第42話 向こうの升
目が覚めたとき、板戸の隙間はまだ薄かった。
寺の朝は早い。奥の方で鐘が鳴り、そのあと足音がいくつも廊下を通っていく。板の間は冷えていて、掛けていた小袖の内側だけが温かかった。
悠人は起き上がって、灯りの残りを消した。戸を細く開けると、外はまだ青い。井戸のあたりで水を汲む音がして、それが一度止んで、また始まる。
膝の上へ紙を広げる。
昨日書いたものを、上から順に読み返した。水口の三軒。善得寺の二軒。書いた順のままでは、話しにくい。
出す方の家が、どれくらいずつにして市へ出すか。見てこいと言われたのは、それだ。
升の数と、移してみた結果。まず言うのは、その二つでいい。ほかは聞かれてから答える。
もう一度、上から目で追う。抜けているところはない。確かめられなかったところは、確かめられなかったままにしてある。
昨日は、一軒ごとにその場で書き足していった。書いたものを並べ直したことは、まだない。
戸口の外が明るくなってから、敷いていたものを畳んで隅へ寄せた。板の間には、灯りの跡が黒く残っていた。
若い僧が呼びに来る。
門の前に、藤次郎が立っていた。
草鞋の紐が濡れている。袴の裾に、乾ききっていない土が跳ねていた。空はまだ低いところが白いだけで、田の向こうの林は黒い。
「いつ出ましたか」
「暗いうちだ。見たか」
悠人は懐から紙を出した。藤次郎は門の脇の石へ腰を下ろす。
「水口で三軒、善得寺で二軒、見ました」
「言え」
「一軒目は、市へ行かない家です。品はほかの家へ預けます。そこの升は、一つでした」
男は紙を見ない。悠人の顔を見ている。
「あとの二軒は、市へ出す家です。どちらにも、一升と呼ぶ升が二つありました」
「預けた先は」
「二つある方の一軒です。預ける家で聞いて、その名が出ました」
男の目が、一度だけ動いた。
「続けよ」
「二つある家の一軒で、大きい方から小さい方へ移してみました。入りきりませんでした。二度やって、二度とも同じです」
「どれほど残った」
「量っていません。ただ、見たところ、手で一度掬っても余りそうなくらいは残っていました。見たのは、そこまでです」
男は道の方へ目をやって、また戻した。
「もう一軒の方は、升が二つ並んでいるのを見ました。中身がなくて、移していません」
「そうか」
「三軒は、みな同じ物を出すのか」
「いえ。稗を出す家と、米を出す家がありました。預ける家は、稗です」
「升で量るのは」
「稗の二軒は、量るところを見ました。米の家は、升が置いてあるのを見ています」
「善得寺は」
「二軒とも、升は一つでした。升で量る物は、このあたりでは、みな同じ升だと言われました」
「誰がそう言うた」
「家の者です。誰が決めたかは、知らぬ、前からこれだ、と」
「並べたか」
意味は、すぐに分かった。
「並べていません。水口の升は、置いてきました」
男は短く頷いた。
「こちらも言う」
男は膝の上で手を組んだ。
「大宮で、荷を渡すところを幾つか見た」
「幾つですか」
「数えた分では、六つか七つだ。ただ、渡すところを見たまでで、そのあとは人に隠れる」
宮の前の混み方は、悠人も見ている。一つを追うと、別の背中がかぶさってくる。
「升まで出たのは、二つだ。近くに立てたのが、その二つだった」
「升は、どちらが出しましたか」
「受ける方だ」
「二つとも、ですか」
「見た二つはな」
「ほかは」
「量るところまでは、見えなんだ」
「その升は、一升ですか」
「聞いた。二つとも一升と言うた」
「その二つは、どんなふうにしていましたか」
男は指で、石の上へ順を置くように動かした。
「荷を下ろして、縄を解く。受ける方が升を出して、袋から移す。移した分を、また別の袋へ入れる。二つとも、そうだった」
「受ける方は、同じ人でしたか」
「別だ」
「そのあいだ、何か言い合っていましたか」
「言うておった。遠うて、聞こえぬ」
「その二つの升は、同じ大きさでしたか」
「並べておらぬ」
同じ言葉が返ってきた。
悠人は、聞いたところを口の中でもう一度並べ直す。
少なくとも、藤次郎が見た二つでは、升を出したのは受ける側だった。
水口では、出す家に二つあった。善得寺では一つ。
大宮で見えた二つでは、受ける方から出た。
三つのところで、一升と聞いた。それが同じものなのかどうか。そこが、まだ分からない。
同じ升を使えばいいんじゃないのか。
……でも、どれを?
水口で見た二つは、どちらも縁が擦れて丸かった。どちらが正しいと言われたわけではない。善得寺の升とも、並べていない。
そこで止まった。
藤次郎が言った。
「大宮で見た分も、おぬしが書け」
それだけ言って、門の柱に背を預けた。
悠人は布を開いて、まだ何も書いていない一枚を石の端へ広げた。墨壺の蓋を取る。昨日より、中身が浅くなっていた。
書き方は、前と同じでいい。確かめたことだけを書く。
ただ、昨日までは、一つの場所で見たものを上から順に並べていた。今日は二人分ある。
紙を横に使うことにした。出す方を左へ、受ける方を右へ。
書き出す前に、一度手が止まった。大宮の分を水口と同じ並びに置けば、上から下へ読んだときに、そのままつながって見える。
少し離して、右の端へ寄せることにした。
左の上に書いた。
【水口 出す方】
その下へ、家ごとに短く並べる。
【三軒。升一つが一軒、二つが二軒】
【稗を出す家と、米を出す家。どれも升で量る】
【升一つの家は、品を預ける家】
【預けた先は、升二つの家】
【升二つの家の一軒で、大きい方から小さい方へ移す。入りきらない】
少し下げて、もう一つ。
【善得寺 出す方】
【二軒。どちらも升一つ】
【升で量る物は皆同じ升、と言う】
【誰が決めたかは、不明】
【水口の升とは、比べていない】
筆を持ち替えて、紙の右へ移る。
【大宮 受ける方】
その下へ、聞いたとおりに書いた。
【見た二つ。受ける方が升を出す】
【二つとも、一升と言う】
【ほかは、量るところ、不明】
左と右のあいだは、空けておいた。線は引かない。同じ升かどうかを、確かめていない。
筆を置いて、左から右へ一度読み返した。
書いたのは、見たことと、聞いたことだけだ。どちらなのかが分かるように、聞いた話の方には、言われたとおりの言い方を残してある。
「一升」という言葉を、三つのところで聞いた。並べたことは、一度もない。
男が横から紙を覗き込んだ。しばらく見てから、あいだの空いたところへ指を置く。
「ここが空いておるな」
「そこは、確かめていません」
男は指を離した。石の上に、朝の光が伸びてきている。
墨が乾くのを待つあいだ、寺の方からまた水を汲む音が聞こえてきた。朝のうちに一度止んだ音だ。
藤次郎が石から腰を上げた。
「参るぞ」
悠人は紙の端に触れて、乾いているのを確かめた。折り目が字にかからないように畳み、ほかの束と一緒に布へ包む。懐へ入れると、胸の前が少し厚くなった。
門を出て、道を下る。一度振り返ったとき、屋根の反りは木の間に隠れて、それきり見えなくなった。
日が上がるにつれて、袴の裾が乾いていった。男の足は速い。荷は男が背負っている。悠人が持っているのは紙だけだ。
「今日は、どこまで行きますか」
「行けるところまでだ」
道は川筋を離れて、林の縁を回っていく。荷を負った者と何度かすれ違った。前から来る者の方が多い。
昼を過ぎたころ、男が足を止めた。
「休め」
道の脇の石へ座って、竹筒の水を飲んだ。男は立ったまま、道の先を見ている。
「明日は」
「昼には着く」
歩き出すと、足の裏がさっきより重かった。
日が傾いて道の色が変わるころ、その日の宿へ入った。土間で草鞋を脱ぐ。指の間に土が入り込んでいる。
膳が出て、下げられた。小さな灯が一つ残る。男は先に横になった。
悠人は布を開いて、朝の一枚を灯の下へ広げた。
左に、水口と善得寺。出す方。
右に、大宮。受ける方。
そのあいだには、何も書かなかった。
まだ、書けることがなかった。




