第4話 頭を下げる背中
朝、閂の外れる音で目が覚めた。
戸口に立った村人が顎を振る。でろ、に近い短い音が身振りに重なった。短い言葉なら、こうして分かるようになってきた。悠人は身振りで訴え、屋敷の端まで付き添われて用を足した。戻り際に、椀の水を一杯だけ与えられた。
出立の前、納屋の壁際に置いていた品々を、見張りの村人の目の前で回収した。財布と家の鍵とスマートフォンをズボンのポケットへ、替え芯とレシートの袋を合羽の内側の胸ポケットへ。一つずつ、元の場所へ戻していく。
庭に出ると、やへえと呼ばれる年配の男と、あの若い男、それにもう一人の村人が待っていた。旅支度、というほどではないが、腰に袋を提げ、履物を締め直している。悠人には自転車が示された。押して行け、ということらしい。
どこへ、とは聞けなかった。聞いても分からないことは、もう分かっていた。
村を出るとき、戸口や畑から視線が集まった。昨日より数が多い気がした。悠人は目を合わせず、ただ自転車を押して歩いた。空は今日も低く、山はどこにも見えなかった。朝の靄の中、田に出ている人たちが手を止めて、一行が通り過ぎるのを黙って見ていた。
道はすぐに細くなった。
人ひとりが歩くための踏み道が、田と田の間を縫っていく。自転車の幅が、ちょうど邪魔だった。ハンドルが草を叩き、ペダルが土手にぶつかる。靴は一晩では乾いておらず、湿った靴下が一歩ごとに足へまとわりつく。ふやけた踵が擦れて痛み、合羽の表面では乾きかけた泥がひび割れて、細かくこぼれた。泥を吸った服は、ごわついて重い。低い土手を越える場所へ来るたび、悠人は足を止めた。昨日、崩した土手のことが頭をよぎる。勝手に踏んではいけない。どこなら踏んでいいのかが、分からない。
先を行く若い男が振り返り、呆れ半分の顔で自分の足元を指した。ここを踏め、という意味だろう。狭い通路では前輪を持ち上げた。水路をまたぐ細い板の前では、若い男が示した場所を、車輪を浮かせながら慎重に渡った。泥の道には、二本の細い筋が途切れながら続いた。最後尾の村人が、時折それを振り返るのも、昨日と同じだった。
道端で、水が出ていた。
水路ではない。石と石の間から滲み出したものが、草の下を細く流れて、低い方の田へ落ちている。悠人は一度だけ目をやって、また前を向いた。
しばらく行くと、道端に石を積んだ場所があった。膝の高さほどの石の重なりと、小さな木の標。何かが祀られているらしい、というところまでしか分からない。やへえと呼ばれる男が、そこで一瞬だけ足を緩め、短い所作をした。若い男ともう一人も、歩調を落とす。悠人も見よう見まねで頭を下げた。祈りなのか、挨拶なのか、ここが何かの境なのか。誰も説明しないし、聞く言葉もなかった。
途中、荷を負った男とすれ違った。
やへえと呼ばれる男の知り合いらしく、二人は足を止めて短く言葉を交わした。拾えた音は、みなくち。それから、行き先らしい何かの名。荷の男の視線が、悠人と自転車の間を何度も往復した。自分のことを説明しているのだろう。何と説明されているのかは、分からないままだった。
畦の先で、それまでとは違う道へ出た。
幅がある。土は固く踏まれ、太い轍がいくつも重なっていた。遠くを、人が二人、こちらとは別の向きへ歩いていく。やへえと呼ばれる男たちは、その道を行かなかった。横切って、すぐにまた田の間の細い道へ入る。
今までの道よりは、大きい。分かったのは、それだけだった。
歩きながら、悠人は若い男に身振りで聞いてみた。手を前へ出し、まだ遠いのか、と首をかしげてみせる。若い男は少し考えて、前方の林を指差し、それから空を仰いで手のひらを日の高さに掲げた。
林の向こう。日があのあたりへ来る前。
たぶん、そういうことだろう。分かったのはそれだけで、それで十分だとも思った。
日が高くなりきる前に、目的地は見えてきた。
大きな農家のようで、違った。土を盛った囲いが屋敷の周りを走り、その外に浅い堀が巡っている。木の門は太く、柵と生垣が続き、門の内には大きな主屋と、付属の建物がいくつも並んでいた。そして、門を出入りする男たちの何人かが、腰に刀を差していた。
悠人の知る城にも、役所にも見えなかった。それでも分かった。ここはさっきの村より上の場所だ。建物ではなく、門と、武器と、人の立ち方がそう告げていた。
歩きながら、悠人は一つの考えを、初めてはっきりと頭に置いた。
ここは、昔の日本なのではないか。
夢なら長すぎる。撮影なら、どこかに機材や現代の靴が見えるはずだ。自分の頭がおかしくなった可能性も考えた。けれど、空腹も、寒さも、湿った靴も、踵の痛みも、一晩眠って目覚めたことも、どれも現実的すぎた。
昔の日本だとしたら、いつなのか。江戸時代か。それより前か。分からない。ただ――日本語のはずなのに、拾えるのは短い言葉ばかりだった。昔の言葉は、本当にこれほど違うものなのだろうか。その疑問だけが、答えのないまま残った。
門の近くにいた男が一行に気づき、進み出て止めた。
やへえと呼ばれる男が進み出て、短い口上を述べた。名乗りらしい言葉、みなくちという音、それから用向きらしい言葉が続いた。男が何かを問い返し、それから内へ引っ込んだ。
一行は、待たされた。
それは長い時間だった。少なくとも、悠人にはそう感じられた。立ったまま、誰も座らず、誰も話さない。足の裏がじんわりと痛み、汗が背中を伝う。それでも、やへえと呼ばれる男は、一度深く頭を下げたきり、姿勢を崩さなかった。悠人はその背中を、少し後ろから見ていた。水口では、この男が裁く側だった。座ったまま人の処遇を決め、村人たちが従う側だった。その男が今、門の前で頭を下げ、返事を待って動かずにいる。
自分を連れて来た事情について、頭を下げている。
正確なところは何も分からない。それでも、それだけは分かる気がした。軽い気持ちで連れて来られたのではない。そしてこのことは、どうやら、この男自身の立場にも関わるらしかった。
やがて門の内から、男が出てきた。
刀を差した、目つきの鋭い男だった。歳は三十をいくつか過ぎたあたりだろうか。歩き方に無駄がなく、視線が最初から悠人に据えられていた。やへえと呼ばれる男がその男へ経緯を話し始めると、いつの間にか、別の男たちが悠人を囲む位置に立っていた。長い話は、やはり追えなかった。短い言葉は、身振りと重なれば分かる。それなのに文になると、知っている音まで意味がほどけていく。
おけ、と短い音がした。指の先は自転車と地面。そこへ置け、という意味だと分かる。従う。さがれ、に近い音。数歩下がる。て。両手を開いて見せる。
次に命じられたのは、脱げ、という身振りだった。悠人は合羽を脱ぎ、敷かれた筵の上へ広げた。ポケットを一つずつ空にし、袋布を引き出せるところは引き出して見せる。そでぐち。すそ。こし。命じる音は短く、身振りと重なって、そのたびに意味が立った。靴も片方ずつ脱ぎ、中を見せ、底を返して見せる。身振りに従って、靴下を少し下げ、足首も見せた。囲む男たちは位置を動かさず、刀を差した男は距離を保ったまま、目だけで確かめていく。
財布。家の鍵。替え芯とレシートの袋。最後にスマートフォンを筵へ置いたとき、男たちの間に短い緊張が走った。刀を差した男は身をかがめて覗き込んだが、指一本、触れなかった。誰も品物に手を伸ばさない。刃物を探しているのだと、途中で気づいた。見慣れない衣服のどこに何を隠せるか分からないから、全部を見ているようだった。乱暴ではなく、ただ正確に。
刀を差した男は、その間、一度も悠人から視線を外さなかった。
乱暴なことは、何ひとつされなかった。声も荒くない。それなのに、悠人の背中には汗が伝った。この男の腰にあるのは、画面か、展示ケースの向こうでしか見たことのないものだ。それが手の届く距離で、使う人間の腰に差さっている。近い、と思った。刀というものは、こんなに近くに来るものなのか。
検分が終わった。刀を差した男が顎で衣服を示す。着てよい、という意味らしい。悠人は湿った靴下のまま靴を履き直し、合羽を羽織った。それを見届けてから、刀を差した男は短く何かを命じた。
囲んでいた男たちが動き、悠人は門の近くの小屋へ導かれた。がらんとした、何もない小屋だった。土の床に、筵が一枚、後から投げ入れられた。処分が決まったのか、まだなのか、それすら分からない。ただ、追い返されはしなかった。斬られもしなかった。少なくとも今すぐには――そう察するだけだ。自転車と品物は、小屋から離れた、見張りの位置から見通せる場所へ、悠人自身の手で移させられた。
日が傾き始める前に、やへえと呼ばれる男と若い男、もう一人の村人は帰り支度を始めた。
別れ際、やへえと呼ばれる男が悠人の前に立った。目を見て、短く何かを言う。意味は分からなかった。ただ、逃げるな、だろうと思った。悠人は深く頷いた。男の目元から、ふっと力が抜けたように見えた。安堵なのか、疲れなのか。それも分からないまま、男は背を向けた。
三つの背中が、門の外へ遠ざかっていく。若い男だけが一度振り返り、すぐ前を向いた。
悠人は小屋へ戻され、戸が外から閉められた。
日が暮れる前に、戸が一度細く開き、水の椀と、薄い粥らしきものが差し入れられた。悠人は黙って食べ、椀を戸口の近くへ戻した。
夜になった。
戸の外に、見張りの気配がある。それは昨日と同じだった。ただ、咳の音が違った。昨夜、戸の外で聞いた小さな咳とは違う。知らない誰かの咳だった。
新しい小屋の、新しい筵だった。悠人は昨夜と同じように端を体へ巻いた。同じやり方で、同じ夜のはずだった。それなのに、眠りは昨夜より遠かった。




