第37話 こっちの話
水口へ入ると、畦にいた男がこちらに気づいて顔を上げた。
見覚えのある顔だった。
悠人を見ると、一瞬、前と同じ顔になった。手が上がりかける。
それから、その手が止まった。
視線が、悠人の少し先へ移る。
道の真ん中に、同行の男が立っていた。腰のものも、草鞋も、袴も、村の者とは違う。
畦の男は、悠人がその男の後ろを歩いているのを見た。
それから、深く頭を下げる。
悠人も下げ返した。歓迎されたのだと思った。
道を進むと、同じことがもう二度起きる。
三度目で、歓迎とは少し違う気がした。
最初に自分を見る。そのあと、少し先を歩く男を見る。頭が下がるのは、そのあとだった。
その相手は、下げたまま道を空けた。悠人が通り過ぎるまで、上げない。
中村の家の手前で、新六に会う。
籠を担いでいる。こちらを向いて、目を丸くする。
その顔を見た途端、妙に懐かしかった。
たった数か月、一緒に田仕事をしていただけだ。それなのに、久しぶりに故郷へ帰ってきたような気がした。自分でも、少し変な感じだった。
新六が笑って、籠を下ろす。
「戻ったのか」
「はあ」
新六の手が、紐から離れる。
「はあ」と返してから、自分の返事が少し気になった。
屋敷では毎日使っているうちに、いつの間にか癖になっていた。水口にいたころ、新六に「はあ」と返したことはなかった。
「……うん。戻った」
言い直すと、新六の口元がまた緩んだ。
「駿府は、どうだ。遠いか」
「うん。ここから二日かかった」
「向こうで、何してる」
「紙を写してる。名を書いたり、聞いたことを書いたり」
新六が少し目を見開く。
「おぬしが、字を書くのか」
「うん。見たことある字なら、少し」
新六が笑った。信じていない顔だった。
新六の言葉は、前より楽に理解できた。長くなければ、もう聞き返さなくても分かる。
「おれは田へ戻る」
新六は籠を担ぎ直した。
「日が落ちたら行く」
そのまま道を折れていった。
中村の家の庭口は、前のままだ。
弥兵衛が土間から出てきた。
一緒に来た男は庭口で足を止めた。弥兵衛を見て、それから悠人を見る。
「これより大宮へ参る。済みたれば、ここへ戻る」
弥兵衛が頷く。
「はあ」
悠人も返した。
男はそのまま道へ戻っていった。
弥兵衛が悠人を見て、一度だけ頷く。
「上がれ」
板の間に座らされて、椀が出た。飯は温かい。菜と、汁と、麦の混じった飯。駿府で出るものとは違うのに、口へ入れると先に手順の方を思い出した。椀の持ち方も、置く場所も、体が覚えている。
食べ終わってから、悠人は言った。
「おれのこと、駿府で決まった」
「聞いた」
「おれに何かあったら、おやかたさまへ話が行く、と言われた」
弥兵衛は椀を置いた。
「そうか」
弥兵衛には、駿府からすでに話が届いているようだった。
弥兵衛は湯を注いで、椀を持ち直す。
日が傾くまで、板の間にいた。弥兵衛は鍬の柄を削りながら、時々こちらを見る。
駿府で何をしているのかを話した。毎朝紙が出てくること。折り目と丸を写すこと。名の字を教わっていること。屋敷の外寄りの一角で寝起きしていること。四百年のことは言わない。
弥兵衛は短く受けるだけだった。それでも、話は続いた。半年前なら、この長さは無理だった。
日が落ちてから、新六が来た。土間へ入ってきて、そのまま板の間の縁へ腰を下ろす。
駿府の話をもう一度した。人の多さ。渡りの向こうの声。正月に、いつもの紙仕事が何日か休みになったこと。新六は笑ったり、聞き返したりした。
こちらからも聞いた。冬のあいだ、雨も雪も少なかったこと。上手の水路で一度小さな揉め事があって、すぐ収まったこと。川下の家で、年寄りが暮れに寝込んだこと。
以前なら、途中で何度も聞き返していたはずだ。それが今は、話が途切れずに続いている。
新六が笑った。
「よう話すようになったな」
そう言って、悠人の肩を一度叩いた。悠人も笑った。
新六が帰ったのは、外がすっかり暗くなってからだった。
その夜は、前に使っていた納屋へ通された。筵も、土の床も、壁板の隙間も同じだ。
板の隙間から入る風は、駿府の板の間より冷たかった。ここで冬を越したことはない。前にいたのは夏までだった。
戸を見た。
母屋の戸が閉まる音がする。それから、少し待つ。
閂の音は来なかった。
厚い方の小袖を着たまま、筵をかぶって丸くなる。歩いた疲れと、久しぶりに喋った疲れで、横になるとすぐに落ちた。
翌日、聞いて回る。
大宮の市へ出る家と、出ない家を教えてほしい、と言うと、たいていは答えてくれた。名も、持って行く物も出てきた。
一軒目は、すぐに名を出した。
「うちは行く。麻と、干した菜」
「いつ」
「市の日だ」
「月に一度か」
「もっとある」
暦の呼び方が分からない。日付では書けない。
「次は、いつ」
男は指を折って数えた。開いた指の数を、悠人は紙の端へ棒で写す。それなら書ける。
ただ、ほかの家のことになると止まる。
「ほかに、行く家は」
「そこまでは知らぬ」
「中村さまに聞け」
前は、皆やへえと呼んでいた。自分に向かって中村さまと言われたのは初めてだった。
村へ入ったとき、同行の男を見てから頭を下げた者たちを思い出す。
変わったのは、弥兵衛ではない。自分に向けられる言葉の方らしい。
そのあとも家を回った。
聞いたことだけ答えて、早く話を終わらせようとする家があった。逆に、こちらが聞いていないことまで話す家もあった。
前は、弥兵衛の家に置かれている余所者だった。今は、駿府から来た男の後ろを歩き、家々のことを聞いて紙に書いている。
自分を今川の側の人間だと思って、警戒している者がいるのだろう。
逆に、話せば駿府まで届くと思っている者もいるのかもしれない。
市へ出る側の家でも聞いた。
「頼まれる分も、あるか」
「ある」
「どれくらい」
「そのときによる」
「決まってないのか」
「積める分までだ」
「積めない分は」
「次の市だ」
男は荷の縄を締め直した。悠人は、聞いたところまでを覚えて離れた。
その次の家は、年寄りの女が一人で出てきた。
「うちは、行かぬ」
「市に」
「遠い。人がおらぬ」
「じゃあ、物は」
「頼む」
誰に、と聞くと、名が二つ出た。さっき縄を締めていた家の名も入っていた。
「持って行ってもらう」
「いつ」
「決まっておらぬ」
「銭は」
「戻る。減って戻る」
減って、というところで声が低くなった。
「どれくらい」
「それも、決まっておらぬ」
女の家には、市へ出る人がいない。だから、市へ行く家へ品を預ける。
いつ持って行ってもらえるかは決まっていない。売れた金は戻ってくるが、いくらか減って戻る。その減る分も、先に決まっているわけではないらしい。
運んでもらった分なのか、売ってもらった分なのか、それとも別の何かなのか。そこまでは分からなかった。
今でいう、手数料みたいなものなのかもしれない。ただ、それならなぜ額が決まっていないのかが分からない。
話が終わりかけたところで、女が言った。
「駿府に、言うてくださるか」
顔が、さっきまでと違っていた。
「聞いたことは、書く。持って帰る。その先は、向こうが決める」
「向こう」
「おれより上の人」
女は少し黙った。
「通るか」
「分からない」
嘘は言わなかった。通るかどうかは本当に知らない。
「書くのが、役か」
「そう。書いて、持って帰る」
女はもう一度頷いて、家の中へ戻った。
夜、また納屋へ入る。
紙を出して、聞いたことを書いた。家の名と、持って行く物。頼む家は左へ、持って行く家は右へ寄せて、あいだに短い棒を引いた。棒は、頼んでいる先の数だけになった。
決まっておらぬ、と言われたところで手が止まった。書く場所がない。名の下へ、言われたとおりに書いた。
書き終えて、墨に蓋をする。
灯りを消してから、外の音を聞いていた。
母屋の戸が閉まる音がして、それきりになった。
二晩目も、閂の音は来ない。
戸を見た。板の隙間の向こうに、庭の暗さがあるだけだ。
朝、庭口で弥兵衛に会った。
「書けたか」
「書けた」
弥兵衛は悠人の手元を見た。紙の束が、来たときより厚くなっている。
「厚うなった」
それから、もう一つ言った。
「あまり、こっちの話を持って行くな」
「……うん」
弥兵衛は田の方へ向きかけた。二、三歩行ってから、振り返らずに言う。
「達者でな」
「うん」
弥兵衛はそのまま田へ下りていく。
昼前、新六が庭口へ来た。
「もう行くのか」
「うん」
新六が片手を上げた。
「また来い」
悠人は笑って、片手を上げ返した。
新六も笑った。それから田の方へ戻っていく。
入れ違いに、来たときの男が庭口に立った。草鞋の泥が乾ききっていない。
「済んだか」
「はあ」
「参るぞ」
その日のうちに村を出た。
弥兵衛は田に出ていた。遠くて顔は見えない。鍬の動きだけが、ほかの者と少し違って見えた。
前を歩く男は、来たときと同じ速さで歩く。
道が一つ曲がると、田が後ろへ回った。
来たときに頭を下げた男が、今日も畦にいた。今度は顔を上げなかった。鍬の先を土へ入れたまま、こちらが通り過ぎるのを待っている。
しばらく行って、悠人は一度だけ振り返った。
富士山が、村の上に立っている。
向き直って、また歩いた。
歩けば、後ろへ下がっていく。
前に一度、同じ道を同じ向きに歩いた。あのときは、この先に何があるのかを何も知らなかった。
書けたのは、家の名と、物と、頼む先まで。減って戻る、というところは、どう書けばいいのか分からないまま置いてある。
道が曲がって、水口の屋根が見えなくなった。
悠人は懐の上から、紙の束を一度押さえた。
前を行く男の背中は、もう先へ進んでいる。




