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第38話 減って戻る

駿府までは、また二日かかった。


同じ道を、今度は反対から歩く。


朝のうちはまだよかった。昼が近づくころには、太腿が重くなってきた。足の裏も熱い。


前を行く男の歩幅は変わらない。


駿府へ来てからは、毎日座って紙を見ていた。歩く仕事ではなかった。


少しずつ、前の背中との間が開く。


このままでは、外へ出るたびに同じことになる。


もう少し、歩くのに慣れないとまずい。


川へ着いたのは、まだ昼には少し早かった。


岸には人と荷が溜まっている。


待った。


舟が向こうへ行く。戻ってくる。次も自分たちではない。


また行って、また戻る。


日が高いところを過ぎても、順は来なかった。


ようやく渡り終えたころには、日はもう傾きはじめていた。


男が西の空を見る。


「由比まで参るつもりであったが、今日はここまでだ。今宵はまた蒲原に泊まる」


蒲原。


行きに泊まった、あそこか。


静岡の、海沿いにそういう地名がある。


岸を上がってしばらく行くと、道の右手に低い山が続いていた。木の切れ目に、斜面を削ったような線が見えた。


「あれは」


男が、こちらの見ている方へ目をやった。


「蒲原の城だ」


もう一度、山を見た。線はすぐ木に隠れた。


その山を右に見ながら進むと、道沿いに家が続きはじめた。


家と家の切れ目に、海が見える。


見た覚えがある。


男が一軒の前で足を止めた。


出てきた家の者へ、短く何か言う。


家の者は男を見て、それから後ろにいる悠人を見た。奥へ声をかける。


返事があった。


家の者が頷いて、土間の方へ手を向けた。


今夜もここでいいらしい。


土間があって、その脇に板敷きの一間がある。


行きにも泊まった家だ。


その前にも、ここで寝ている。駿府へ連れて行かれたときだ。岸を上がったころにはもう日が低くて、足の指の感覚がなくなっている。


あのころは、この場所の名さえ知らなかった。行きに泊まったときも、まだ知らなかった。


同じ板敷きに座って、そう思った。


荷を背負った者が入ってきて、土間の端で草鞋を脱ぐ。外では別の者が馬の背から荷を下ろしていた。縄を解く音に、話し声が重なる。誰の物を、どこまで運ぶのかは、聞こえてこない。


灯りの届く隅で、水口の紙を開く。名も、物も、頼む先も、書いたとおりに残っている。


三枚目の、名前の下。


【減って戻る】


そこで一度、目が止まった。それから紙を巻いて、懐へ入れた。


外では、まだ荷を下ろす音がしている。


屋敷の門をくぐったのは、二日目の夕方だった。


草鞋を脱ぐところは決まっている。荷を置く場所も、そのまま覚えていた。墨壺を布から出して、元の棚へ戻す。どこへ何を置くかを、いちいち思い出さなくていい。手が先に動いた。


庭の木も、桶も、出る前と変わっていない。水へ手を入れると、まだ冷たい。


板の間には、まだ灯りが入っていない。


与三郎が紙の束を寄せているところだった。


「戻ったか」


「はあ」


「書けたか」


「書いた。でも、一つ、書き方が分からなかった」


「明日、出せ」


与三郎はそれ以上聞かなかった。紐を結び直して、束を脇へ置く。


その夜は、いつもの隅へ敷物を広げた。横になると、脚が重かった。二日歩いた分が、そこでまとめて出てきたようだった。


水口の納屋ほど寒くはない。板の隙間から来る風も、あそこより弱い。


厚い小袖を着たまま目を閉じた。


翌朝、呼ばれた。


来たのは、水口へ行けと言った者だった。名は今も知らない。


板の間をいくつか越えた先の、紙と束の多い部屋へ通された。人は三人いて、そのうち二人は自分の手元を見ている。


端に座らされて、紙の束を出した。


与三郎も来ていた。少し離れたところで、自分の紙を広げ、筆を動かしている。


水口へ行けと言った男が紙を受け取り、一枚ずつ見ていく。


家の名。持って行く物。市へ行かない家。頼む先。


左と右に寄せて、あいだへ短い棒を引いてある。棒の数は、頼んでいる先の数だ。


男は一枚目を膝の上で開いたまま、しばらく動かなかった。


「この左は」


「市へ出ない家です」


「右は」


「出る家。麻とか、干した菜を持って行きます」


「棒は」


「頼む家から、頼まれる家へ引きました。棒の数が、頼んでいる先の数です」


男の指が、その棒を一本ずつなぞった。それから紙を裏返して、透かすように光へ向ける。


「この字は、おぬしが書いたか」


「はあ」


「読める」


褒めた声ではなかった。読めるかどうかを確かめただけの声だ。


男は二枚目へ移った。


「行かぬ家は、何ゆえ行かぬ」


「遠い、と。人がおらぬ、と言われました」


「そのほかは」


「あとは、持って行く物が少ないから、と」


男は指で数を追った。行かない家の方が、出る家より多い。


「ここは、皆そうか」


「聞いた分では、そうです」


市の日のところで、また止まった。


「これは何を数えた」


「次の市までの日です。指で数えてもらって、その分の棒を引きました」


「日付は」


「暦の呼び方が分かりませぬ。日では書いておりませぬ」


「聞いた日は」


「水口を出る、前の日です」


男は少し考えてから、紙の端へ自分で何か書き足した。筆の動きは短い。何を書いたのかは読めなかった。


「これでよい」


そこまでは、通った。


頼まれたことはできた、と思った。


紙が三枚目に移ったところで、男の手が止まる。


名前の下に、短い一行が書いてあった。


【減って戻る】


「これは何だ」


「銭です」


「銭が、どうした」


「市へ出ない家が、出る家に品を預けます。売れたら銭が戻る。でも、減って戻る」


「何が減る」


「売れた銭です」


「どれほど」


「決まっていない、と言われました」


男は紙から目を上げた。


「どこで減る」


答えようとして、口が止まった。


預けたところで減るのか。市で減るのか。それとも、戻ってくるあいだのどこかなのか。


どれも、聞いていない。


「……分かりませぬ」


「何で減る」


「それも、分かりませぬ」


「では、この一行で何が分かる」


「売れた銭が、減って戻ることです」


「それのみか」


「……はあ」


それより先は、何も分からない。


紙の上では、家の名も、物も、頼む先も、置く場所が決まっていた。どこへ書けばいいかが分かっていた。この一行だけが、どこにも収まらなかった。


男はもう一度、その一行を見た。


「聞かなんだか」


「どれくらい減るのかは、聞きました。決まっていない、と」


「二度か」


「二度です。持って行く家にも、頼む家にも」


「そのほかは」


言われて、思い出した。


あの家を出るとき、頭の中では考えていた。運んでもらった分なのか、売ってもらった分なのか、それとも別の何かなのか。


考えただけで、口に出さなかった。


そこを聞けばよかったのか。


「……聞いておりませぬ」


男は怒らなかった。紙を膝の上へ置いて、少し黙っていた。


「ならば、それでよい」


顔を上げる。


「知らぬことを、知りたるように書くな」


「はあ」


「知らぬなら、知らぬと書け」


言い方は短かった。叱っているのとは違う。


男は三枚目を、ほかの紙とは別のところへ寄せた。


「上へ回す」


「これ、そのまま」


「そのままだ」


書き足しもせず、直しもしない。【減って戻る】の一行がそのまま残っている。


男が立ち上がったとき、脇の台にもう一つ、紙の束があるのが見えた。括り方が違う。紐の色も違う。


「それは」


「大宮の分だ」


それだけだった。中は開かれない。


水口で聞いたものと、大宮で聞いたものが、同じ台に並んでいる。


板の間へ戻ると、与三郎が紙を出していた。折り目を数えて、丸を写して、名前のあるところへ短い棒を引く。


いつもの束だ。


「どうだった」


「三枚目で止まった」


「直されたか」


「そのままだった」


与三郎は筆を持ち直しただけだった。


悠人も墨を磨った。


さっき別の束へ移された紙を思い出す。


どこで減るのか。何で減るのか。


次に聞くことだけは、分かった。


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