第36話 同じ道
あの夜から、日はどんどん短くなった。
紙は毎朝出てくる。折り目を数えて、丸を写して、名前のあるところへ短い棒を引く。与三郎はいつもの刻に来て、束の紐を解く。同じ日が並んだ。
最初は、紙にある字はほとんど模様と同じだった。
今は、見たことのある名なら分かるものが増えた。同じ家の名が別の紙に出れば、与三郎が読む前に気づくこともある。
字を一つずつ読んでいるわけではない。形で覚えているものの方が多い。
新しい名は、与三郎が指して読む。悠人が繰り返す。二度で取れないときは、三度言ってもらう。聞こえた音を自分の文字で書き、その横へ与三郎が字を書き足す。
そのうちの二つに、覚えのある音があった。
中村弥兵衛。
「なかむら、やへえ」
与三郎が付け足した。
「水口の名主だ」
あの弥兵衛だ。字と音と人が、そこで一つになった。
もう一つは、その少し下にあった。
新六。
「しんろく」
与三郎が二つの名を見た。
「おぬしのおった水口の者らだな」
悠人はもう一度、新六の二文字を見た。
あの新六のことらしい。
庭の木が裸になりきったころ、朝の桶に膜が張るようになった。手をつけると、縁のところが薄く割れる。
寒くなって、小袖をもう一枚渡された。冷え込む夜は、二枚とも着込んで寝た。
朝は息が白い。墨をする指がかじかんで、最初のうちは棒が太くなった。何度か火の近くへ手を寄せてから、また座り直す。
ある朝、与三郎が束を持たずに来た。いつもより改まった格好をしている。
「今日は紙はない」
「ない」
「正月ゆえ、今日は休め」
いつの間にか、年を越していたらしい。
ということは、今日が一月一日なのか。
いや、こっちは旧暦だ。今の暦なら、二月くらいだったか。そこから先が出てこない。
ここへ来てから、何度目か分からない。もっと勉強しておけばよかった。
その日から何日か、渡りの向こうが騒がしかった。人の出入りが増えて、見たことのない改まった格好の者が順に奥へ通されていく。誰が誰に何を言っているのかは、遠すぎて取れなかった。
「あれは」
「年始の御礼だ」
「おやかたさまに」
「さよう」
廊下の向こうから声がした。与三郎が振り向く。
「参らねばならぬ」
立ち上がるのも早かった。そのまま足早に、渡りの向こうへ消えていく。
昼近く、男が包みを一つ持ってきた。うしろに、もう一人いる。
「高瀬」
「はあ」
「おやかたさまより、御下され物じゃ」
包みが板の間へ置かれた。開くと、小袖が入っている。これまで渡されたものより厚い。裏との間に、柔らかいものが入っていた。着ると、肩から先が急に軽くなった気がする。
「これ、おれに」
男が頷いた。
うしろの女が、包みの布を畳んでいる。
前に奥から来た女だった。あのとき、直接聞けないのかと口を挟んで、きっぱり断られた。声も覚えている。
前は、こちらから声をかけて初めて目が合った。今度は、向こうから合った。すぐには逸らされない。
「寒うはござりませぬか」
前なら、頭の中で言い直していた。今は、そのまま意味が分かる。
「はあ。寒いです」
「さようでござりましょう」
口元がわずかに動いた。それから膝を引いて、男のあとから出ていった。
膳は変わった。汁に餅が入り、焼いた魚が出る日も増えた。普段の飯も、麦の多い日と、米の方が多い日がある。客として置く、と決まってから、少しずつそうなっていた。
何日かして、また紙の束が来た。折り目を数えて、丸を写す。前と同じだ。
そこからまた日が経った。桶の膜が薄くなり、やがて張らなくなる。寒のいちばん厳しいところは過ぎていた。
短い家の名なら、一度か二度聞けば音が取れる。見たことのある名なら、紙の中から拾えるようになっていた。
長い名と、初めて出る名は、やはり聞き返す。書き手が変われば、同じ名でも読めなくなる。
板の間へ来たのは、与三郎ではなかった。名乗らない。用を三つ、順に言った。
「水口へ参れ」
「はあ」
「大宮の市へ出る家と、出ぬ家を調べよ。出る家は何を持ちて行くか。出ぬ家は誰に頼むか」
「はあ」
「家の名と、物と、頼む先を書いて持ち帰れ」
聞いて、分けて、書く。この屋敷でずっとやってきたことだ。
何のために調べるのかは言われなかった。ただ、市へ出る家と出ない家を分けて、出ない家が誰に頼むのかまで書けという。
水口の物が、どの家を通って大宮まで行くのか。それを見たいらしい、と悠人は思った。
「戻りは」
「明日の朝、門に立つ者がいる。その者も大宮へ用がある。水口まではともに行け」
「その先は」
「向こうの用が済めば、水口へ戻る。そこで落ち合うて、一緒に帰れ」
その者が出ていってから、与三郎が紙の束を寄せた。
「墨を持て」
「はあ」
墨壺と筆を布へ包んだ。
「紙は向こうで足りぬ」
「もらってく」
「大宮は、どこにある」
与三郎は筆の先で、北の方を指した。
「富士の麓だ。浅間の宮がある」
浅間。富士宮の浅間大社のあたりだ。子どものころに一度連れて行かれた。鳥居の前の道が、ゆるく下っていたことを覚えている。
翌朝は、久しぶりに強く冷え込んだ。小袖を二枚重ねて、その上へ厚い方を着た。替えの布と、濡れたとき用の脚絆を包みへ入れる。
門の外に男が一人立っていた。
三十前後だろうか。背は悠人よりかなり低い。ただ、肩幅があって、胸も厚い。この屋敷で見る男たちの中でも、かなりがっしりした体つきだった。
屋敷の外を歩く役らしい。
悠人を見る。
「高瀬か」
「はあ」
男は一度頷いた。
「参るぞ」
「はあ」
道へ出ると、前を歩きだす。
来たときと同じだった。前を行く背中があって、その後ろを歩く。
違うのは、行き先が決まっていることと、戻ることも決まっていることだった。前のときは、どこへ連れて行かれるのかも、そこで何をされるのかも知らなかった。
駿府の町を抜けるころには、富士山はもう見えていた。屋根と屋根のあいだから、白くなった上のところだけが出ている。
道は東へ向いた。
家が減るにつれて、隠していたものがなくなった。裾まで出て、そこからは歩くほど大きくなる。夏に見たときより、雪がずっと下まで来ている。
前に来たときは、これが後ろにあった。海のへりが長く伸びて、その向こうに立っていた。振り返らないと見えなかった。
今は、歩けば近づく。
昼を過ぎて、道が海の側へ寄った。
山の斜面がそのまま水へ落ちていて、道はその裾を縫っている。下で波が寄せて、白いところが動いては消える。潮の匂いは、前と同じだった。
濡れた岩の上を、男は迷わずに歩く。悠人は足元を見ながら続いていく。
日の当たらない斜面には、ところどころ白いものが残っている。
前に通ったときは、この道が危ないということも分かっていなかった。
狭いところを抜けると、道はまた平らになる。
家の続くところをいくつか通った。海はまだ右に近い。
日が傾くころ、道沿いに家が増えた。軒下に荷を積み、杭に馬を繋いだ家が並んでいる。
男が一軒の前で足を止める。土間があって、その脇に板敷きの一間があった。
ここは覚えている。
駿府へ連れて行かれたときに泊まった家だ。
家と家の切れ目の向こうに、水が見えた。
海だった。
こんなに近かったのか。
前にここへ来たときは、宿へ入ることしか考えていなかった。海がすぐそこにあることにも気づかなかった。
土間の隅で草鞋を脱ぐと、爪先は冷たいのを通り越して、感覚が薄くなっていた。
男が向かいへ腰を下ろす。
「大宮まで行くんですか」
「さよう」
「何をするんですか」
「市のことを聞く」
「おれと、同じですか」
「違う。そなたは水口で聞け。われは大宮で聞く」
「何を」
「市へ来る物と、人だ」
「……別に、調べるんですか」
「さよう」
同じ市のことを、別の場所から調べるらしい。自分だけに任された仕事ではなかった。
その夜も、着たまま寝た。板の隙間から風が入る。
二日目、朝のうちに川へ出た。
いくつもの流れを越えた先に、まだ水の広がりがある。前に来たときと同じだ。どこからが富士川なのかは、やはり分からない。
対岸から舟が戻ってきて、岸の浅いところで止まった。
「渡る」
男が先に水へ入った。歩幅は変わらない。悠人も草鞋のまま続く。
足を入れた瞬間、冷たいより先に痛かった。脛まで来るころには、息が止まった。骨のあたりを刺されているような感じが、脛から膝へ上がってくる。
舟縁へ手を掛けて、引き上げられた。
上がってからの方が寒かった。濡れた草鞋と脚に、川の上の風が当たる。歯が鳴りかけて、噛みしめて止めた。
向こう岸でも、舟は浅いところで止まる。また水へ降りる。
岸へ上がると、男は荷を下ろして布を出した。足を拭いて、濡れた脚絆を替える。草鞋の紐を締め直し、それから道を少し早く歩いた。
悠人も同じようにする。包みへ入れてきた布と脚絆が、そこで役に立った。
少し行くと、足の指の感覚が戻ってくる。
前に渡ったときは、上がってから何をすればいいのかも知らなかった。
やがて、木々の向こうに見覚えのある屋根が出てくる。
善得寺だ。
前にここにいたころは、ただ大きな寺だと思っていた。
駿府へ行ってから、与三郎に少し教えられた。義元が若いころ、この寺で学んだという。今川家とは縁の深い寺らしい。
その西の囲いにも、見覚えがあった。土の高まりと、溝と、木戸。
前に駿府へ連れて行かれたとき、自分もあそこへ入れられた。あのときは、あそこが何なのか分からなかった。
善得寺城というらしい。
木戸の向こうは、前に通ったときより少し狭く見えた。
昼を過ぎたころ、道が田の間へ下りる。
田は起こしてある途中だった。土が黒く返っていて、その上に霜の残りが白く散っている。畦に人がいて、鍬で縁を叩いていた。次の支度が始まっている。
空が広くなった。駿府では、屋根と塀のあいだにしか空がない。人の声も足音も、いつもどこかで鳴っていた。ここは、鍬が土へ入る音のほかに何もしない。
風の向きが変わると、土と、薪の煙の匂いがした。
見覚えのある曲がりを二つ越えると、水口に出る。
家の数も、屋根の並びも、道の幅も同じだ。どこで段差が来るかまで、歩いた回数の分だけ覚えている。半年ぶりに見て、知らないものが一つもなかった。
遠くの山の形は、もっと前から知っている。四百年違っていても、そこだけは同じだ。
気づくと、歩く速さが少し上がっていた。




