第2話 知らない川原
川の音で目が覚めた。
頬に濡れた草が当たっている。体の下から冷たさが染みてきて、悠人は呻きながら起き上がった。朝らしい薄い光。空は低い曇りで、霧が地面近くまで降りている。すぐ横に、自転車が倒れていた。
雷。白い光。そこで記憶が切れている。
落雷で気を失った。そこまでは分かる。だが、倒れたのは家の手前の道のはずだ。それがなぜ、川原で草を枕にしているのか。考えはまとまらないまま、ばらばらに浮かんでは消えた。頭に痛みはなく、手足も動く。合羽の内側に手を入れると、シャツの胸ポケットの小さな袋はそのままだった。ズボンのポケットには財布とスマートフォンと家の鍵。全部ある。全身が泥だらけで、靴の中まで濡れているだけだ。
とにかく、帰ろう。母には怒られるだろうが、それは仕方がない。
自転車を起こして、悠人は周囲を見た。そして、手が止まった。
川がある。だが、知っている川ではなかった。コンクリートの護岸がなく、草の生えた土手が崩れた形のまま水際まで続いている。橋も、電線も、舗装された道も見当たらない。建物の屋根も、鉄塔も、看板も、何ひとつ視界に入らなかった。
霧のせいだ、と思おうとした。けれど霧が薄れている方角にも、あるのは草地と林と、湿った黒い土だけだった。
音も足りなかった。川と、鳥と、風で草の擦れる音。それだけだった。車の走る音がない。どこかの部屋の室外機がうなる、あの低い音もない。今泉の朝は、こんなに静かではない。世界から生活の音だけを抜き取ったような静けさが、景色の異様さよりも先に、悠人の胸を冷やした。
悠人はその場でゆっくり一回りして、空の高いところに富士山の大きな影を探した。ない。それなら、と愛鷹山のなだらかな稜線を探す。それもない。曇りと霧が、山という山を呑み込んでいた。生まれてからずっと、考えなくても分かっていたはずの方角が、初めて分からなかった。
スマートフォンを出す。画面は点いた。時刻は動いている。ただ、電波の表示だけが圏外のまま変わらない。家にかけようとして、指が止まる。圏外ではかけられない。何度か持ち上げ、場所を変え、再起動もした。表示は変わらなかった。通話も検索も使えない。地図を開いても、現在地を示す印はどこにも現れなかった。残っているのは時計と、写真と、カメラと、ライト。手の中の板は、外とのつながりを失っただけで、ひどく小さな道具になった。
「……どこだよ、ここ」
声に出すと、川の音に消えた。
悠人は自転車を押して歩き出した。人がいれば道を聞ける。道が分かれば帰れる。それだけを考えることにした。分からないことを数え始めると、足が止まりそうだった。
川沿いの草地はぬかるみ、自転車のタイヤが泥に細い筋を残した。やがて行く手に、湿った土の区画が広がった。水が浅く張って、泥がむき出しになっている。沼というほど深くはない。荒れ地だろうと見当をつけて、悠人は縁を突っ切ろうとした。
一歩目で、足首まで沈んだ。
泥が靴を掴んで離さない。体が傾き、咄嗟に重心を落として踏みとどまる。長年ボールを追って染みついた足の運びが、こんなところで役に立った。抜け出す拍子に、区画を仕切る低い土手を片足で崩してしまい、泥水が隣へ流れ込んだ。
「うわ、ごめん……」
誰に言うでもなく謝って、悠人は土手を避けて歩き直した。妙な土地だった。同じような区画が、形も大きさも揃わないまま、いくつも続いている。
人声が聞こえたのは、その先だった。
男が三人、いや四人。振り返った彼らを見て、悠人はまず服に目を奪われた。色の抜けた、ごわついた布の着物。裾を膝でからげ、髪を頭の上でまとめている。祭りの格好、時代劇のロケ、そんな言葉が頭をかすめて、どれも消えた。男たちの顔に、演技ではない警戒があったからだ。
「すみません……!」
助かった、と思って上げた声の途中で、男たちが一斉に構えた。鍬が、棒が、こちらへ向く。
「あの、道に迷って――」
返ってきた言葉は速く、鋭かった。日本語のはずだった。音の並びは日本語なのに、文がまるで頭に入らない。切れ端だけが拾えた。どこの。なにもの。あとは知らない音だった。
問い詰められている。それだけは分かった。
悠人はゆっくり両手を開いて見せた。武器は持っていない。それが伝わるように、声を低く小さくし、膝を折ってその場にしゃがんだ。相手を刺激しない。まず、それだけを考えた。
「高瀬です。高瀬、悠人。道に迷って……ここが、どこか」
男たちの眉が寄る。名乗りが通じた気配はなかった。それどころか、悠人が丁寧に話すほど、彼らの困惑は深くなるようだった。誰かが吐き捨てるように何か言い、別の誰かがそれを制した。
制した声の主は、まだ若い男だった。悠人と歳の変わらない、日に焼けた顔。若い男は構えを解かないまま、悠人をじっと見ていた。手を、靴を、泥だらけの合羽を、倒れた自転車を、順に。
悠人も動かなかった。震えは寒さのせいだったが、抑えられなかった。
若い男が短く何か言うと、鍬の先がわずかに下がった。代わりに男たちの目が自転車へ集まる。輪になって覗き込み、口々に何か言い合う。だが、誰一人として手を触れようとはしなかった。棒の先でつつくことすら、しなかった。
やがて一人が走って行き、しばらくして年配の男を連れて戻った。
年配の男は、悠人の前で足を止めた。他の男たちより落ち着いていて、目に威圧よりも計算があった。短い問いがいくつか飛ぶ。悠人は聞き取れた切れ端に、知っている言葉を返した。名前。迷ったこと。家に帰りたいこと。どれも通じた手応えはなかった。
年配の男は問いをやめ、悠人の手を見た。それから履物を、荷物を、最後に目を、長く見た。
沈黙のあと、男は村人たちへ向けて何かを告げた。短いやり取りがあり、誰かが不満そうな声を上げ、それでも決まったらしかった。やり取りの中で、同じ音が二度、三度と聞こえた。みなくち。地名なのか、人の名なのか、それとも全然違う何かなのか、悠人には判別がつかなかった。年配の男が顎で自転車を指し、次に悠人を指す。触る気はない、お前が持て――そういうことらしい。
悠人は自転車を起こした。殺される流れではない、と思うことにした。少なくとも今は、連れて行く気なのだ。
男たちに囲まれて、悠人は歩いた。前と後ろを固められ、逃げ道はない。走って逃げる、という考えは浮かんでは消えた。逃げてどこへ行く。道も方角も分からず、電話も通じず、頼る相手もいない。今のところ、この人たちだけが人間だった。
ここは、自分の知っている日本ではないのかもしれない。浮かんだ考えを、悠人はまだ言葉にできずにいた。
道は泥で、自転車のタイヤが背後に細い筋を二本、引き続けている。列の最後尾の男が、その筋を何度も振り返っては、気味悪そうに間合いを取った。轍が珍しいのか、怖いのか。どちらにしても、悠人が押すこの二輪は、彼らの知っているどの道具とも違うらしかった。
道の先に、さっきと同じ湿った区画が見えてきた。今度は人がいた。腰を曲げ、泥に手を入れて働いている。その姿勢を見た瞬間、悠人の背中を冷たいものが走った。
田んぼだ。あれは、田んぼかもしれない。
だとしたら、さっき踏み荒らしたのは。崩した土手は。
考えかけたとき、腹が、盛大に鳴った。
自分でも驚くほどの音だった。前を歩く男が振り返り、囲みの足が一瞬止まる。誰も何も言わない数秒のあと、若い男が呆れたように短く何かを言った。
意味は分からない。ただ、そこに殺気がないことだけは、分かった。




