第40話 大宮の市
朝の束が来る前に呼ばれた。
通されたのは、前と同じ紙の多い部屋だ。水口へ行けと言った男が筆を置いて、こちらを見る。
「高瀬、大宮へ参れ」
「はあ」
「市の日に、宮の前を見よ」
「はあ」
「水口で聞いた家の品が、市にていずれへ渡るか、見てまいれ」
「はあ」
「銭を受け取るところまで見えたならば、それも書け」
「はあ」
「帰りに水口へ寄れ。市へ出す品を、家でいかに量るか、見てまいれ」
どれも短かった。
「市の日は」
「向こうで聞け」
「はあ」
「明日の朝、前の者が門に立つ。ともに参れ」
前の者。
また、あの人か。
水口へ行ったときも一緒だった。道でも宿でも、先を歩いていたのはあの人だ。
何度も一緒に歩いているのに、名前を知らない。
板の間へ戻って、墨壺と筆を布に包む。水口の紙も懐へ入れた。三枚目の、名前の下の一行は、そのままにしてある。
与三郎が向かいで束を分けていた。
「与三郎殿」
「なんだ」
「明日、一緒に行く人ですけど」
「前にも一緒だった者か」
「はい。あの人、名前は」
「藤次郎だ」
「どう書きますか」
与三郎が紙の端へ三字書いた。
【藤次郎】
藤次郎。字はそのまま読めた。
どこで減るのか。何で減るのか。
聞くことは、もう決まっている。
翌朝、門の外に藤次郎が立っていた。背は低いが、肩と胸が厚い。
「参るぞ」
道は、前に水口へ行ったときと同じだった。日が傾くころ蒲原へ入り、前にも泊まった家に入る。
二日目、朝のうちに富士川を渡った。そこから、前とは違う道を北へ取った。
田は水を張る前で、畦の草が伸びている。歩くほど地面が上がっていく。どこかで水の音がして、それがなかなか途切れない。左手の山が近づき、富士山は、もう見上げる高さにあった。
地形は、知っているものと噛み合っている。山の見え方も、水の多さも、覚えのあるとおりだ。
木立の切れ目から、宮が見えた。
足が止まった。
場所は合っている。子どものころに一度連れて行かれた浅間大社は、このあたりだ。地面の傾きも、記憶と大きくは違わない。
けれど、見えている建物には覚えがなかった。
どれを見ても、記憶の中のものと重ならない。どこがどう違うのかを挙げられるわけではないのに、見た瞬間にそう分かる。
場所は合っている。建物は、覚えがない。
「市は、宮の前ですか」
「さよう」
「前に来たとき、市は」
「立っておらぬ。市の日ではなかった」
「市の日は」
「明日だ」
昼を過ぎたばかりで、日はまだ高い。それでも、その夜は大宮で泊まった。
翌朝、宮の方へ向かう。
宮の前へ近づくと、店がいくつも出ていた。
筵を敷いて物を並べているところもあれば、荷をそのまま下ろしただけのところもある。人の詰まっているあたりと、そうでないあたりがあって、ところどころ、何も置かれていない場所が空いている。
声が多い。いくつも重なって、どれも途中から途中までしか取れない。一つを追いかけると、別の声がかぶさってくる。拾えるのは、物の名らしい短い音が何度も出てくることくらいだった。
「離れるな」
「はあ」
並んでいるのは、干した菜、麻、藁の縄、木の器。魚を運んできた者もいて、そのまわりだけ人が濃い。
藤次郎は、店の並びを端から見ていく。ときどき足を止めて、荷の中を覗いた。
店の間を、袋を提げた者が歩いている。前で立ち止まって、何か言う。相手が銭を出す。受け取って、次へ行く。同じことを繰り返しながら、人の間を進んでいく。
「あれは」
「市の者だ」
「何をしていますか」
「銭を集めておる」
「何の」
「そこまでは知らぬ」
……場所代みたいなものか。祭りの屋台でも、そういう金を払うって聞いたことがある。
でも、何の金かは分からない。
悠人は懐から紙を出して、市へ出ると書いた家の名を目で追った。この家の品が市でどこへ渡るか、それを見てこいと言われている。
その中の一つの家の男が、少し先で荷の縄を締め直していた。水口で一度話した男だった。向こうも顔を上げ、悠人の方で目を止めた。
「駿府の」
「はあ」
聞くなら、今しかない。
「水口で、売れた銭が減って戻ると聞きました。どこで減るか、分かりますか」
水口の男は、縄に手を掛けたまま、こちらを見た。
「何のことだ」
悠人は口を閉じた。
男は荷の上の布を直し、向こう側から呼ばれた声へ返事をする。
しばらくして、その荷が下ろされた。筵へ移すのかと思ったら、そうではない。別の者が来て、荷ごと受け取っていく。二人は短く何か言い合い、それで終わりだった。
受け取った者が、荷を担いで人の間へ入る。
藤次郎は、二軒先で荷の中を覗いていた。悠人はその背中を一度見てから、人の間へ入った。
背中は、二列ばかり先にあった。荷の上の縄が、人の頭より高いところで揺れている。近づこうとすると前を横切る者があって、そのたびに足が止まった。売り手の声と荷を下ろす音のあいだを、縄だけが進んでいく。
魚のまわりの人だかりで、見えなくなった。
回り込んで、宮の方まで出た。同じ形の荷はいくつもある。担いでいる者の背格好も、どれも似ていた。もう一度、人の濃いところまで戻ってみたが、見つからない。
戻ると、藤次郎はさっきの店の前にいた。こちらを見て、また荷へ目を落とす。
水口の男は、荷のあったところへ腰を下ろしていた。
「さっき荷を持って行った者は、どこの者ですか」
「大宮の者だ」
「名は」
「とうごろうだ」
「いつも、あの者が」
「おおかた、あの者だ」
男は筵の端を引いて、皺を伸ばしはじめた。
人の少ない方まで歩いた。筵が敷いてあるのに、何も置かれていないところがある。
「ここは」
「出るはずの者が、来ておらぬ」
「何かありましたか」
「東へ戦に出たまま、戻らぬそうだ」
「戦に……?」
藤次郎は、もう別の店の方を見ていた。
悠人もそちらへ歩いた。
日が高くなった。人の出入りが落ち着いて、声の重なり方が少し変わる。
水口の男のところへ戻った。まだ同じ場所にいる。誰かと向かい合って、手を出していた。相手の顔は、人に隠れて見えない。
水口の男の手に、金が渡った。
相手はすぐに離れて、人の間へ入っていく。
悠人は近づいた。
「今の銭は、さっきの荷の分ですか」
男は掌の中を見たまま、指で数えている。
「今日の分だ」
「さっきの荷の分も、その中ですか」
「入っておる」
「ほかの分も、入っていますか」
男は数え終えて、金を懐へ入れた。
「いちいち分けぬ」
さっき渡した荷の分は、この中にある。どれがその分なのかは、分けられていない。
渡したあとで、金を受け取っている。そのあいだのことは、追った先で切れたままだ。
そこへ、袋を提げた者が来た。朝から店の間を回っていた者だ。
短く何か言う。水口の男は懐へ手を入れて、いくらか渡した。
「今の銭は、何ですか」
「市へ出す分だ」
「幾らですか」
男は懐の口を締めながら答えた。
「今日は五文だ」
「いつも同じですか」
「その時による」
「前からですか」
「前から払うておる」
……これも、減る分なのか。
一軒で、一度見ただけだ。この金が、水口へ戻る金とどうつながっているのかは、見ていない。
少し離れたところで、声が高くなった。二人が向かい合って、片方が地面を指し、片方が首を振る。
何を言っているかまでは取れない。場所のことで揉めているようだ。周りの店の者が間へ入って腕を引くと、言い争う声はすぐに収まった。
空いているところは、さっきから空いたままだ。
場所なんて、早く来た者から順に取ればいいんじゃないのか。
そう思ったところで、荷を担いだ者が、その空いた場所へ入ろうとした。
隣の店から声が飛ぶ。若い者が二人出てきて、荷の前へ立った。担いでいた者は何か言い返したが、担ぎ直して離れていく。
しばらくして、別の者が来た。同じ場所へ荷を下ろす。筵を広げて、物を並べはじめた。
誰も止めない。
空いているところを、早く来た者から取るわけでもないらしい。誰でも好きなところに立てるわけではなく、何か前からの決まりがあるようだった。
藤次郎は、少し離れたところに立っていた。悠人は、荷が下ろされたばかりの場所を見たまま聞いた。
「このあたり、誰が立つか、決まっていますか」
「思うままには立てぬ」
「誰が決めますか」
「知らぬ。前よりそうだ」
日が傾きはじめたころ、少し離れた木の下に腰を下ろして紙を広げた。日の当たるところで、地面がまだ温かい。布を開き、墨壺と筆を出す。
書き方を先に決めた。人は丸、場所は四角。荷や金が動いたところは、その向きへ矢印を引く。矢印のそばには、荷か金かを書く。見ていないところには矢印を引かない。相手が誰か分からなくても、その人がいたことを見たのなら丸を置いて、名の代わりに【不明】と書く。渡った先そのものを見ていないときは、丸を置かず、矢印の先へ【不明】とだけ書く。
紙の左へ丸を一つ。水口の男だ。脇に家の名を書く。
その右へ、もう一つ。荷を受け取った男だ。名は音しか知らないから、仮名のまま脇へ置いた。
【とうごろう】
脇に、聞いたことを添える。
【大宮の者。荷はおおかた、とうごろうへ渡す】
水口の男の丸から、とうごろうの丸へ矢印を引いた。そばに書く。
【荷】
とうごろうの丸から、同じ向きへもう一本、矢印を伸ばした。荷を持って人の中へ入るところまでは見ている。
矢印の先へ書いた。
【不明】
追えたのは、そこまでだった。
少し離して、もう一つ丸を置く。あとで男の手に金を渡した相手だ。顔は人に隠れて見えなかった。
【不明】
その丸から、水口の男の丸へ矢印を引く。
【銭】
矢印のそばへ、聞いたことを添えた。
【今日の分。荷の分も入る。分けられていない】
水口の男の丸から、下へもう一本引いて、その先に丸を置く。
【銭】
丸の脇へ、朝から見ていたことと、さっき聞いた言葉を並べる。
【市の者】
【店を回って銭を集める】
【市へ出す分。今日は五文】
【その時による】
【前から払うておる】
紙の端には四角を一つ。空いているのに荷を下ろそうとした者が、止められた場所だ。その脇へ、聞いた言葉をそのまま書く。
【思うままには立てぬ】
四角の下に、書き足した。
【決める者、不明】
筆を置くと、市の音が変わっている。
筵が巻かれ、荷が縄で締められていく。空になった台が運ばれ、売れ残りが袋へ戻される。声の重なりは、端の方から薄くなっていった。
人がいなくなったあとには、何も残っていない。止められた場所も、止められなかった場所も、同じ地面に見えた。
悠人は、紙の上の矢印をもう一度たどる。
水口から来た荷は、とうごろうへ渡り、その先へ運ばれていった。追えたのは、そこまでだ。
あとで、誰かの手から水口の男へ金が戻ってきた。その中には、さっきの荷の分も入っている。
そして水口の男からは、市の者へも金が出ていった。
荷は先へ行く。金は戻ってくる。その途中で、出ていく金もある。
ここまでは、分かった。
今日、市の者へ渡ったのは五文だった。ただ、それが水口へ戻る金から引かれているのかは、まだ分からない。
結局、水口へ戻る金が、どこで、何の分として、いくら減るのか。
まだ、つながっていない。




