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第8話 椀の重さ

朝、閂の外れる音より先に、母屋の物音で目が覚めた。


腹の奥が差し込み、続いて、ぐるりと鳴った。いつもの便意とは違う。急で、腹の中が落ち着かなかった。食べ物のせいか、水のせいか、張り詰めていた何かが緩んだせいか。分からない。分かるのは、これが待ってくれないということだけだった。


閂は、まだ外れない。悠人は戸を二度、叩いた。腹を押さえたまま、返事とも独り言ともつかない外の音を待った。


閂が外れた。戸が開くのと同時に、外へ出る。小便をする場所なら、昨夜、しんろくに示されていた。だが、それでは済まない。ちょうど庭にいたしんろくに、悠人は腹を押さえ、その場にしゃがむような身振りをした。しんろくが眉を寄せる。もう一度、腹を押さえた。しんろくは悠人の顔を見て、それから、母屋の裏手を指した。


裏手には、便所らしい小屋があった。粗末な板囲いに、簡素な戸。中は薄暗く、地面の穴をまたぐように、細い踏み板が二枚、渡してあった。二枚の間には、暗い隙間が口を開けている。下に、何かが溜まっている。臭いが立ち、蝿の羽音がした。


ここで、するしかないらしい。


ズボンと下着を膝まで下ろし、裾が板の間へ垂れないよう、前でまとめて押さえた。両足を一枚ずつの板に乗せ、狭い足場にしゃがんだ。足場が、心もとない。板がわずかに鳴るたび、下の暗さが頭をよぎる。落ちたら、と考えて、考えるのをやめた。


済ませてから、気づいた。紙が、ない。


反射的にポケットを探った。ティッシュは、ない。当たり前だった。見回すと、隅に、柔らかく揉まれた草のようなものが、少しだけ置いてあった。誰かが置いたものだ。これで、ということらしい。名前も分からないそれで、できる限りのことをした。足りている気は、しなかった。下着を戻すことにさえ、ためらいがあった。


小屋を出ると、しんろくが、置いてある桶を顎で示した。桶の縁には、小さな木の杓が伏せてあった。悠人はそれで水をすくい、片手ずつ流した。石鹸はない。水をかけては、こする。何度繰り返しても、きれいになった、という感覚は来なかった。


椀を受け取ったとき、一瞬、食欲が遠のいた。それでも、腹は減っていた。腹の奥にはまだ重さが残っていたが、さっきのような切迫した痛みは、戻らなかった。


朝の椀を空にしたあと、母屋の側にやへえと呼ばれる男が立っていて、しんろくと悠人を順に見た。田の方を短く示し、しんろくへ何かを言う。何を言ったのかは、拾えない。


しんろくが納屋の前へ来て、布の束と、履き古した草鞋を差し出した。広げると、前を重ねて紐で留める形の、ごわついた布の服だった。あちこちに継ぎが当たり、誰かが長く着た匂いが残っている。着ろ、ということらしい。


納屋の中で、現代の上着とズボンを脱いだ。脱ぐとき、一瞬だけ、手が止まった。畳んで隅へ置き、借りた服に袖を通す。袖も丈も、少し合わない。前を重ね、紐を結ぶ。結び方は、しんろくの腰元を見て真似た。足には、草鞋。しんろくが、自分の足元を指した。その結び方を見ながら、紐を足へ回す。指の股と足首に縄が当たり、どこへ力を入れればよいのか、分からない。運動靴は、畳んだ服の脇へ揃えて置いた。


しんろくが、こい、と言った。今度は、身振りを待たずに分かった。


軒下の自転車の横を通る。泥はこびりついたまま、鎖のあたりには土が付いていた。誰も拭いていない。触ってよいのかも分からないまま、悠人はしんろくの後を歩いた。草鞋の底は薄く、土の凹凸が、そのまま足の裏へ届いた。


空は朝から晴れていた。歩き出してすぐ、肌に空気が張り付く。蒸し暑い日になりそうだった。昨日、雲の間に見た山が、最初からそこに立っている。見間違いではなかった。山は知っている。その下の土地は、何一つ知らない。悠人は立ち止まらず、しんろくの背を追った。


しんろくの歩く場所が、悠人には道に見えなかった。細い土の盛り上がりを、しんろくは平地のように歩く。悠人は一度足を滑らせ、腕を振って持ちこたえた。どこかで人を呼ぶ声がしたが、意味は取れない。


道の両側は、田だった。初めて見た朝には、荒れ地としか思えなかった眺めだ。今は、水を張った田だと分かる。分かるようになっただけで、そこから先は、何も知らない。


着いた田は小さく、形が揃わず、隣の田と高さが違った。すでに数人が腰を曲げて泥の中にいる。顔が上がり、視線が集まり、また作業へ戻っていった。


しんろくが草鞋を脱ぎ、素足になって泥へ入る。悠人も草鞋を脱いで、畦へ置いた。


泥は、思ったよりぬるかった。足首まで沈み、指の間から押し上がってくる。稲株は、まだ細い。しんろくは不揃いに並ぶ株の間へ手を入れ、何かを抜いて畦へ放り、くさ、と言った。


抜いて、捨てる。それだけの仕事らしい。


だが悠人には、抜いたものと残したものの区別がつかなかった。同じ緑にしか見えない。


見よう見まねで手を入れ、一本を掴んで引きかけたところで、しんろくの手が悠人の手首を掴んだ。笑っている。しんろくは悠人の抜きかけた一本と、抜くべき草を並べて持ち、二本の根元近くを指で開いて、葉と茎のつながるあたりを交互に指した。それから、悠人の指を、そこへ触れさせた。


説明は、短い音と身振りだけだった。どこかが違う。それしか分からない。同じ緑に見えた二本は、根元近くを見ると、わずかに違っていた——気がする。くさ、と、しんろくがもう一度言った。


稲を、抜きかけたらしい。


植えてある稲を抜いていたら、と考えて、背中が冷えた。教わったばかりの違いを、もう一度、指でなぞって確かめた。


そこからは、教わった見比べ方だけが頼りだった。掴む。根元を見る。確かめる。たぶん草だと思ってから、抜く。抜いた草は、畦の上に少しずつ積み上がっていった。どれだけ進んだかは、その山の大きさで分かる。しんろくの山は、悠人の山の倍以上あった。足を動かすたびに泥が音を立て、二歩ごとに体が傾く。倒れないことだけは、得意だった。


同じ動きの繰り返しだった。掴んで、見て、抜く。それだけの単純さなのに、体は思い通りに動かない。しんろくは時々顔を上げ、悠人の手元を見た。間違えていないかを、見ているらしい。


日が高くなると、汗が目に入るようになった。手の甲で拭うと、泥の匂いが顔に移った。背中は日に焼かれ、腰から下は泥の生ぬるさに浸かっている。妙な暑さだった。


脛に、黒くぬめるものが付いていた。声が出かけたが、しんろくが指でつまみ、泥へ投げた。正体は、分からないままだった。


腰を伸ばすと、遠くに富士山があった。昨日の山は、見間違いではなかった。それだけ確かめて、また腰を曲げた。


腰が痛い。進みは、しんろくの半分にも届かなかった。


昼、木陰で休みになった。村人たちの間を竹筒が回る。短い声のやり取りと、笑い声。何がおかしいのかまでは、拾えない。回ってきた竹筒が、悠人のところにも来た。受け取って飲む。ぬるい水が、驚くほどうまかった。次へ渡す。


葉に包まれた小さな塊も配られ、悠人の分も一つ回ってきた。開くと、葉の青い匂いがした。粒の色の揃わない、冷えた固い飯のような塊だった。空腹だった悠人は、黙って食べた。噛むほどに固く、それでも、腹の底に落ちていく感じがした。竹筒を渡した者も、葉包みを寄越した者も、それ以上は悠人を見なかった。それが、朝の視線より、ずっと楽だった。


休みが終わり、村人たちが泥へ戻り始めた頃、離れた畦に、日焼けの強い年配の男が立った。水路の流れを見ている。男は一度だけ悠人の方を見て、来た方へ戻っていった。


午後、悠人はしんろくに連れられて、隣の別の田へ移った。朝とは違う顔も、泥の中にいた。朝の田にいた男も、こちらの田にいた。誰の田なのか、なぜ顔ぶれが違うのかは、分からない。人が田ごとにきれいに分かれているわけではないらしい。それ以上は、分からなかった。


しんろくが鍬で畦の際へ寄せた泥を、悠人は言われるまま両手ですくい、崩れかけた箇所へ運んで、足で固めた。泥は重く、すくうたびに腕にこたえた。すくっては、押し込み、踏み固める。何度も繰り返して、ようやく畦の形が戻っていく。ほんの数歩分を直すだけで、これほどの手間がかかる。自分が崩した畦も、誰かが、こうやって直したのだろうか。


田へ水を入れる口には、板が差してあった。しんろくは上流の方と、隣の田を確かめてから、板に手をかけた。悠人も手伝おうと手を伸ばしかけた。しんろくの手が、軽く押し戻した。


しんろくが板をわずかにずらすと、水の入り方が少し変わった。しんろくは流れる水を指して、みず、と言った。田へ入っていく水を指して、もう一度、みず。


みずという音は、この流れるものを指すらしい。そして、少なくとも、自分が勝手にこの板を動かしてよいわけではないらしい。


夕方、田から水が落ちていく側の浅い流れで、しんろくが先に足の泥を落とした。悠人も同じ場所で泥を流す。泥は思いのほかしつこく、指の間に残った。影が長くなった道を戻る。体のあちこちが重かった。


家に着くと、やへえと呼ばれる男がいた。男は悠人の泥だらけの足と、歩き方と、手を、一度だけ見た。何も言わなかった。


夕食の前に、桶に汲んだ水で、朝に脱いだ上着とズボンをすすいだ。泥と汗と、染みついた煙の匂い。落ちる汚れも、落ちない汚れもあった。絞って、しんろくに示された軒下の隅へ掛ける。乾いたら畳んで、納屋に置くつもりだった。捨てる気は、起きなかった。運動靴も泥を落として、その下に並べた。


夕食は、色も大きさも揃わない粒をやわらかく炊いた飯と、漬物らしき一切れだった。


受け取った椀が、昨日より重い気がした。持ち直して、確かめる。分からない。気のせいかもしれない。それでも、悠人は最後の一粒まで食べた。空の椀を返すとき、少しだけ、惜しかった。


庭先で、しんろくが悠人の掌を指して笑った。指の付け根の皮が、二か所むけていた。しんろくは自分の掌を突き出して見せる。厚く、固く、比べものにならなかった。朝から何度も、その手に止められ、示されてきた。


悠人は、畦に積まれた草の山を思い出した。


くさ、と言ってみた。


しんろくが噴き出して、頷いた。


今度は、思った意味で通じた。


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