第39話 前からのもの
朝、紙が出てくる。折り目を数えて、丸を写して、名のあるところへ短い棒を引く。それを日が高くなるまで続けて、昼を過ぎたらまた別の束が来る。
その繰り返しで、ずいぶん日が経った。何度目かで数えるのをやめた。
桶に膜が張らなくなってから、しばらくになる。手を入れても、もう冷たいだけだ。朝の白い息も、いつのまにか出なくなっていた。灯りを入れる時間が少しずつ遅くなって、板の間の奥まで日が届く。庭の木は、先が赤いところを通り越して、小さい葉がいくつも出ていた。
読める名も増えた。何度も出てくる家の名は、字を追う前に形として目に入る。読めないものの方がまだずっと多い。それでも、去年の秋に比べれば紙の上はずいぶん静かだ。
紙の数は日によって違う。多い日は昼を過ぎても終わらない。少ない日は昼前に手が空いて、与三郎の脇で束の紐を結び直す。結び目を上へ向ける結び方は、去年のうちに覚えた。同じ手つきを毎日していると、指の方が先に形を出す。
それでも間違える。棒の向きを取り違えて、写し直したことが二度あった。二度目からは、引く前に一度、元の紙を見るようになった。
板の間は、前より広く見える。座る場所は変わっていない。
顔がいくつか見えなくなっていた。いつからいないのかも、はっきりしない。気づいたときには、座っていたあたりに束が積んであった。与三郎の膝の脇にも、自分の分ではない束が一つ寄せてある。
「その人たちは」
「戦へ出た」
「戦」
「さよう」
与三郎はそれきり紐に指をかけた。束の端をそろえて、脇へ寄せる。
そういえば、この何日か、庭の方を走る足音を何度か聞いている。前は朝と夕方だけだったのが、昼にも通るようになっていた。
どこかで戦が起きているらしい。
その日の昼前、縁の向こうで低い声がした。ほとんどは拾えない。
「……かわごえに籠もる者が……」
そこだけ聞こえた。
かわごえ。どこかの地名らしい。さっきの戦と関わりがあるのかもしれない。そこに誰かが籠もっている。それ以上は分からない。
声は途中で切れて、そのあとは足音だけになった。悠人は紙へ目を戻した。
昼を過ぎて、与三郎が紙を一枚広げた。
いつもの書付とは違った。一枚の大きな紙で、字が長く続いている。
字の並びも、悠人が普段扱っているものと同じではない。改まったものらしい、というのは分かる。何が書いてあるのかは分からない。
端に寄せて書かれた名のほかは、読める形が一つもなかった。
その名だけが、見たことのある並びだった。
しばらく手が止まった。声をかけていいものかどうかで迷って、結局かける。
「これ」
与三郎が目を上げた。
「なんだ」
「その端の名前。前にも、見た気がする」
「どこでだ」
「たぶん、何日か前の、短い紙の中にあった」
言ってから、自信がなくなった。同じような字の並びは、ほかにもいくつもある。
与三郎はしばらく紙を見て、それから頷いた。
「あった」
「同じ家なのか」
「そうだ」
それだけでは、どういうことなのかは分からない。悠人は待った。
「前の紙が焼けたと、申してきた」
「焼けた」
「火事でな。それゆえ、この紙を出しておる」
与三郎は紙の端を指で押さえた。
「前より持っておったところを、そのまま持てとある」
悠人はもう一度、その紙を見た。読めるのは名のところだけだ。あとは、字が並んでいるとしか分からない。
要するに、火事で前の書類が焼けた。でも、前から持っていた土地までなくなったわけではない。だから、今までどおり持っていていいと、新しい紙で認め直している。そういうことか。
「前から、持っていた」
「さよう」
与三郎は紙の端をそろえて、脇へ置いた。
丸を写しながら、そのことがしばらく残った。
新しい紙が出た。でも、土地まで新しくなったわけじゃない。
そう考えたところで、自分のことが引っかかった。
去年の冬、氏真の前へ呼ばれた。あのあと、与三郎に言われている。
おぬしに事あらば、おやかたさまへ申す。
そのときは、そういうものか、と思った。それから水口へ行って、弥兵衛に伝えた。おれに何かあったら、おやかたさまへ話が行く、と言われた。弥兵衛は、聞いた、そうか、とだけ返した。
言われた通りに覚えて、言われた通りに水口で伝えた。そこは間違っていないはずだ。
間違っていたかもしれないのは、その先だった。
おやかたさまが預かってくれるのだから、この先に自分が逃げても、しくじっても、弥兵衛や中村の家がそのことで責められることはもうない。頭のどこかで、そう思っていた。
誰かにそう言われたわけではない。
墨をつけ直す手が止まった。筆の墨が薄くなっているのに、しばらく気づかなかった。
「与三郎殿」
「なんだ」
「今、おれが何かしたら、中村の家にも何か行くのか」
与三郎は筆を置いた。膝の上の紙を一度そろえて、こちらを見る。
「今、おぬしを預かるは、おやかたさまだ」
「はあ」
「事あらば、おやかたさまへ申す。去年、そう申した」
そこは分かった。
ただ、中村の方はどうなのかを、まだ聞いていない。
「その前の、水口のときのは」
「どういうことだ」
「水口にいたころ、おれが何かすれば、中村の家にも話が行く、そういうことだった。あれは、今も」
与三郎はしばらく黙っていた。それから、短く言った。
「それは知らぬ」
嘘をついている顔ではなかった。ほかの束を見に行く様子もない。
「誰かに聞けば、分かるのか」
「知る者に聞けば、分かろう」
与三郎は筆を取り直した。
悠人も筆を取った。写しかけていた丸の位置が、少しずれている。
一つは確かめられた。今、自分を預かっているのは氏真だ。そこは去年から変わっていない。
ただ、一つ分からないことが残った。今の自分が何かしたとき、それがまだ中村の家にも及ぶのか。
考えているうちに、もう一つ、これまで数えていなかったものが出てきた。
自分は今、水口で聞いた話を紙にして駿府へ持ち帰っている。書いたものは自分の手を離れる。水口で聞いたことが、自分の紙を通して、屋敷の上の方まで届いていく。
水口を出るとき、弥兵衛が言った。
あまり、こっちの話を持って行くな。
あれは、自分の身のことではなかったのかもしれない。
村の中のことを、何でも駿府へ持って行くな。そういう意味だったのかもしれない。
分からない。あのとき聞き返しもしなかった。
日が長くなった分、夕方の仕事が一つ増えた。灯りが入る前に、その日の束を数えて括る。
日が傾いて、板の間に灯りが入った。
与三郎は紙を巻いて、紐をかけた。前の紙はもうない。それでも、前から持っていた土地までなくなったことにはならないらしい。
悠人は自分の紙へ戻った。
折り目を数える。丸を写す。名のあるところへ短い棒を引く。
一枚目の端に、余りが少しある。
筆先が、一度そこへ向いた。
何も書かずに戻す。
次の紙を引き寄せた。




