第43話 請け人
朝、まだ暗いうちに宿を出た。
道は昨日より広く、人も多い。荷を負った者が前から来るたび、脇へ寄って行き過ぎる。藤次郎の足は昨日と変わらない。
日が高くなるころ、一度足を止めた。水を飲んでから、また歩く。道の両側に家が続くようになった。
昼前に、駿府へ入る。
門をくぐったところで、藤次郎が立ち止まった。
「わしはこれまでだ」
「はあ」
藤次郎は荷を背負い直して、渡りの向こうへ入っていく。振り返らない。悠人は板の間へ戻り、懐の紙を出して、束の上へ重ねた。
昼を過ぎて、呼ばれた。
紙と束の多い部屋だ。前と同じで、人は三人いる。二人は自分の手元を見ている。
来たのは、水口へ行けと言った者だった。名は今も知らない。
紙を一枚出す。左に水口と善得寺、右に大宮を置いて、あいだを空けてある。
男は膝の上でそれを開いたまま、しばらく動かなかった。
「この右は」
「大宮です。品を受け取る方を、見た分だけ書きました」
「見た分と申すは」
「升まで見えたのは、二つです。ほかは、量るところまで見えていません」
「おぬしが見たか」
「いえ。藤次郎殿が、大宮で見ました。それを聞いて書きました」
「左は」
「左は、おれが見ました」
男の指が、右の行を上から下へなぞる。それから左へ戻った。
「この、入りきらぬというのは」
「水口の家で、大きい方から小さい方へ移してみました。二度やって、二度とも同じです」
「量ったか」
「量っていません。見たままです」
「三つとも、一升と申したか」
「はい。聞いた分では、そうです」
「並べたか」
「並べていません」
男が紙から目を上げた。
「ならば、それでよい」
紙は畳まれて、脇の束へ入った。
「上へ回す」
そこまでで終わりだと思った。男はもう次の束へ手を伸ばしている。
「次は、人のことだ」
顔を上げた。
「市へ出る者について、請け合う者がおれば、その名を聞いて書け」
うけあう。
聞いたことのない言い方だった。
「おれば、書け。おらねば、おらぬと書け」
「はあ」
男はそれきり手元へ戻った。
板の間へ戻ると、与三郎が硯を出していた。
「与三郎殿」
「なんだ」
「うけあう、というのは」
与三郎は筆を置かずに答えた。
「その者が果たせぬとき、代わって引き受ける者だ」
「その人の代わりに?」
「さよう」
「何を」
「それは、約束による」
「うけにんと申す」
うけにん。口の中で一度繰り返す。
「どう書きますか」
与三郎が紙の端へ二字書いた。
【請人】
見れば、字そのものは知っていた。そう読むとは知らなかった。
「頼むときは、どうしますか」
「そのつどだ。銭を借りる、物を預ける、そういうときに立てる」
「ずっと、ではないのですか」
「約束が済めば、それきりだ」
筆を持ったまま、手が止まった。
水口で、品を市まで持って行ってもらっていたのとは違うらしい。あれは、品を預ける相手だった。請人は、約束を果たせないときに、その代わりを引き受ける者らしい。
水口にいたころ、自分が何かすれば中村の家にも話が行く、と言われていた。去年この屋敷で言われたことも、続けて浮かぶ。おやかたさまが預かる、事あらば申す。
同じものなのかは、分からない。
「与三郎殿」
「なんだ」
「おやかたさまは、どう書きますか」
与三郎が、さっきの二字の下へ書き足した。
【御屋形様】
御。屋。形。様。
どれも知っている字だった。
夕方近く、渡りの方から二人来た。
前を歩いているのは年かさの女で、後ろにもう一人いる。
前にも見た女だった。直接聞けないのか、と口を挟んで、きっぱり断られたことがある。正月に小袖が下されたときにも、うしろで布を畳んでいた。
用は与三郎の方だった。年かさの女が短く言い、与三郎が受ける。
それから、年かさの女が半分だけ振り返った。
「ちよ。それを」
後ろの女が包みを前へ出した。年かさの女がそれを受け取って、与三郎の前へ置く。結んであった紐は、置く前にほどかれていた。
二人は膝を引いて、来た方へ戻っていった。
あの若いほうの女は、ちよというらしい。
翌朝、与三郎が紙を一枚寄せてきた。
四人の名と、その用向きが書いてある。名は二つしか読めなかった。
「今日、来る者だ」
「読めません」
与三郎が上から順に、誰なのかを教えた。紙を出す家、麻を出す家、菜を干して出す家、それに町の者が一人。町の者は、大宮へ品を回しているらしい。
「これを、聞くのか」
「そう申しつかっておる」
昼までに、三人来た。
紙を出す家の者は、腰の低い男だった。
「請人は、いますか」
「おる」
「名は」
「きへえと申す」
「きへえは、どこの者ですか」
「同じ町の者だ。長いこと、そうしておる」
「何のときに、請け合いますか」
「知らぬ。わしが継いだときには、もうきへえだった」
麻を出す家からは、若い男が来た。問いを一度で取って、すぐに首を振る。
「おらぬ」
「一人も、いませんか」
「そのような者はおらぬ。誰にも頼んでおらぬ」
「前からですか」
「前からだ。うちは麻を持って行って、その日に銭になる。それきりだ」
三人目は、年のいった男だった。
「請人は、いますか」
「わしは前からここへ出ておる」
答えになっていない。
悠人は言い直した。
「その、代わって引き受ける者は、いますか」
「知らぬ」
「誰かに聞けば、分かりますか」
「家の者に聞かねば分からぬ」
男はそれで立った。用は別にあったらしく、与三郎へ短く何か言って、出ていった。
町の者が来たのは、日が傾きかけたころだった。
「請人は、いますか」
「おる」
「名は」
早口で、取れなかった。
「もう一度、ゆっくり言ってください」
男は面倒がらずに、今度は区切って言い直した。じんざ、と聞こえた。
「じんざは、いつも請け合いますか」
「いつもではない。銭を借りたときだ」
「品を出すときは」
「立てておらぬ」
墨を磨り直した。
町の者は、銭を借りたときに立てると言った。品を出すときには立てていない。
麻の家も、請人はいないと言った。それでも、市へは出ている。
何のために聞いているのかは、聞いていない。
家ごとに一行。何を出す家かを先に置いて、そのあとへ、請人のことを書く。大宮のことを書いたときと同じで、確かめた分と、確かめていない分は離しておく。
おらぬ、と言われたのと、聞いても分からなかったのとは、同じではない。同じ書き方にはできない。
【紙を出す家。請人、きへえ。何のときか、不明】
【麻を出す家。請人、なし】
【菜を出す家。請人、不明】
【町の者。品を出すとき、請人、なし。銭を借りたとき、請人、じんざ】
きへえとじんざは、聞いた音のまま書いた。
暮れ方になって、渡りの向こうが急に騒がしくなった。
戸が続けて鳴って、人が呼ばれていく。廊下を走る足音は一つではなかった。何度か名が飛び、そのあいだに知らない音が混じる。
「……岡崎が……」
「……くらんどのすけが……」
何のことかは分からなかった。
ただ、何かあったことだけは分かる。
渡りの方で、誰かが呼ばれる。返事がして、足音がそちらへ寄っていった。別のところでも戸が開く。紙の束を抱えた者が、板の間の前を足早に通り過ぎた。走ってはいない。それでも、いつもの歩き方ではなかった。
声は短くなっている。そのぶん、一つ一つが大きい。
前にも、こういうことがあった。人が減っていると思った日だ。戦へ出た、と与三郎が言った。あのときも、屋敷の中の動き方が急に変わった。
今度も、少し似ている。
朝から隣で書いていた者が呼ばれて、筆と紙を置いたまま出ていった。硯の墨は、まだ乾いていない。
しばらく待ったが、戻ってこない。
……何があったんだ。
悠人は与三郎を見た。与三郎は自分の手元から目を上げない。
悠人も、もう一度墨をつけた。
書き終えて、上から見た。
四行ある。
名を書いたところ。【なし】と書いたところ。【不明】と書いたところ。
一行に、二つ入っているものもある。




