第5話 名前だけが通じた
朝、閂が外れた。
監視の男に付き添われて用を足し、椀の水を一杯もらう。それで朝が済んだ。空腹は昨日から続いていて、もう腹が鳴ることにも慣れ始めている。
連れて行かれたのは、小屋ではなく主屋だった。庭を横切るとき、隅に自転車が見えた。昨日置かされた場所から、動いていない。触られてもいないらしい。それを確かめる自分に気づいて、少し驚いた。ここへ来てまだ数日なのに、持ち物が、もう安否を確かめる相手になっている。
入口で、靴、と身振りで示される。脱いで上がると、板敷きの部屋の下手に座らされた。上座から、たっぷり距離がある。座り方が分からず、周りの男たちの膝の置き方を横目でまねた。それでも何かが違うらしく、壁際にいた男の一人に、身振りで膝の向きを直された。両手は膝の前。それだけは、言われる前に置けるようになっていた。
上座に、初めて見る男が座っていた。
年配で、身なりが整っている。目に、威圧よりも計算があった。あの刀を差した男が脇に控え、壁際には館の男たちが数人。そして隅に、筆を持った男がいた。膝の前に紙を広げ、墨を用意している。
書かれるのだ、と悠人は気づいた。自分の言うことが、読めない文字で、残る。
尋問は、静かに始まった。
どこの者か。あるじは。もう聞き慣れた問いの音が、上座の男の口から改めて出る。ただ、この男の聞き方は今までと違った。悠人が分からずにいると、言い方を変える。区切る。指を折る。身振りを足す。責める調子がなく、どこか、調べる調子だった。少しだけ、通じる。それでも悠人の答えは同じところへ落ちた。しずおか。ふじし。いまいずみ。どの音にも、誰の表情も動かなかった。
書き役の筆は、時折だけ動いた。何が書かれ、何が書かれないのか。それすら悠人には分からなかった。
問いが、短くなった。
上座の男が、悠人をまっすぐ指す。それから、短い一続きの言葉を置いた。がた、もの、か、という音が続いた気もするが、意味は取れない。聞き取れたのは、一続きの初めにあった四つの音だけだった。
いまがわ。
聞き覚えが、あった。この土地へ来てから、初めてだった。自分の知っている名前と、音が重なる。
「……いまがわ」
繰り返すと、続きが口の中に浮かんだ。社会の教科書と、大河ドラマと、模試の選択肢。そのどれにもいた人。同じ今川なのか。それとも、似ているだけの別の音なのか。
確かめるつもりで、悠人は語尾を上げた。
「いまがわ……よしもと?」
反応は、はっきりと返った。
書き役の筆が走った。壁際の男たちの視線が、一斉に悠人へ集まる。上座の男のまぶたが、わずかに動いた。
通じた。
ただ、通じ方が、思っていたものとは違った。安堵の裏側で、部屋の空気が変わっていく。
上座の男が、確かめにかかった。
さきの、おやかたさま。言葉を区切りながら、悠人の顔をうかがう。それから戸口の外――遠くを指すような仕草をした。誰かを知っているか、と聞かれているらしい。
分からない。悠人は首を振る。
男は少し間を置き、言い換えた。じぶのたいふどの。
それも、分からない。ただ、言い換えの調子から、さきのおやかたさまと、じぶのたいふどのが、同じ一人を指しているらしいことだけは察せられた。自分の出した名前が確かに通じたことも分かる。けれど、その一人が、自分の知る今川義元なのかどうかまでは分からない。大事な人物の話をしている。場の重さで、それだけは分かる。誰なのかが、分からない。
通じたという安堵と、何かを間違えたらしいという焦りが、同時に来た。相手の表情が驚きから別の何かへ変わっていくのを、読み切るより先に、悠人は続けてしまった。
「おだ、のぶなが」
場が、凍った。
刀を差した男が半歩、前へ出た。上座の男が手だけでそれを制する。制されても、刀の男の目は悠人から離れなかった。壁際のざわめきが、低く広がって、消える。
「……おけはざま」
こちらには、誰も反応しなかった。張り詰めた沈黙だけが残り、書き役の筆だけが動いた。
何がまずかったのか、分からない。まずかったことだけが、分かる。口の中が乾いて、心臓の音が耳の奥で鳴っていた。両手を膝の前に置いたまま、悠人は動かないことだけに集中した。
上座の男が、ゆっくりと問いを返してきた。
よしもと。悠人の発音を確かめるように、一度。それからもう一度。悠人は頷くことも首を振ることもできず、ただ相手を見た。
男は続けた。区切りながら、音を置いていく。かずさのすけ。悠人は首を振る。おわり。――その音には、聞き覚えがあった。尾張。信長にかかわる土地だった気がする。だが、長い問いの何について肯定を求められているのかが分からない。頷くことも、首を振ることもできないまま、悠人は固まった。なるみ。これは分からない。首を振る。それから、さらに長い問いが来た。文としては、まるで追えない。ただそのどこかに、おうちじに、と聞こえる音のまとまりがあった。その中の、うちじに、という部分だけが耳に残った。
討ち死に。そう聞こえた気がした。気がした、だけだった。
悠人は、それにも首を振るしかなかった。知らない音に、知っているふりはできない。それだけは、してはいけない気がした。
上座の男は、黙り込んだ。
よしもと、と男はもう一度言った。それから、じぶのたいふどの、と言い添えて、悠人の顔を確かめた。悠人には、二つがつながらない。首を振るしかない。男はまた黙り、書き役へ短く何かを言い、筆が動き、また悠人を見て、また黙った。黙る時間が、確かめるたびに長くなっていった。
長い沈黙だった。慣れない座りに、足はとうにしびれていた。悠人は目を伏せず、しかし睨まないように、相手の襟のあたりを見ていた。知識を出すほど、悪くなる。それだけは、もうはっきりと分かった。名前は、もう言わない。分からないものは、分からない。それしかない。
やがて上座の男は、短く何かを命じた。
尋問は終わった。処分が決まった様子はない。少なくとも、縄も刃物も出てこなかった。留め置きが続くらしい、と察するだけだ。立たされる直前、上座の男ともう一度目が合った。責める目でも、憐れむ目でもない。分からないものを、分からないまま仕舞っておく――そういう目に、悠人には見えた。
立とうとして、しびれた足がもつれた。部屋を出るとき、書き役の紙が目の端に入った。読めない文字が、行を成して並んでいた。あの中に、自分の言った名前がある。どんな形で書かれたのかは、分からない。
入口の土間で、靴を履き直した。指がうまく動かないのは、足のしびれのせいだけではなかった。館の男たちに挟まれて、小屋へ戻される。
閂が落ちた。
日が暮れる前に、戸が細く開き、水の椀と薄い粥が差し入れられた。悠人は黙って食べ、椀を戸口へ戻した。
悠人は壁にもたれ、今日の断片を一つずつ並べ直した。
よしもと、に対する、あの凍り方。喪失を思わせる、場の重さ。のぶなが、に向いた、刀の男の目。おわり、なるみ、という土地の音。そして、長い問いの中で一度だけ聞こえた気がする、うちじに、という音。
義元と信長の話が、昔話の調子ではなかった。今の話として、あの部屋の空気を張り詰めさせていた。あの場の誰一人、芝居をしているようには見えなかった。
もしかすると。
義元が、討たれた直後なのではないか。
桶狭間は、たしか1560年だったはずだ。模試なら迷わずマークできた年が、今は答えであってほしくない数字として、頭の中に立っていた。
夜、悠人は土の床に指で数字を書いた。
1560?
その横に、自分が元いた年を書きかけて、指が止まった。二つの時代の間にあるはずの年月を――その途方もない隔たりを、しばらく見つめる。それから、書きかけの数字ごと、手のひらでゆっくり消した。
戸の外では、知らない誰かの咳が、今夜も続いていた。




