第6話 手のひらの返事
館で迎える三日目の朝が来た。
閂が外れ、監視付きで用を足し、椀の水を一杯。ここまでは、もう朝の決まりごとだった。今朝はそこへ、薄い粥が少しだけ加わった。倒れられては困るのかもしれない。理由は、確かめようがない。悠人は黙って食べ、椀を返した。
主屋へ連れて行かれる。歩きながら、自分の体が三日分のにおいを持ち始めていることに気づいた。汗と、泥と、藁のにおい。顎に触れると、無精髭がざらりと引っかかる。風呂という言葉が、ずいぶん遠いものに感じられた。
靴を脱ぎ、板敷きの下手に座る。座り方は昨日より様になってきた気がするが、足のしびれまでは慣れない。上座の男。刀を差した男。館の男たち。そして書き役。その膝の前には、昨日の控えらしい紙の脇に、新しい紙が一枚置かれていた。
部屋の空気が、昨日と違った。調べる調子ではない。突き合わせる調子だった。
席が整ってすぐ、刀を差した男が上座の男へ何かを言う。
短い言葉の中に、やまぶし、と聞こえる音があった。
近くにいた館の男が、戸口の向こうへ目を向ける。それから、悠人の合羽へ視線を戻した。
山伏。
時代劇で聞いたことのある言葉だった。自分を、そういう者か何かだと思っているのだろうか。確かめようのないまま、短いやり取りは途切れた。
問いは、昨日と同じところから始まった。
どこの者か。あるじは。答えられないのも、昨日と同じだった。上座の男はそれ以上繰り返さず、代わりに、短い音を並べ始めた。
おわり。おだ。
首を振る。
かい、たけだ。
――たけだ。
その音に、首を振りかけた動きが止まった。聞き覚えがある。だが、今は名前を尋ねられているのではないらしい。どこから来たか。誰の手の者か。そういう問いの中に、その音は置かれていた。
悠人は首を振った。違う。そこから来たのではない。
刀を差した男の視線が、わずかに動いた。
上座の男は少し間を置き、今度は、たけだ、の音だけを繰り返した。悠人の顔を見ている。
名前を、知っているかどうか。そう聞かれているのだと思った。
悠人は、小さく頷いた。名前を聞いたことがある。そのつもりの頷きだった。
書き役の筆が動く。上座の男はその反応を見届けると、今度は出身を問う身振りをやめ、土地や人の名らしい音だけを、順に置き始めた。
おだわら。ほうじょう。
ほうじょうには覚えがあった。悠人は小さく頷いた。
えちご。ながお。
ながお。名字としてなら、聞いたことがある気もする。だが、歴史の中の誰なのかは、まるで浮かばなかった。首を振った。
それから、それまで一度も聞いたことのない長い呼称がいくつか続いた。音は長く、名字らしき部分の前後に、別の呼び名がいくつも重なっていた。耳に残るのは、名字らしき部分だけだ。そのどれにも、覚えがなかった。首を振る。振り続ける。首の後ろが、強張ってきた。大きな名前だけは知っているのに、今ここで必要とされている名前を、一人も知らない。
問いが、また変わった。
ふみ、に近い短い音がした。上座の男は書き役の紙を指し、それから自分の懐を軽く叩く。
書き付けか、何か。持っているなら出せ、ということらしい。
首を振る。何も持っていない。
次に、館の外を指し、指を二本立てて、合わせるように動かした。誰かと会う約束。そういうことか。首を振る。
道を辿るように指を動かし、悠人を指す。どこから入ったのか。答えられない。川原で目を覚ましたと、どう言えばいいのか分からない。首を振る。
この館を知っていたか、と問うような身振り。首を振る。
書き役の筆が、また動いた。
その音で、悠人は気づいた。
さっきから、全部同じ動きで返している。違うも、知らないも、何を聞かれているのか分からないも、首を横に振る、その一つだけで。
紙の上では、どう分けられているのだろう。分けられていないとしたら。
背中に、嫌な汗がにじんだ。
刀を差した男が、上座の男へ短く何かを言った。追い込む調子だった。上座の男は答えず、長く黙っていた。
やがて、問いが一つだけ来た。
おわり、に近い音。それから、手を前へ送る仕草。指が板敷きの上を、どこかへ移っていくように動く。
尾張の兵が、次にどこへ動くか。そういうことらしかった。
浮かんだものは、あった。あの男が、この先で大きくなっていくらしい、という漠然とした形。それだけだ。次にどこへ兵が出るのか、それがいつなのかは知らない。地名も浮かばない。
曖昧なことを言えば、人が動く。外れれば、それは嘘になる。
首を振ろうとして、止めた。
首を振れば、知らないのか、答えないのか、問いそのものを否定したのか。どれとして書かれるのか、分からない。
悠人は、空いた片手を、手のひらを上にして開いて見せた。
何も持っていない。答えを、持っていない。そう伝わってほしい形だった。
通じなかった。上座の男は表情を変えず、館の男たちは怪訝そうに悠人の手を見た。刀を差した男が、今度は悠人へ向けて口を開き、短い問いを二つ、三つ、重ねてくる。音は速く、何一つ拾えない。ただ、追い込む調子だけが伝わった。
それでも悠人は、手を下ろさなかった。
上座の男が、手だけでそれを制した。
長い沈黙が落ちた。
やがて上座の男は、同じ問いを言い方を変えて戻してきた。悠人は、また手のひらを開く。同じ種類の問いには、同じ形。それしか、悠人にできることはなかった。繰り返すうち、上座の男の視線が、悠人の顔から手元へ下りるようになった。
正直でいることと、正直に見えること。その二つが別の問題なのだと、悠人はこの部屋で学びつつあった。
やがて上座の男は、戸口の外を指した。それから、手を先へ送るような仕草をしてから――自分の手のひらを、上へ開いて見せた。
答えを持っていないときは、この形か。
そう確かめているように見えた。悠人は、自分も手のひらを開き、それから深く頷いた。
初めてだった。自分の作った形が、言葉を跳び越えて、向こうへ届いたように思えたのは。たかが手のひら一つ。それでも、さっきまでとは違う返事として受け取られたらしい。喉の奥が、少しだけ緩んだ。
上座の男は書き役へ短く何かを言った。書き役は今日の紙の前の方へ筆を戻し、首を振り続けたあたりへ、何かを書き添えた。訂正なのか、注記なのか、別のことを書かれたのか。内容は分からない。ただ、少なくとも、首振りと手のひらを同じものとしては扱っていないらしい。悠人には、そう思えた。
尋問は終わり、悠人は小屋へ戻された。閂が落ちる。処分の気配は、今日もなかった。保留が続いている。それだけを察する。
夕刻、水と薄い粥が差し入れられた。黙って食べ、椀を戸口へ戻す。
夜、悠人は暗がりの中で、手のひらを上へ開いてみた。
頷く。首を振る。手のひら。
三つの返事。今日、自分があの部屋で渡せたものは、それだけだった。土の床の、昨夜数字を書いて消したあたりを、目でなぞる。跡は、もう分からなかった。
戸の外では、あの知らない咳が、今夜も続いている。




