第7話 富士
館で迎える四日目の朝が来た。
閂が外れ、用を足し、椀の水を一杯。薄い粥が少し。順番まで体が覚え始めた朝の手順のあと、戸口の男が何かを言った。長い発話のほとんどは、いつも通り音の川でしかない。だがその中から、たて、と、こい、に近い音だけが切り出せた。
この数日、同じ場面で、同じ音を聞いてきた。立たされるときには、いつも同じ音がして、立つよう促す手が動いた。時代劇の台詞に似ている――それだけなら聞き流しただろう。音と、繰り返しと、身振り。三つが揃って、初めて「分かった」と言えた。
悠人は、立つよう示されるのを待たずに立ち、男の後を歩いた。
外に出て、空気が違うことに気づいた。館の男たちの動きが、いつもより多い。誰かが来ている。そんな朝の忙しさだった。
連れて行かれたのは主屋の前庭だった。その下手、縁から距離を置いた場所に立たされる。顔を上げて、目を見開いた。
縁の上に、三日ぶりに見る顔があった。
やへえと呼ばれる男。知っている顔がある。ただそれだけのことに、胸の奥が少し動いた。だが男は悠人を見なかった。縁にいる上座の男へ低頭し、長いやり取りに入っていく。
軒下では、書き役が控えの紙を広げ、ずれないように両手で支えていた。上座の男の指が、記された箇所を順に移りながら、話が続く。悠人は離れた位置から、それを見ているしかない。
長い文は、分からない。ただ、二つの音だけが拾えた。
やまぶし。それから、たけだ。
途中、上座の男が一度だけ、手のひらを上へ開く仕草をして見せた。悠人の作った、あの返事の形だった。それから男の指は、控えの別の箇所へ移った。
やへえと呼ばれる男は、悠人の合羽を見た。次に、顔を見た。それから控えへ視線を戻し、すぐには答えず、低く短く何かを返した。
自分が何者で、どこから来た者なのか。そのあたりを話しているらしい。
昨日の部屋でも、同じ音が出た。山伏か。それとも、どこかの手の者か。館の側は、まだ決めかねているらしかった。
推測は、そこまでだった。それ以上は、確かめる言葉がない。
やり取りが終わると、上座の男が悠人の方を向いた。縁の上から、距離を保ったまま、身振りが始まる。
悠人を指す。走り去るような仕草。それを、強く打ち消す。短い言葉の中に、にげ、に近い音があった。逃げるな。そういう意味らしい、とその場で推測が立った。
男は続けて、やへえと呼ばれる男を指した。書き役の控えを指した。最後に、両手で、重いものが落ちるような短い仕草をした。
自分が逃げれば、この男に何かが返る。
この男が責められるのか、何かを取り上げられるのか、そこまでは分からない。ただ、自分一人では済まないらしい。それだけは、身振りの重さで分かった。
悠人は、確かめ直した。
自分を指す。逃げる動作を少しだけして、強く首を振る。それから、やへえと呼ばれる男を見た。男は、こちらを見ていた。悠人は、深く頭を下げた。
顔を上げると、上座の男がしばらく悠人を見て、一度だけ、頷き返した。
もう一つ、あった。
軒下で、書き役が控えを両手で支え直し、上座の男が、その一か所を指した。悠人は前庭の下手から、縁の上の控えを見上げる形になる。
よしもと。
悠人の発音を、なぞるような言い方だった。続けて、じぶのたいふどの。指が、別の箇所へ動く。のぶなが。続けて、おわりの、かずさのすけ、と聞こえる呼び方。
二つずつを並べていることだけは、分かった。よしもとと、じぶのたいふどの。のぶながと、おわりのかずさのすけ。
自分の口にした短い名とは別の呼び方を求められているのかもしれない。上座の男は最後に悠人の口を指し、手を立てた。
よしもと。のぶなが。その名を、軽々しく口にするな。
そういうことらしい、とだけ理解した。理由は、分からないままだった。
出立のとき、館の男が布包みを持ってきて、一度だけ開いた。
スマートフォン。財布。鍵。シャープペンシル。替え芯の袋。距離を置いた位置から、目で追う。目につくものは、残っている。手を伸ばしかけた。その前に、布は包み直され、やへえと呼ばれる男へ渡された。
自分へ返されたのではない。この男へ、預けられたのだ。
自転車は、悠人が押した。同行は、やへえと呼ばれる男と、付き添いの村人が一人、それに館の男が一人。泥の道には、二本の轍が続いていた。
行きにも横切ったあの広い道へ出た。固い土に、太い轍が残っている。そこを越えて、また細い道へ入った。
空の低いところを、雲が流れていた。ふと、道の先で、白い雲の一部だと思っていたものが動かないことに気づいた。雲だけが流れて、それは残った。
富士山だった。
見間違えるはずがない。毎日、家の窓から、通学の道から見上げてきた山だった。悠人は足を止めた。
その下にあるはずの町も、どこにもなかった。見慣れた住宅の列も、電柱も、舗装された道路も、工場の煙突もない。山の下には、緑の田と、低い家々が疎らに見えるだけだった。
いや――山も、何かが違った。
悠人は目を細めた。山の右側。いつもなら主峰の脇に、小さく突き出して見えるものが、ない。
宝永山が、なかった。
知っている富士山より、右側の斜面が滑らかだった。宝永山は、江戸時代の噴火でできたものだったはずだ。何年だったかは思い出せない。だが、目の前の富士山には、まだそれがない。
ここは、富士山の見える土地だ。故郷から極端に遠い場所ではないのかもしれない。知らない世界ではなく、故郷に近いどこかで、知らない時代にいるのかもしれない。義元と信長の名から立てた推測は、妄想ではなかったのかもしれない。安堵とも恐怖ともつかないものが、胸の奥で動いた。故郷に近いかもしれないのに、帰る道は、どこにもなかった。
「富士山……」
声が、漏れた。やへえと呼ばれる男が足を緩め、振り返る。悠人は山を指した。男も山を見て、それから、短く言った。
ふじ。
そう聞こえた。この山は、ここでも、ふじと呼ばれているらしい。悠人は頷いた。男はそれ以上何も言わず、前へ向き直った。ここの者には、見慣れた景色なのだろう。悠人は、また歩き出した。
行きに見た、石積みと小さな木の標の前へ来ると、やへえと呼ばれる男が足を緩めた。悠人も、今度は言われる前に、頭を下げた。何の作法なのかは、まだ分からないままだった。
行きにも見た、石の間から出る水が、細い流れになって田へ落ちている。
畦の続く道で、もう一つ気づいた。崩した畦が、どれだったのか。目で探しても、もう見分けられなかった。誰も知らない借りが、この田のどこかにある。
村の入口が見えてきた。
道端に、日焼けの強い年配の男が立っていた。男は動かない。口も挟まない。ただ、こちらを見ている。
館の男が足を止め、やへえと呼ばれる男へ短く何かを命じた。引き渡しは、それで済んだらしい。館の男は来た道を戻っていく。その背中が遠ざかり、見えなくなった。
年配の男が、歩み出た。
やへえと呼ばれる男への訴えは、強い調子だった。やへえと呼ばれる男が、低く、そうべえ、と呼んだ。年配の男は構わず訴えを続ける。もう一度、そうべえ。その音だけが、悠人の耳に残った。男の指は悠人を差した。それから、田を差した。水路を差した。家々を差した。
指されているのは、自分だけではなかった。何を訴えているのかは分からない。ただ、自分をここに置くことが、周りにも関わるらしい。反対されている。それだけは、はっきりと分かった。
男は最後に悠人を見据え、背を向けて去った。悠人にできたのは、その背中へ頭を下げることだけだった。やへえと呼ばれる男は言い返さず、去っていく背中を黙って見送ってから、また歩き出した。その横顔から読み取れるものは、何もなかった。
やへえと呼ばれる男の家に着いた。
三日前と同じ納屋に、筵。土の床も、壁板の隙間も、何も変わっていない。それなのに、初めて入れられた夜とは、どこか違って見えた。知っている場所へ戻ってきた――そう感じている自分に、悠人は少し驚いた。包みは母屋の奥へ運ばれた。自転車は母屋の軒下へ運ばれ、壁際に置かれた。悠人が押してきたものだったが、置き場所を決めたのは、この家の者だった。
壁にもたれた拍子に、自分の襟元が鼻についた。
土と、煙と、乾いてはまたかいた汗の匂い。館で人の近くに座らされたときから、ずっと気になっていた。同じものを、何日も着ている。
外へ出ると、やへえと呼ばれる男が庭先で草鞋の紐を直していた。悠人は、そばに置かれた水の椀を指した。それから、自分の腕をこする真似をする。
男は顔を上げたが、動かない。
もう一度、今度は首筋と顔を洗う仕草をして、それから胸元を指した。しばらく間があってから、男は立ち上がり、母屋の裏の方へ顎を振った。ついてこい、ということらしい。
裏手は、藪と板塀に挟まれた狭い場所だった。地面に平たい石が敷かれ、水の流れた跡が細く残っている。男は、その石と、少し離れた低い側を順に指した。ここで使い、水はあちらへ流せ。そういうことらしかった。
家の者が、水を張った桶と、擦り切れた布を置いていった。
人の気配が遠ざかるのを待ってから、悠人は服を脱いだ。下着だけは残した。
水は、身を縮めるほど冷たかった。手ですくって首にかけると、息が止まる。二度、三度。布を絞って腕を拭くと、布の色がすぐに変わった。爪の内側も、指の股も、黒い。
足を見て、少し驚いた。踵の皮が擦れて赤くなり、指の付け根に小さな傷がいくつもできている。腕には、覚えのない刺し痕が並んでいた。痒みはずっとそこにあったのに、気づいていなかっただけらしい。
頭から少し水をかぶった。髪をこすっても、指に泡は立たない。石鹸も湯もない。流し続けることもできない。それでも、頭の重さが少し抜けた気がした。
拭き終えて、また同じ服を着た。乾いた泥がこびりついたままの、同じ服だった。軽くなったのは体だけで、匂いは服に残ったままだった。
夕刻、薄い粥と、漬物らしき一切れが出た。悠人は黙って食べ、椀を返した。
庭で、声がした。
しんろく。
やへえと呼ばれる男の呼び声に、あの若い男が駆けてくる。しんろく。あの男の、名前らしい。監視と世話が、この男の役に戻ったようだった。
しんろくは悠人の前に立った。呆れているのか、面白がっているのか、どちらともつかない顔だった。田を指す。鍬を担ぐ仕草をする。それから、普段よりゆっくり、短く何かを言った。
言葉の全部が、分かったわけではない。それでも、あす、た、こい、という三つの音は、指された田と、鍬を担ぐ仕草の中で、一つにつながった。
明日、田へ来い。
悠人は、深く頷いた。
夜、納屋。閂の音がして、戸の外に気配が残る。
筵に横になっても、目は冴えていた。
瞼の裏に、昼の山が浮かぶ。見間違えるはずのない富士山。その下に、町はなかった。右側に、あるはずの宝永山もなかった。江戸時代の噴火でできた山が、まだ、ない。あの男も、ふじ、と呼んだ。ここは知らない世界ではなく、故郷に近いどこかで、時代だけがずっと前なのかもしれない。書いては、すぐに消した数字。あれは、妄想ではないのかもしれない。
山は近い。家も、本来なら遠くないはずだった。けれど、歩いて帰れる場所には、なかった。父も、母も、姉も、道のりでは測れない遠さの向こうにいる。
母屋の奥の包みの中には、家の鍵がある。けれど、その鍵で開ける家は、この景色のどこにもなかった。
咳が、した。
館のものではない。三日ぶりに聞く、覚えのある咳だった。
遠くへ行きかけていた頭が、板壁一枚向こうの気配へ戻ってくる。誰の咳か、確かめたわけではない。それでも、知っている音だった。強張っていた肩から、力が抜けた。
悠人は筵の端を体に巻き、目を閉じた。さっきまで離れなかった富士山の形が、少しずつ遠のいていった。




