう少しで終わるはずでした。終われば、働きます」
「働かぬうちに来たか」
「はあ」
氏真は少し間を置いた。
「来たときも、あのふたつ輪に乗っておったか」
「はあ。乗っていました」
「あれは、そなたの故郷では珍しきものか」
「珍しくはありませぬ」
「多くの者が持つか」
「はあ。多くの家にあります」
「子も乗るか」
「乗ります」
氏真はそこで黙った。
庭で何度も調べていたものだ。源左衛門は輪の向きを見て、乗り方を見て、そのたびに何かを確かめていた。あれを珍しくないと言ったのは、たぶん今が初めてだった。
「そなたのほかにも、家で乗る者があるか」
「はあ。姉も乗ります」
氏真が一度うなずいた。
「父母も、姉も、故郷におるのか」
「はあ」
答えてから、その先が出てこなかった。おります、と言ったが、いま本当にそこにいるのかどうかを、自分は知らない。
灯りの油が、小さく音を立てる。
氏真が膝の上で指を動かした。
「この先、我らが――」
そこで止まった。
「……いや」
膝の上の手が、一度ほどけて、また組まれた。
「ここにては、この先のことは尋ねぬ」
「はあ」
「されど、そなたの世のことまで尋ねぬとは申さぬ」
意味を取るのに、少しかかった。
これから起きることは聞かない。けれど、自分のいたところのことなら聞く。そういうことらしい。
「……おれのいたところのことなら、分かることは話します」
「知らぬことも多かろう」
「はあ。知らないことの方が、多いと思います」
氏真の口元が、ほんの少し緩んだ。
「ゆうと。そなたの世のことは聞こう」
呼ばれた名に、返事が一拍遅れた。
「……はあ」
この人からそう呼ばれたのは、初めてだった。ほかの者は皆、高瀬と呼ぶ。
四百年のことも、富士のことも、自転車のことも、家のことも聞かれた。
けれど、この先のことだけは聞かない、と言う。
肩の力が少し下りた。
氏真が口を開いて、そのまま閉じた。
村にいたころ、やへえが同じことをしたのを見た。何か言いかけて、そのまま茶碗を置いた。あのとき自分は、いま何と言おうとしたのかと聞き返した。やへえは笑って、何でもないと言った。それきりになった。
今度は待った。何も言わずに、続きが来るものとして座っていた。
灯りが一度ゆれて、また戻る。
戸の内側の男は、来たときと同じ形で座っている。
やがて氏真は組んだ手をほどいて、膝へ置き直した。
戸の外で、床の鳴る音がした。
内側の男が膝を立てて、外へ短く何か言う。返る声も短かった。何を言ったのかは分からない。
氏真が座り直した。背の形が変わる。さっきまでと同じ人が、違う顔でそこにいた。
内側の男が立って、戸を開ける。それから、悠人の方を見た。
悠人は頭を下げて、そこから出た。
廊下に源左衛門が立っていた。悠人が出ると、来たときと同じように先へ立つ。
うしろで戸が閉まると、灯りの色が消えて、足の下の板だけが白く浮いて見える。
外の冷えが廊下まで入り込んでいて、息が白い。角を三つ戻ったところで板の間の前に出た。源左衛門はそこで下がり、来た方へ戻っていった。
用が済んでからも、あの人はしばらく座っていた。あれが何だったのかは、まだ分からない。
ゆうと、と呼ばれたところだけが、耳に残っている。
板の間では、与三郎がまだ灯りの前にいた。
悠人は何も言わなかった。与三郎も聞かなかった。
やがて与三郎が灯りを落とす。板の間が暗くなって、渡りの向こうの音だけが残った。
その音も、じきに止んだ。
暗くなると、さっきの部屋のことが戻ってきた。
今川氏真のことを、詳しく知っているわけではない。義元の息子で、あとを継いで、それから国を失った。蹴鞠とか、そういう方でも名前を見た気がする。強い武将だった、という覚えはない。
だから、もっと頼りない人を何となく思い浮かべていた。
さっきまで話していた人は、そうではない。
四百年という話を、そのまま信じたわけではない。けれど、調べた品のことを挙げて、嘘とも決めなかった。外で言うなと言ったのにも、理由があった。信じる者が出れば、こちらを求める者も出る、と言った。
こちらが何でも知っていると思っているわけでもない。
それでも、自分のいたところのことは聞く、と言った。
それに、一度は聞きかけたことを、自分でやめた。
思っていたのと、だいぶ違う。
そこまで考えて、目を閉じた。
朝になると、紙が出てきた。
折り目を数えて、丸を写して、名前のあるところへ短い棒を引く。与三郎はいつもの刻に来て、いつものように束の紐を解く。
「今日は」
「昨日の続きだ」
「四枚目から」
「そうだ」
「墨、磨っておいた」
「なら早い」
昼を過ぎたころ、渡りの方から人が来た。包みを抱えている。
「与三郎どの。高瀬の分は、これだ」
「置いてくれ」
「返しはいつになる」
「明日の朝だ」
包みが板の上に置かれ、その人は戻っていった。与三郎が紐を解く。
高瀬。
その名は、この屋敷のどこででも聞く。板の間でも、廊下でも、渡りの向こうでも。昨日までと同じだ。
悠人は筆を持ち直した。
紙が回ってくる。折り目を数えて、丸を写す。名前のあるところへ短い棒を引く。
墨を磨り直して、続きにかかった。




