第3話 どこの誰か
道の両側に、垣根をめぐらせた家が増えてきた。畑の先に藁ぶきの屋根が寄り集まり、気づけば悠人は、集落の中を歩かされていた。
犬が吠えた。畑の間から、戸口の陰から、視線が集まってくる。子どもが一人、悠人と目が合った途端に走って消えた。囲まれて歩く余所者など、そうそう来ないのだろう。誰もが距離を保ったまま、誰も目を離さなかった。
道々、また同じ音が聞こえた。みなくち。前を歩く男たちのやり取りに、その音だけが何度も混ざる。悠人は思い切って足元の地面を指差し、囲みの中の若い男へ顔を向けた。
「みなくち?」
若い男は一瞬まばたきをして、それから短く頷いた。
通じた。たったそれだけのことに、胸の奥が少し軽くなった。ここは、みなくち。地名なのか、村の名なのか、それすら分からない。それでも、ここへ来て初めて、問いと答えがかみ合った。
連れて行かれたのは、集落の中でもひときわ大きな、垣根と庭を構えた屋敷だった。母屋のほかに納屋や作業場が並んでいる。自転車は身振りで示され、悠人自身の手で庭先へ置かせられた。やはり、誰も触ろうとしない。悠人は土間の隅に座らされた。
しばらくして、小柄な若い女が椀を運んできた。白湯だった。
「ありがとうございます」
悠人は反射的に目を合わせ、頭を下げた。女の動きが止まった。正体の知れない男にまっすぐ見つめられ、聞き慣れない調子の長い言葉を向けられて、返してよいのかどうか分からない――そんな固まり方だった。目を伏せ、椀を離すように置いて、足早に下がっていく。土間の端では、村人の一人が腰を浮かせかけていた。得体の知れない男が、この家の若い女へ勝手に声をかけた。そう見えたらしい、というところまでは悠人にも読めた。
何か、間違えた。それだけは分かった。礼を言った――それだけの、はずだった。
それでも、白湯はありがたかった。ひと口目だけためらい、あとは乾いた喉に任せて飲み干した。
白湯の椀が下げられると、間を置かずに、年配の男が悠人の正面へ座った。悠人を村へ入れると決めた、あの男だった。周りに村人が数人、立ち会うように腰を下ろす。あの若い男は、悠人の斜め後ろにいた。
尋問は、静かに始まった。
年配の男はゆっくり話した。悠人を指差し、それから戸口の外を指す。拾えた音は、どこ、むら、もの。どこの村の者か――たぶん、そういう問いだ。
「しずおか……ふじし。いまいずみ、です」
知っている地名を、大きいものから順に並べた。男たちの顔は動かない。どの音も、どこにも届いていなかった。自分の家の住所が、ここでは場所を指さない。その事実が、ゆっくりと悠人の腹に落ちていった。
問いは形を変えて続いた。男は指を折り、人を数えるような仕草をする。ちち、という音が聞こえた。家族のことだ。悠人は父の名を答えた。たかせ、と姓だけが繰り返され、男は村人たちを見回した。村人たちは首を振る。高瀬という家を、誰も知らない。そういうことだろう、と見当をつけるしかなかった。
誰も、悠人を知らない。当たり前だった。
身の上を説明しよう、と悠人は思った。単語を短く区切り、身振りを足して並べる。
「学校……学生、です。試験に、落ちて。それで……浪人、です」
浪人。
最後の一語だけが、はっきりと通じた。
男たちが顔を見合わせた。年配の男の目が細くなり、問いが重なる。あるじ、という音が続けて聞こえた。主。仕える相手のことだ、たぶん。
言った直後に、悠人は思い出していた。時代劇で聞く浪人は、受験生のことではない。主を失った、流れ者のことだ。同じ言葉が、ここでは別の意味で立っている。
「違います。そういう意味じゃ、なくて……侍とかでは、ないです」
言い直そうとしたが、代わりに置ける言葉がなかった。学校も試験も通じないのに、浪人だけが通じてしまった。あるじは、と重ねて問われ、首を振って「いません」と答えるたび、主のない、素性の知れない流れ者という輪郭だけが濃くなっていく。撤回は宙に浮いたまま、場の警戒は一段深いところで固まった。
てら、という音も出た。寺から来たのか、寺に知る者がいるのか、それとも別のことか。問いの狙いまでは分からず、悠人が首をかしげていると、男は問いを変えた。言葉を変え、身振りを変え、同じあたりを探ってくる。悠人を指し、村人たちを指し、手のひらを上へ向けて、誰かを探すような仕草をする。お前を知る者はいるか。引き受ける者はいるか。おおよそ、そういうことらしい――という見当がつくだけで、正確なところは分からなかった。
同じ問いが言葉や身振りを変えて繰り返され、そのたびに村人同士の低い相談と待ちの時間が挟まって、問いが途切れたときには、土間に西日が低く差し込んでいた。
はっきりしたことが、一つだけあった。この土地には、悠人を知る者が一人もいない。悠人を引き受ける者も、一人もいない。それがどれほど危ういことなのか、男たちの顔つきが教えていた。
悠人は、言葉をあきらめた。
ポケットを指差し、両手を開いて見せる。いきなり懐へ手を入れてはいけない。それくらいは、この一日で分かるようになっていた。年配の男が、顎でわずかに頷く。
悠人は一つずつ、床へ置いた。財布。開いて、札と硬貨とカードを見せる。家の鍵。替え芯とレシートの入った小さな袋。男たちは首を伸ばして覗き込んだが、誰の顔にも、分かった、という色は浮かばなかった。当然だと、悠人ももう思っていた。これらは何も証明しない。ここでは、ただの奇妙な品だった。
日はさらに傾き、土間は薄暗くなり始めていた。悠人は最後に、スマートフォンを手のひらに載せ、皆に見えるように掲げてから、ゆっくり点灯させた。
薄闇に、画面の光が浮かんだ。
短いざわめきが起きた。後ずさる者がいた。身を乗り出したのは、若い男だけだった。悠人は画面に家族写真を出し、そっと向きを変えて見せた。
「父と、母と、姉です」
小さな板の中に、人がいる。男たちは覗き込み、顔を見合わせ、誰も何も言わなかった。畏れと困惑が、土間に薄く積もっていく。年配の男だけが、長いあいだ動かなかった。写真と、悠人の顔を、何度も見比べていた。
やがて男は目を伏せ、短く息を吐いた。何かが決まった顔だった。ただそれは、悠人を信じた顔ではなかった。これは自分たちだけで扱ってよいものではない――そう見切った者の顔に、悠人には見えた。
男が立ち会いの村人へ何かを告げた。誰かが不満らしい声を上げる。男は戸口の外の、暮れかけた空へ目をやり、短く言い返した。やり取りは、それで収まった。年配の男と対等な調子で言い合っていた村人が、最後に呼びかけた声の中に、やへえ、に続けて敬称らしい音が付いているのを、悠人は拾った。名前か、呼び名か。音だけを覚えた。
悠人への沙汰は、身振りで伝えられた。立て。来い。連れて行かれたのは母屋ではなく、庭の隅の納屋だった。床に並べた品々は悠人自身の手で拾い集めさせられ、納屋の壁際、戸口から見通せる場所へ置くように指し示された。誰も触らないまま、置き場所だけが決まっていく。入れ替わりに、筵が一枚、投げてよこされた。縄はかけられなかった。代わりに戸が外から閉められ、木の閂が掛かる音がした。板の隙間の向こうには、あの若い男が立つ気配がある。
夜になって、戸が細く開いた。
戸口に立ったのは若い男で、その肩越しに、昼間の小柄な女の姿が見えた。女は椀を若い男へ渡すと、すぐに下がっていった。若い男が土の床へ椀を置き、顎で示して、戸口へ戻る。悠人は今度は誰の目も見ず、声も出さず、小さく頭だけを下げた。
椀の中は、薄い粥だった。
前夜の夕食から、ほぼ一日ぶりの食べ物だった。粒の数えられそうな一杯が、腹の底に熱く落ちていく。うまい、と思った。この状況で、と自分で呆れるくらい、はっきりとうまかった。
筵を床に敷いて横になる。夜気が薄い筵ごしに這い上がってきて、しばらく我慢して、あきらめて、端を引き上げて体に巻いた。
それから、壁際の品々のところまで膝で進み、スマートフォンだけを手に取った。もう一度、写真を見たかった。指を画面へ伸ばしかけて、電池の残りを示す数字を思った。今朝から何度も画面を点け、再起動を繰り返し、地図まで開いている。もともと、家を出たときから多くはなかった。残りは、もういくらもない。ここで充電する方法を、悠人は知らない。
側面のボタンを長く押した。画面が一度だけ明るくなり、それから落ちた。減っていくものを、これ以上は減らせない。
そのまま、元の場所へ戻した。
戸の外に、気配があった。小さな咳。衣擦れ。時折、土を踏む足音。あの若い男が、そこにいる。
見張られている。分かっていて、悠人はその気配が途切れないことに、少しだけ安心していた。目を閉じると、粥の熱がまだ腹に残っていた。




