第41話 一升
市の翌朝、宮の前に店はなかった。地面に、筵の跡だけが残っている。
藤次郎は、道の分かれるところで足を止めた。
「ここからは、別に動く」
「はあ」
「高瀬は水口へ参れ。前に聞いた家を回れ。市へ出す米や稗を、どれほどずつにして出すか見よ」
「はあ」
「水口が済んだれば、善得寺へ回れ」
藤次郎は南の方を指した。
「今宵の宿は、寺へ話を通してある」
「はあ」
藤次郎は懐から折った紙を一枚出した。
「これを、城の番の者に渡せ。村を知る者を付けよと、書いてある」
悠人は紙を受け取って、懐へ入れた。
「こちらは大宮に残る。受け取る側が、いかに量るかを見る」
「明日の朝、善得寺で落ち合う」
そう言うと、藤次郎は宮の方へ戻っていった。
一人になった。
道は、二日前に上ってきた道だ。下って、南へ取ればいい。
市へ出す品を、家でどう量るか。今度は、市へ出る前を見る。
下りが続いた。上ってきたときは足の裏で地面を押していたのに、今日は膝の方に来る。行きに左手を塞いでいた山が離れ、しばらく行くと、富士山は背中の方へ回っていた。
昼を回ったころ、見覚えのある田の並びが見えてきた。
日は、まだ高いところにある。
村へ入ると、畦に人が出ていた。鍬の先が土へ入る音が、道の両側から聞こえてくる。田のあいだに、小さな畠が挟まっている。畦の男が顔を上げた。目が合って、それだけだった。
懐の紙には、前に聞いて回った家の名と、物が並んでいる。米と稗のある家を拾う。
どれくらいを一つとして、市へ出すのか。それを見ればいいらしい。
一軒目は、市へは行かぬと言っていた家だった。
出てきたのは、前と同じ年寄りの女だった。悠人の顔を見て、少し目を止める。
「駿府には、言うたか」
「書いて、持って帰りました」
「そうか」
女はそれだけ言って、土間の方へ下がった。板の上に、口を開けた袋がある。
「これは」
「ひえだ」
紙には前にも【ひえ】と書いた。実物をこうして見るのは初めてだった。
「市へ持って行ってもらうとき、どうやって分けますか」
女は袋の脇から升を取って、掬ってみせた。
「これは、一升ですか」
「さよう」
「ほかにも、ありますか」
「これきりだ」
「その稗は、どこの家が持って行きますか」
女が挙げた名の一つは、悠人の紙にも書いてある家だった。市で荷の縄を締め直していた男の家だ。
紙を出して、書いた。
【水口 一軒目。預ける家。稗を一升の升で量る。升は一つ】
二軒目は、米を市へ出す家だった。断って土間へ入る。
框の上に、升が二つ並んでいた。
「これは、一升ですか」
「さよう」
もう一つを指す。
「これも」
「さよう」
並べてあるから、大きさの違いは見て分かる。片方の縁が、ひとまわり外へ出ている。
「今、量る米はありますか」
「もう済んだ」
隅の袋は口を締めて、縄がかけてある。市へ出す分は、もう分けたあとらしい。升も、どちらも空だった。
見た目は違う。それだけでは、確かめたことにならない。
書き足した。
【水口 二軒目。市へ出る家。米。一升、二つ】
【大きさが違うように見える。入る量、不明】
三軒目は、道から少し入ったところにある。市で荷の縄を締め直していた男の家であり、さっきの女が稗を預ける先でもある。庭口は道より一段低い。
声をかけると、四十くらいの女が出てきた。袖を肘まで上げて、手を拭きながらだった。
「駿府から参った、高瀬です。前に市のことで聞きました」
「聞いておる」
「昨日、大宮でこちらの人に会いました」
「まだ戻らぬ」
「市へ出す品を、どう分けるか、見せてもらえますか」
「また市のことか」
「はい」
女は土間の方へ顎を向けた。
「よい。そこから見ておれ」
悠人は土間へ入り、隅に寄った。
外から入ると、土間は暗かった。目が慣れるまで少しかかる。奥の板の間には、誰もいない。
真ん中に袋が置いてあって、女はその前にしゃがんでいる。升で稗を掬い、脇の桶へあける。掬って、入れて、あける。同じ動きが続いた。
掬うたびに、乾いた音がする。
動いているのは、手首から先だけだった。
悠人は壁に背を預けたまま、その手を目で追った。見てこいと言われたのは、この手つきだ。
戸口から入る光が、土間に敷かれた板のところまで伸びている。桶の中身は、掬うたびに上がっていった。
はじめは、一つの升を使っているのだと思っていた。
板の上に、もう一つ置いてある。
また二つだ。二軒目と同じものとは限らない。
手のものと、板の上のもの。並べて比べなくても、大きさが違うのは見て分かった。
持ち替えているのでもない。使っているのは、手にした方だけだ。
手が動いているあいだは、そのまま待つ。
女の手が止まったところで、悠人は近づいた。袋の中を覗く。
「ひえですか」
「さよう」
手の升を指す。
「これは、一升ですか」
「さよう」
板の上の升へ目を移す。手のものより、ひと回り小さい。
「これも、一升ですか」
「さよう」
……どっちも一升なのに、大きさが違う。
女は手を戻して、また袋の中身を掬った。大きい方の升へ入れる。中身が縁のところまで来て、手が止まる。縁より上へ、山のように盛り上がってはいない。
他人の家の、途中の仕事だ。悠人は升へ伸ばしかけた手を、一度引いた。
それから、その升と、板の上の小さい方を順に指す。
「これ、こっちへ移してもいいですか」
女が顔を上げる。
「よい」
小さい方を引き寄せて、中を覗いた。空だ。板の上の、平らなところへ置き直す。
大きい方の升を両手で持ち上げた。思っていたより重い。持ち上げた拍子に中身が寄って、面が少し傾いた。角のところへ指をかけ、小さい方の上で戻してから、ゆっくり傾ける。
中身が落ちていく。落ちた先が真ん中から盛り上がって、それがその重みで崩れ、四隅まで広がった。
小さい方の縁まで来たところで、悠人は手を止めた。
大きい方には、まだ残っている。
入りきらない。
升を持ったまま、しばらく動かなかった。
「もう一度、いいですか」
女が頷いた。
悠人は中身を戻して、もう一度やってみる。
今度も、小さい方がいっぱいになって、大きい方に残った。
女は、それを見ても特に顔を変えなかった。桶を膝の方へ寄せて、待っている。
悠人は、二つの升の中身を袋へ戻した。
「前から、二つですか」
「さよう。前からこうだ」
女は袋の口を広げ直して、また中身を掬いはじめる。乾いた音が、同じ間で戻ってきた。
悠人は升を板の上へ並べて置いた。指の腹についた細かい粉を、手を打ち合わせて落とす。
二つとも一升なのに、入る量が違う。
並んだ二つを、もう一度見た。
どちらも、縁が擦れて丸くなっている。角の立っているところがない。大きい方の縁が、小さい方の縁より外へ出ている。指でなぞると、木の目が浮いていた。外側だけ、色が濃い。底の内側は、中身の当たるあたりだけ滑らかになっている。
どちらも、新しく作られたものには見えなかった。
悠人は懐から紙を出した。布を開いて、墨壺と筆を出す。蓋を取ると、墨はまだ湿っている。筆の腹を壺の縁で押さえて、余りを落とした。戸口の光の届くところまで寄り、まだ何も書いていない一枚を選んで板の上に広げ、端を左手で押さえる。
紙に、短く書いた。
【水口 三軒目。市へ出る家。稗を一升の升で量る】
【二つとも、一升】
【大きい方から、小さい方へ移す】
【入りきらない】
筆を置いて、上から一度読み返す。墨の乗りの薄いところを、一度だけなぞり直した。
同じ一升でも、どちらの升を使うかで、渡す量は変わる。
大宮では、荷が男の手から別の者の手へ渡っていた。人へ渡すときは、どっちの一升で量るんだ。
墨が乾くのを待ってから、紙を巻いて懐へ入れた。
板の上には、升が二つ並んだままだ。片方が、もう片方より少し大きい。
礼を言って、土間を出た。日は傾きかけている。急げば、暗くなる前に善得寺へ着く。
田を下っていくと、林の切れ目に大きな屋根が見えた。その手前で西へ折れる。道の先に、柵と土の高まりがあった。
木戸の内から、槍を持った者が出てくる。
悠人は書付を出した。
「駿府から参りました」
番の者は紙を開いて、しばらく見ていた。それから奥へ声をかける。出てきた男が、書付をもう一度見た。
「村を知る者を呼ぶ。しばし待て」
待つほどもなく、年のいった男が来て、先に立って歩き出した。
道は寺の東へ回って、田の中へ入る。案内の者は一軒の前で足を止める。
出てきた痩せた男へ、短く何か言う。それから悠人の方を見て、頷いた。
土間の造りは、水口と似ていた。真ん中に袋があって、男がその前にしゃがんでいる。稗を掬って、桶へあける。
升は、一つだった。
「これは、一升ですか」
「さよう」
「ほかにも、升はありますか」
「これひとつだ」
板の上にも、柱の脇にも、ほかの升はない。
「前から、一つですか」
「前からこうだ」
「ほかの家も、一升は一つですか」
「升で量る物は、このあたりでは、みな同じ升だ」
「誰が決めますか」
男は袋の口を締め直した。
「知らぬ。前からこれだ」
悠人は、戸口の外で待っている案内の者を見た。
「もう一軒、見てもいいですか」
案内の者は頷いて、また先に立った。
二軒目は、田を挟んだ向こう側にあった。ここでは米を升で量っていて、その升は一つきりだ。家の女も、同じように一升と呼んだ。
紙を出して、書き足した。
【善得寺 二軒。稗と米を升で量る。どちらも一升は一つ】
【升で量る物は皆同じ升、と言う】
【水口の升とは、比べていない】
どの升も、並べて比べてはいない。同じだというのは、聞いた話だ。
寺へ戻ったころには、日が落ちていた。
書付を見せると、若い僧が奥の一間へ通した。板の間に、灯りが一つ置かれる。
その灯りの下で、紙を広げ直す。
水口で三軒。市へは行かぬ家は、稗を一升の升で量って預けていた。升は一つ。
市へ出す二軒には、どちらも一升と呼ばれる升が二つあった。そのうち一軒——さっきの稗を預かる家で、実際に移してみた。入りきらなかった。
三軒では、まだ何とも言えない。
善得寺では、二軒とも升は一つだった。升で量る物は、このあたりでは皆同じ升だ、と言う。
同じ一升でも、水口と善得寺では扱いが違う。
そこまでは分かった。なぜ違うのかは、まだ分からない。
手元には、紙しかない。
明日の朝、大宮から藤次郎が来る。




